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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第三楽章 不協和音の波に打たれて
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C.090 号哭

 





 悪い予感は当たった。帰り着いてみると案の定、大祐は烈火のごとく怒っていた。


「学校には行くなと言ったろう! どうして守れないんだ!」


 申し開きのしようもなく、里緒は自発的に玄関に正座した。長丁場の尋問になる予感がしたが、今の自分ならば何時間でも黙って座っていられる気がした。

 大祐は腕組みのまま里緒を睨み、低い声をひねり出した。


「何しに行ってたんだ。教材も何もなかったんだろ」

「……部活、行きたくて」

「適当なことを言うな。なら、どうしてこんな半端な時間に帰ってきた。部活はもっと遅い時間まであるだろう」

「…………」


 里緒は黙ったまま、スカートの裾から覗く貧相な膝小僧に目を落とした。疑われても仕方がないと思った。実際問題、部活にはほとんどまったく顔を出さなかったのだから。


「部活がそんなに大事か。その楽器(クラリネット)がそんなに大事か」


 つばを飛ばした大祐の手が、クラリネットのケースに伸びた。

 取り上げられる──。浅い危機感が胸を締め付けた。いつもの里緒なら腕にすがりついてでも止めただろう。だが、乱暴に宙を舞うケースの軌道が視界を横切っても、里緒は抵抗しなかった。したいとも、しなければならないとも、思わなかった。

 吹けない里緒に楽器は()らない。何本あろうと何の価値もない。

 結局、大祐はクラリネットを手荒に扱う真似はしなかった。何の反応も見せない里緒を見下ろした大祐は、大袈裟なため息とともに里緒の横へケースを下ろした。


「……里緒。頼むから、勝手な行動を取らないでくれ。父さんがホテルから出ないように言った理由は分かってるんだろ」

「……私が、記者に捕まったら、面倒なことになっちゃうから」

「里緒のためも思って言ってるんだ。そういう言い方はないんじゃないのか」

「他の言い方なんて……思い付かないよ」


 投げやりに答えた。もう、何と言われようと殴られようと、どうだってよかった。


「里緒っ────!」


 たちまち大祐は激昂した。しかしすぐには言葉が続かなくて、膝を揃えた里緒の前に悄然と大祐は座り込んだ。緊張の糸がすべて切れたかのような顔つきに、里緒の心も少し、重たい音を立てて歪んだ。

 真っ暗な瞳を床に向けたまま、大祐はかすれた声色で(うめ)いた。


「……最悪だ。何もかも。何の諒解も得ずに俺たちの過去を世間にばらまきやがって。何が報道だ、何が報じる自由だ、知る権利だ」

「…………」

「裁判だってなるべく穏便な形で済ませたかったのに……。こんなに話が大きくなったらもう、おしまいだ……」


 座り込んだ大祐の口からはだらしなく愚痴が流れ出す。聞き慣れない不穏な単語に、里緒の耳は敏感に反応した。


「お父さん。()()、って」


 いったい何のことか分からなくて、つい尋ねてしまった。不覚とばかりに大祐は身を引いた。が、もはや隠し立てをする意味も見失ったのか、結んだ口を諦めたように開いた。


「今、里緒と母さん──瑠璃のことで、学校と関係者を訴えてやろうとしてるところだったんだ」

「そんなの、聞いてない」

「当たり前だろ! こんなこと話していったい何になる」


 理不尽極まりない怒られ方である。里緒は首をすくめて、涙があふれるのを必死にこらえた。


「弁護士に頼んで訴状を準備して、もう少ししたら裁判所に訴え出る用意が整うところだった。こんな騒ぎになる前なら、向こうだって大人しく出廷してきたかもしれないんだ。でももう手遅れだ! あの新聞が、ネットの連中が、ぜんぶ台無しにしてくれた……!」


 いざ話し始めると、大祐はぐんぐん饒舌になってゆく。しかし大祐が言葉を重ねれば重ねるほど、ますます里緒にはわけが分からなくなった。

 瑠璃の死と里緒のいじめに、いったい何の関係があるというのだろう。だいたい、それを言うなら大祐こそ、当事者の里緒に一言くらい相談があって(しか)るべきだったのではないのか。


「……裁判なんか」


 里緒は無意識に口答えしていた。


「裁判なんか起こしたって、いくらお金を払われたって、お母さんは帰って来ないのに」

「そんなことはどうでもいいんだ!」


 すぐさま大祐が吠えた。


「母さんが帰って来ないのは当たり前だ、でもそうじゃない! 金がほしいわけでもない! やつらには自分のやったことに向き合って、行いを恥じて、起こした結果を償わせなきゃいけない! そのための裁判なんだ、勝手なことを言うな……っ!」

「だとしたって、お母さんの自殺は私のいじめとは関係ないじゃない! お母さんのためだなんて言って、勝手にお母さんを巻き込まないでよ!」


 里緒も負けじと叫び返した。薄っぺらな壁越しに隣室まで聞こえていてもおかしくなかったが、この期に及んで二、三の恥が増えたくらいで大差はないと思った。

 今さら裁判で償いを求めたところで何になるというのか。そもそも瑠璃は償いを望むような(ひと)ではなかった。謝罪くらいは求めたかもしれないが、そうだとしてもそれは里緒に対してであって、瑠璃自身に対してではない。瑠璃のことを理解していないのは大祐の方だ!


