C.089 音の喪失
朝の光に叩き起こされるのは快適かと思っていたが、案外、彼らの手段は暴力的で容赦がない。
目映さに呻きながら里緒が目を覚ますと、十二階から見渡せる外の世界はすでに太陽の支配下に落ちていた。時刻は午前九時。里緒にしては珍しいくらいの大寝坊だった。
(疲れてたのかな、私……)
そう思った。疲れるようなことは何もしていないのに。
重くてふらつく頭をもたげ、寝ぼけ眼をこすりながら里緒は大祐のベッドの方を見た。案の定、もぬけの殻だった。傍らのテーブルの上には置き手紙が広げられていた。
【学校には連絡しておいた。昼過ぎまで仕事に行ってくる】
こんな時にも大祐は仕事を休むことができないらしい。もっともどのみち、そこに大祐の姿があってもなくても、里緒の日常に大きな影響があるわけではなかった。
いつものくせでテレビを付けそうになって、慌ててリモコンを放り出した。しかし、他にすることがない。できることもない。昨日の授業の分の教材は揃っていたが、さすがに期末試験の勉強に取り組む気分にはなれそうもない。
(……せめて楽譜、読んでおこう)
里緒はカバンから楽譜のクリアファイルを抜き取って、ベッドの上に並べていった。どうせ練習したって上手くいかないのに──。たちまち頭の中へ悲観が膨れ上がったが、イヤホンで耳をふさぐことでどうにか誤魔化した。
退屈な時間はちっとも思うように流れていかなかった。
飽きるまで読譜をしても、まだ昼前。管体を組み立てて運指に没頭して、やっと昼。もちろん近所迷惑になるので音を出すことはできない。うんと小さな声でソルフェージュを試みたり、ブレストレーニングにまで手をつけたが、それでようやく午後二時を過ぎるばかりになった。
そして時間の経過の割に、練習の方にはほとんど身が入らなかった。
「……はぁ」
ひとつ譜面を片付けるたびに、ため息。休符にたどり着いて口がマウスピースを離れるたびに、ため息。一小節も歌わないうちにまた、ため息。
里緒の意欲は時間の浪費とともに削がれていった。
やっぱり、無理だ。
今の里緒にはこんな環境での練習はできない。
(思いっきり楽器、吹きたい)
そのためには最低限、このホテルから出なければならない。未装着のリードをいじくり回しながら悩むこと、十分。里緒はついに重い腰を上げた。
弦国に行こう。
(ごめんなさい、お父さん)
クラリネットのケースと、それから念のために通学用のカバンも担いでから、置き手紙に向かって謝った。『謝ったって里緒に何の責任が取れるんだ』と、置き手紙が怒りの声を発したような気がした。
思えば、この数日間、こうしてたくさんの人に無責任な謝罪を重ねてきた。このままいつまで里緒は謝り続けるのだろう。どれだけ謝れば、平和な日々を送ることを許されるのだろう。
きりのない悔恨に飲み込まれる前にカードキーを掴み、飛び出すように部屋を後にした。
地獄の電車をどうにか乗り切り、苦心の末に音楽室にたどり着いた里緒を、管弦楽部の部員たちは驚愕の眼差しで出迎えた。顔を見せるなり、居合わせた菊乃に問われた。
「今日、授業は休んだって聞いてたけど……」
「その、部活まで休むわけには、いかないと思って」
里緒は答えた。実に歯切れの悪い回答だったが、他に満足のいく答えも浮かばなかった。「そっか」と困惑も露に応じた菊乃の背後で、舞香や真綾までもが不安げな顔をして里緒に注目していた。花音だけが里緒のことを見ようとしなかった。自分はそういう存在になってしまったのだと、感情を読み取れない彼女の横顔に改めて痛感させられた。
里緒は今や、この部のヒロインではない。そればかりか、足取りを間違えれば一瞬で“お荷物”に転落する瀬戸際に、ぽつねんとクラリネットを抱えて立っている。
「しっかり休めたの」
はじめが重ねて問いただした。「はい」と里緒は形式的にうなずいて、体操の邪魔にならないようにカバンやケースを持って壁際へ急いだ。
セクションごとに分かれて、体操をして、音出しやロングトーンを一通り済ませて、それからようやく曲の練習に移る。それが管弦楽部のルーティンワークで、いつもの里緒のルーティンワーク。消化しないでいると普段通りの自分の音を発揮できないような気がする。いつも以上に身体は固く、足や腕の節々から痛みが漏れ出したが、平時のメニューを消化できたというだけで心はわずかに落ち着きを取り戻した。
──普段通りの自分の音って、何だろう。
ルーティンの合間にそんなことを思った。
あの自信なさげで頼りない、か細い音色のことか。あれはそもそも里緒が編み出した代物ではなくて、母の瑠璃が大切にしていた音であり、吹き方だった。里緒は真似事をしているだけなのだ。楽器の手入れの仕方ひとつとっても、しょせん瑠璃の劣化コピーに過ぎない。
里緒が自力で編み出したものなんて、この世界にはひとつもない。クラリネットも、人間関係も、髪型も、それ以外の何もかも。
(与えられた役割も果たせない私に、ここにいる資格なんてない)
里緒は早々に結論を出した。打ち出したそれはもはや信念を通り越して、強迫観念とさえ言えそうだった。
木管セクションの教室に移動しても、漂う空気は相も変わらずぎこちなかった。誰もがみな、里緒に気を遣うように小声で言葉を交わしている。花音と美琴に至っては一言も言葉を発さない。急かされるようにクラリネットを組み立てた里緒は、いつもと同じ手順でアンブシュアを口に描き、そこへマウスピースを押し当てた。
