C.092 後悔の涙
がらんとしていて、味気ない。
つまらない。
向かおうとしても足が重たくなって、気が進まない。
“大切な人のいない教室”という空間は、小説や漫画の世界ではそんな風に表現される。
だが、フィクションは所詮フィクションであって、理想を描いた夢物語でしかないのだと花音は思う。だって、里緒のいない教室はちっともがらんどうには見えなくて、むしろ以前と同じだけの熱量を持った喧騒に満ちていたから。
里緒を失ってから数日が経とうとしている。この数日間、普段以上に話しかけられたし、「元気出して」といって頭を撫でられたし、夕食や外遊びにも誘われた。暮らしぶりは里緒の失踪前と何も変わらなかった。もしかするとそれは試験前に入って部活が制限され、クラスメートたちが教室にたむろするようになったからかもしれない。でも、その程度のことで起きる変化なんて、ほんの微々たるもののはずだ。
(……こんなにちっちゃかったんだ。里緒ちゃんの、存在感)
雑談や遊びの端に紛れ込んで空っぽの笑いに包まれ、新しい楽しみや喜びを次々と見つけるたびに、花音は無意識のうちに里緒の虚像をそこへ並べながら、淡色の息をそっと漏らし続けた。里緒にまとわりついて“一番の友達”を気取っていた頃には見えなかった教室の景色が、人間模様が、花音の日常にはいくつも散らばっていた。
なのに、なぜだろう。
新しい世界のなかでいくら笑っても、はしゃいでも、少しも心が浮き立つことはなかった。
週の明けた火曜日のことだったか。
【一年だけで勉強会やろうぜ!】
パーカッションの元晴が、メッセージアプリの管弦楽部一年生グループにそんな提案を投下してきた。同じセクションの徳利が三年同士で似たような企画を立てていて、本人としてはそれを真似したつもりだったらしい。
【川西が勉強教えてほしいだけでしょ】
【俺らだって暇じゃないんだぞ】
舞香やホルンの唐也がメッセージで不平を垂れていたようだったが、反対の声が目立って大きかったわけでもなかった。実際、危機感を覚えても不思議ではないほどに弦国の定期試験は難しいのである。七月二日の夜、ファミレスで実行に移すことが決まり、花音も【行く】と返答した。
万が一を思って、里緒にも参加の催促のメッセージを打ってみた。
ついに既読のサインがつくことはなかったが、もう、新たに涙があふれ出すこともなかった。
『カラフル』は混雑していた。芸文附属しかり、都立立国しかり、このあたりの学校はどこも試験期間の真っ只中のようで、店内は制服姿の中高生ではちきれそうになっていた。「二時間くらいなら居座れるかなぁ」なんて笑い合いながら席について、つまみになりそうな食べ物を適当に選ぶ。それをドリンクバーとともに注文してから、花音たちは勉強会のモードに入った。
残念ながら花音は勉強ができる側の人間ではない。元晴ともども、緋菜や真綾のような真面目に授業を受けている子たちに「ごめん!」と手を合わせ、ノートを借り受けて必死に中身を頭に詰め込む体たらくである。しばらくして皿いっぱいに乗った黄金色のフライドポテトが運ばれてきたが、とてもポテトなんて頬張っている場合ではなかった。自分ひとりが猛勉強に追われているのではないかと不安になったけれど、隣で同じようにシャーペンを走らせ回る元晴の姿が時おり目に入って、いささかの安堵に花音は染み入った。
里緒に拒絶されたあの日を境にして、ここ数日、とても勉強に励むことのできる心の状態ではなくなってしまっていたところだった。こんな企画を立ち上げてくれた元晴には、心の底から感謝しなければならないと思った。
「なぁ、花音」
ポテトをつまんだ指をシャーペンに持ち替え、ルーズリーフに板書を書き写しながら、ひそひそ声で元晴が尋ねてきた。
「高松とは連絡取れてんの。あいつ、こないだの試験前最後の練習にも姿見せなかったけど……」
「取れてないよ。ぜんぜん」
「……なんか平気そうだな」
「そうかもしんない」
嘯いて、教科書に目を戻した。平気なわけがなかったが、今は里緒のことを思い出したくなかった。思い出そうとしたらきりがないし、また、泣いてしまいそうになるから。
「やっぱショックだったのかなぁ」
ペン先をノートに引っかけたまま、ため息をついた元晴は天井へ視線を放った。
「だって原因もわかんないのに音が出なくなったんだろ。そんなの、誰だってパニクるに決まってんじゃん。経験者ならなおのことだろうしさ……」
「……分かるんだ」
応じるつもりはなかったのに、つい返事をしてしまった。「そりゃ分かるよ」と元晴は口を尖らせた。
「俺、中学の時は水泳やってただろ。たまに足がつって溺れそうになると、やっぱ俺らみたいな経験者でも焦るわけよ。大して深くもないプールのくせに、息ができなくなる恐怖に押されて無意味に暴れちまう」
「へぇ……。慣れてても、ダメなんだ」
「当たり前に泳げるからこそ怖いんだよ。溺れることになんて慣れてねーもん」
泳げることは当たり前でも、溺れないのは当たり前ではない。元晴の言葉には説得力があった。
考えてみると、管楽器を演奏することと水の中を泳ぐことは似ている。どちらも息が思うままにならないし、上手く呼吸をコントロールできた者だけが腕を上げてゆくのだ。
花音はなぜか目頭が熱くなるのを予期した。誤魔化したい一心で、「あはは」と笑った。
「肺活量あるんだし、太鼓叩くのやめて金管とかにしたらよかったのに」
「徳利先輩がいなかったら俺もそうしてたよ」
元晴も笑って返した。誤魔化しに失敗したのを悟った花音は、トイレ、とつぶやいてとっさに席を立っていた。
元晴をパーカッションに引き入れたのは、同じく中学で水泳部を経験していた三年の徳利だった。決まりきったリズムを完璧に、かつ美しく打ち鳴らし、他の楽器の音色との調和をひたむきに追求する先輩の姿に、元晴は文字通り胸を打たれてパーカッションを選んだのだという。
里緒の奏でるクラリネットに心を惹かれ、憧れ、同じ音を目指したいと願って木管セクションに飛び込んだ花音と、元晴の楽器選びの動機はとても似通っている。だからこそ、差を感じる。年相応に育った胸が鋭い痛みを放つ。
(元晴はいいなぁ)
手洗い場の鏡の前に立ち、そっと目元を指先でこすってから、花音はうつむいた。
(まだ、目指してた存在がすぐ近くにいるんだもんね。私には見えなくなっちゃったのに……)
どうして里緒に怖がられてしまったのか、せめてその答えの片鱗だけでも教えてもらえたら、もしかすると花音も改善の努力ができたかもしれないし、そうしたら里緒が花音から完全に離れることもなかったのかもしれない。だが、現実はそうではなかった。花音を力いっぱい突き放した里緒はやがて学校にすら来なくなり、連絡も途絶え、花音は里緒へアクセスするすべての手段を奪われた。
どうしようもなかったのだ。
そう決め込まねば、今はやっていけそうにない。
角膜が潤んで視界に靄をかけてゆく。花音は引きずり出したペーパータオルを目尻に強く押し付け、そこへ滲んだ無数の感情を吸い取って、捨てた。
「だからみんな同罪なんだよ!」
▶▶▶次回 『C.093 後悔の叫び』