「……新聞でもテレビでもさんざん報道されてたのにまだ知らなかったのか」


 声を震わせ、大祐は立ち上がった。爛々と燃える瞳の光が里緒を突き刺し、ひびの入った心に爪を立てた。


「この際だからはっきりさせてやる。母さんが──瑠璃が死んだのは、里緒のせいだったんだぞ」


 里緒は虚ろに「え」とつぶやいた。

 頭の中が一瞬で真っ白に塗り潰されて、言われたことの意味を咀嚼できなかった。


「学校で里緒の受けていたいじめが、母さんに波及したんだ。ママ友いじめくらい知ってるだろう。母さんは他でもない、母さん自身の受けたいじめを苦にして首を吊ったんだ。その引き金になったのは里緒、お前だ!」


 なおも大祐は激しい言葉を並べ立て、血走った目で里緒を睨む。

 嘘だ、と思った。

 嘘としか考えられなかった。

 だってそんな事実は聞かされていない。

 里緒をやり込めるための方便だ。


「……そんなこと、お母さん、言ってなかった」


 (かす)れきった声は大祐の前でへろへろと床に落ちて、跡形もなく散らばった。大祐の反撃は雷のようだった。


「母さんがお前に配慮して言わなかっただけだ! いいか、忘れるな。あのとき苦しんでいたのは里緒だけじゃない。母さんだって、父さんだって、苦しみの真っ只中にいたんだからなっ!」

「嘘だっ────!」


 里緒は半狂乱で(わめ)き返した。こらえ損なった涙が、粒となって足元に散った。

 もう駄目だ。このまま大祐の前にいると壊れてしまう。とっさに手元にあったものを右手でさらい、それを抱きしめた里緒は部屋を飛び出した。どこにそんな元気が残っていたのか、エレベーターホールまでの道のりを死に物狂いで駆け抜ける。「里緒! 待て!」──追いかけてきた大祐の声は、エレベーターの金属扉が閉まる重たい音とともに欠片(かけら)も残さず遮断された。

 そのまま、行くあてもなく立川の街に走り出た。どこでもいい、ほんの小一時間でもいい、私のことを(かくま)って──。祈ったところでようやく手元の何かを見やった里緒は、とっさに(つか)んだのが通学カバンではなくクラリネットのケースであることに気付いて、愕然とその場に立ち尽くした。

 これでは財布も定期も手に入らない。みんな、通学カバンの中に置いてきてしまった。


「そんな……」


 失望を極めた里緒だったが、大切な瑠璃の形見を捨て置いてどこかに行くわけにもいかなかった。

 家の鍵とスマートフォンだけは持っている。

 かくなる上は、家まで戻るしかない。金銭も人伝(ひとづて)も失った今の里緒に、他に身を寄せることのできる場所はひとつもなかった。






 知らなかった。

 娘がいじめの渦中にいるのを知っていながら、瑠璃が自殺を企て、実行に移してしまった理由を。

 今だって里緒は知らない。誰も教えてくれなかったし、当の瑠璃さえ経緯を書き残してはくれなかった。里緒宛の遺書に書かれていたのは、ただ一言。


【私のクラリネットは里緒にあげる 大切にしてね】


 ──それだけだった。

 二度と言葉を交わすことはないと分かっていたはずなのに、その今際(いまわ)に瑠璃はわずか二十一文字の遺言しか残してくれなかった。もしも、それが里緒を恨む気持ちの(あらわ)れだったなら? 自分へのいじめの原因を作ってしまった里緒への、最初で最期の怨嗟の表出だったなら?

 すべて説明はつく。

 あり得ないと笑って()ね付けてしまえるだけの自信は、とうの昔にどこかへ落としてなくしていた。




 独りぼっちの里緒を嘲笑うように、四両編成のモノレールが鮮やかに頭上を追い抜いてゆく。

 今となっては乗れなくて正解だったと思った。楽器のケースだけを手にして乗り込んできた女子高生のことなど、誰もが奇異の目で見るに決まっているから。もしかするとどこかの誰かが高松里緒だと看破して、弾劾を始めるかもしれない。あの事件の被害者だ! こんなに被害者面しやがって! ──云々。


(でも、もう、いいや)


 里緒は自然と口角が上がってゆくのを覚えた。

 もう、この身を賭けて守るものなんて何もない。以前だってあったわけではなかったが、あの頃はクラリネットが吹けた。そこに生まれた存在意義にしがみついて、生きることを正当化できた。生きたいと願う理由があった。

 あの頃に戻りたい。

 でも、何べん過去に戻ったところで、しまいには同じ結果に回帰して嘆くことになるのが関の山だと思った。

 蹴つまずきそうになって慌てて里緒は前を見た。大きく揺られて舞い上がったクラリネットのケースから、軽やかに愉快な音が立った。

 ほんのわずか前までは、このクラリネットのことを瑠璃の形見だと思っていた。大好きだった母の遺してくれた、たったひとつの大切な形見。しかし今は、持ち手から伝わる管体の重みの中に、『呪い』というもう一つの意味を見出だすことができるのではないかと思った。