ああ、これでやっと、呼吸ができる。
そう思った。
『ス──────……』
クラリネットから発せられたのは、そんな間の抜けた空気の音だけだった。
おかしい。
いつもの柔らかな木管の音が鳴らない。
焦って二度、三度と息を吹き込む。長さ九十センチのクラリネットはうんともすんとも言わなかった。息が別の口を伝って逃げてしまっているかのようだった。
(なんで……っ)
里緒は必死に息を送り込んだ。いくら送り込んでも音は鳴らなかった。
一時だけ熱く燃え上がった身体が今度は急速に冷えてゆくのを感じながら、それでも諦めきれずに懸命に吹こうとした。だが、クラリネットは頑として音を発しなかった。
「何してんの、高松」
耐え切れなくなったように美琴が声を発した。里緒はクラリネットから口を解放して、ぽつり、答えた。
「……音が出ないんです」
「は?」
覗き込んだ美琴は疑り深そうに眉を歪めた。至極当然の反応だったことだろう。だって、つい昨日までは何の障害もなく吹けていたのである。
ちょっと貸して、と美琴が手を差し伸べる。ネックストラップを外して渡すと、美琴はそれを自分の口元に持っていって構えた。ただならぬ空気を察したのか、フルートを口から外した菊乃がこちらを凝視していた。花音も、舞香も、香織も、みんな。
『フォ──────』
クラリネットが唱った。耳の錯覚ではなかった。
「出るじゃん……」
指を離した美琴が狼狽気味につぶやいた。
そんなはずはない、確かに出なかったのだ。手の中へ戻ってきたクラリネットを、恐る恐る里緒は口にあてがった。普段通りの息遣いで、しっかり腹式で支えながら──。
すう、と空気の抜ける音が虚しく響き渡った。
何度やっても結果は同じだった。
「高松ちゃん、まさか……」
青ざめた菊乃が引きつった声で問うた。居合わせた木管セクションの仲間たちの本音と感情は、その血相や声色に余すことなく集約されていた。キイに引っ掛けた指が震え、里緒は危うくクラリネットを取り落としそうになった。
吹けない。
吹けなくなっている。
五年以上も吹き続けてきたものが、たった一日の間に。
(そんなことがあるわけっ……!)
認められるわけがなかった。なおもクラリネットをくわえようとすると、大股で寄ってきたはじめがそっとキイの上から手を重ねて、遮った。
「もういい、高松。休んで」
「嫌です!」
里緒は無我夢中で叫び返した。
「何かの間違いです、吹けます! だって吹けなかったら、そんなの……!」
それ以上の言葉は怖くて続けることができなかった。クラリネットは里緒のたったひとつの価値であり、アイデンティティなのだ。それが失われてしまえば、後に残るものなど……。
「高松ちゃん」
菊乃がはじめの説諭に加わった。大きく傾いた眉が、哀願の意思をありありと表現していた。
「あたしからもお願い。ちゃんと休養して、元の高松ちゃんに戻って。音も出せない状態で練習なんかできっこないよ。……お願いだよ」
里緒に抵抗の余地などあるはずもなかった。
震えの止まらない下唇に、里緒は上唇でふたをした。ついでに歯も立てて、内側から湧き上がってくる衝動を懸命にこらえた。
そうして、土気色に変じた二本の腕で、ただの長大な棒切れと化してしまった相棒を抱きしめた。
もはや大混雑の駅に踏み込む気力は残っていなかった。弦国のキャンパスのある国分寺から、ホテルの建つ立川までの六キロ近くの道のりを、里緒は重たいケースやカバンに引きずられるようにして歩いた。二時間近くもかかった。
くたびれて棒と化した足を休めようと立ち止まるたび、本当は吹けるんじゃないか、たまたま上手くいかなかったんじゃないかと思い込もうとした。人気のない静かな場所に立って、ケースから出したクラリネットを組み立て、何度も口にくわえて息を吹き込んだ。しかしとうとう、音が口を飛び出すことはなかった。
立川のビル群が視界に入ってくる頃には、里緒も突きつけられた現実を受け入れざるを得なくなっていた。
(吹けなくなっちゃったんだ、私)
思い当たる理由も解決策もないまま、ただ、音だけが失われた。管弦楽部での存在意義も同時に失った。
セミの鳴く声がやかましい。イヤホンを装着してはいたが、とても音楽を聴いていられる心持ちではなかった。ノイズキャンセル機能の動いていない隙間だらけの耳栓の外からは、数多の雑音が濁流を成して里緒の頭へと流れ込んできた。里緒は黙って耐えた。耐えていたっていいことは何もないのに、耐える以外の手段が思い付かなかった。
もう、里緒の手元には誰も何も残っていない。
いや、大祐が残っているか。しかしその大祐にしたって、きっと黙って里緒がホテルを抜け出したと知ったら、怒って里緒を見放すに違いない。昼過ぎまで仕事と言っていたから、下手をするとすでにホテルに帰りつき、里緒の脱走を知ってしまっているかもしれない。
救いの見込みはどこにも見当たらなかった。
(クラリネット……こんなに重かったっけ)
里緒はぼやいた。生まれて初めて抱く感想に、苦い味が口の中いっぱいに広がった。
「お母さん、私のこと、恨んでたんだね」
▶▶▶次回 『C.090 号哭』