(知らなかったよ)


 里緒は顔を崩した。


(お母さん、私のこと、恨んでたんだね。死んじゃったのは私のせいだったんだね)


 知らなかったよ、そんなの──。噛み締めた歯に鋭い痛みが走って、このまま舌もろとも噛み切って死ねたらいい、と思った。それでも苦痛が足りないなら、モノレールの高架から飛び降りたっていい。中央線に()ねられたっていい。爪を剥がされ、肌を焼かれ、目玉を潰され、息絶えるまで拷問に晒されてもいい。瑠璃が満足して呪いを解く気になってくれるような死に方なら、どれほど残虐だって構わない。

 瑠璃に許してもらえるなら、なんだって──。


(……死んじゃった人に何を願ってるんだろ)


 馬鹿馬鹿しくなって、笑った。笑ったつもりだったのに、眉は傾いたままだった。

 許されるのなら大祐に許されたいと思った。花音や、紅良や、管弦楽部の人たちやクラスメートや、紬や拓斗に許されたかった。でも、それが二度と叶うことのない願いであることを、里緒は同時に理解していた。最後のチャンスはとうの昔に与えられていたのだ。すべて里緒が、この手で、無駄にした。

 団地の建物が黒々と立ち尽くしている。ふらつく足を叱咤して、最後の力を振り(しぼ)り階段を上った。幸いにも新聞記者や野次馬の姿はなかった。鍵穴に鍵をねじ込み、鉄の扉を開くと、たちまち生暖かな空気が鼻腔をついて広がり、里緒の体躯を丸ごと飲み込んだ。




 瑠璃を失って、一年。

 今日まで自分なりに頑張り続けてきたつもりでいた。

 高校に合格して仙台を離れ、独り暮らし同然の生活にも慣れた。クラリネットの鍛練を怠らなかった結果、自覚がないながらも音色を称賛され、たくさんの仲間が集まってくれた。演奏する機会だって何度も与えてもらえた。

 今度こそ失敗しなかったと思った。仙台ではなし得なかった大切な仲間も、自分の存在意義も手に入れて、今度こそは幸せな日々を生きられると思った。

 しかし、すべては都合のいい幻想に過ぎなかった。得たものはおろか、唯一の肉親だった大祐とも分かり合えなくなり、クラリネットも吹けなくなった。里緒の小さな手の中には、もう、希望と呼べるものは微塵も残っていない。

 もっと早くに知りたかった。里緒には初めから、幸せに近付く能力も資格もなかったのだと。そうしたらもっと早くに、もっと楽な形で、この無謀な挑戦に終止符を打てたのに。


 段ボールが無造作に積み上がるばかりの居間には、夕刻のオレンジ色の光が斜めに差し込んできている。黒々と描かれた影のなかに里緒は(くずお)れ、力なく膝をついた。

 努力の跡なんて見たくない。

 ぜんぶ、ぜんぶ、無駄になったのに。


「あ…………」


 声が漏れた。膝をついた途端、手の中を転げ落ちたケースが床に当たって、弾みで留め金が開いてしまったのだ。たちまち、クラリネットのパーツが蜘蛛の子を散らすように転がった。手の届かないほどの遠くまで。

 慌ててかき集めようと伸ばした手の先端から、その瞬間、全身を覆うすべての緊迫が砕け散って消えた。

 それは、心の形を保つ最後の力の均衡が、散ってゆくパーツを前にして敢えなく破壊されたことを意味した。


「……っう、うぁ……ああぁ……ぁ……っ……ああ……!」


 気付いたときには里緒は泣き崩れていた。床に座り込んだ姿勢のまま、歯止めの利かなくなってしまった大粒の涙をだらしなく流していた。(ぬぐ)うための腕には力が入らず、温かい日向に移動できるだけの足の力もなかった。

 勢いのままに嗚咽が喉を詰まらせる。そのまま息ができずに死ねたならいい、死にたい──。真っ黒に染まった心の残骸を握り潰して自分を呪った。


「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさいぃ……っ……!」


 叫ぶ声はあっという間に号哭に飲み込まれて、それでも里緒は泣き叫んだ。ようやく感覚の戻った指先を床に這わせ、やっとの思いで手繰り寄せた管体の一部を、小さな胸の前に抱きかかえた。泣いて、(わめ)いて、ぼろ雑巾も同然の姿になってもまだ涙はあふれ、スカートは涙の染みでまだら模様になった。

 金色のキイにも涙が次々に飛び散った。

 静かな夕方の輝きをたたえ、クラリネットは子供のように泣きじゃくる里緒の姿を見上げていた。ひとつ、ふたつと落ちてきた透明の滴は、やがて表面張力を失い、どこへともなく“形見”の上を落ちて消えていった。









「このまま返答がないようなら、我々も何かしらアクションを起こさなければならない」


▶▶▶次回 『C.091 職員会議』

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