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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第三楽章 不協和音の波に打たれて
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C.088 会いたくなかった人

 




 電車に乗るのが怖ければ、人混みだって同じように怖い。いつ、どこで誰が、里緒のことを話題にしているか分からない。立川駅の混雑は里緒にとって悪夢も同然だった。

 おまけに、気付いた時には紅良とはぐれてしまった。


「あれ……っ」


 ドアから吐き出されて間もなく、無数の黒山の中に紅良の背中が消え失せた。不安になって思わず伸ばした手が、向かいのサラリーマンの胸を直撃する。「ごめんなさいっ……!」と謝ると、すぐさまセットで鋭い舌打ちがついてきて、里緒は必死に首を縮こまらせた。萎縮した心臓に鈍い痛みが走った。

 これではもう、紅良と再び合流するのは不可能に等しい。電車に乗っている間、一言も口をきいてくれなかった紅良の冷たい目を思い返し、諦念に後ろ髪を引かれながら里緒は改札を出た。ぽっかりと(まぶ)しい南の出口を目指して歩き始めながら、カバンからイヤホンを引っ張り出して耳に詰め込んだ。

 独りで歩く間は、死んでもイヤホンと音楽を手放せない。自分を守るすべを里緒は他に持たなかった。




 花音のことが怖くなった。

 もしかすると紅良からは呆れられてしまったのかもしれない。

 まともな音を出すことも叶わずに、管弦楽部からも()まみ出された。

 わずか半日の間に、ずいぶんたくさんのものを失った。しかし今の里緒には、その喪失感と向き合う余力さえない。ただ、目の前に雁首を揃えて並ぶ大小の脅威に無力に(おび)え、逃げ回ることで手一杯だ。


(モノレール……やめとこう)


 頭上を滑ってゆく多摩都市モノレールの巨体から、里緒は目をそらした。あれに乗れば家まではすぐだけれど、乗ったら最後、車内広告に目が向くだろう。そこに週刊誌の販促広告でもあろうものならおしまいだ。

 今はほんのわずかの非難や批判でも、無防備な里緒の心にとどめの一撃を振り下ろすには十分だった。

 午後四時半。西陽のまだ明るい炎天下の立川の街を、里緒は独りで歩き続けた。コンビニもスーパーも目に入れたくなかったし、道行く人々の会話を耳に入れたくなかった。自分の意思で選んだ音楽と景色で、世界のすべてを覆い尽くしてしまいたいと思った。


(西元さんにはああ言っちゃったけど、明日、どうしよう)


 こんな心の容態で、明日もあの空間に向かうのか。また、美琴や一年の仲間たちに(なじ)られに行くのか。はじめや菊乃に何度も演奏を止められ、受け止めきれないほどの指摘を押し付けられるのか。

 にわかに不穏な予感が湧き出してきて、違う、と里緒は首を振った。()()()()かどうかではない。息が続いてこの(クラリネット)を吹ける限り、里緒は()()()()()()()()のだ。

 それが、独奏者(ソリスト)を引き受けた者の、逃れられない責務だから。

 蹴った小石が空しくアスファルトを転がって、断末魔の叫びを上げる間もなく側溝の闇に消える。瞬く間に終わった破滅の一部始終を、里緒は虚ろな目で見つめていた。こんなことになるなら独奏者(ソリスト)なんか引き受けなければよかったのかな、私──。そう思ったら涙が出そうになった。

 いけない。

 ただでさえ聴覚を遮断しているのだ。よそ見をしていると自転車やお年寄りにぶつかる。

【柴崎橋】の文字が視界の片隅をよぎった。それが自宅最寄りのモノレール駅の真下に架かる橋であることを思い出して、勢いをつけた里緒は一気に視線を目の高さに戻そうとした。

 そしてそこに、にわかには信じがたい人の姿を目の当たりにした。


「里緒ちゃん!」


 甲高い声を上げたのはスーツ姿の女性だった。里緒を『里緒ちゃん』と呼ぶ大人の女性を里緒は一人しか知らない。そう──紬である。


「かっ────」


 顔を引きつらせた里緒に、ばたばたと紬は駆け寄ってきた。たちまち恐怖心が臨界点を超えて爆発した。誰かに恐怖心を抱くのにも慣れてきて、里緒はとっさに身をすくめて防御態勢を取った。

 いったいどうして紬がこんなところに立っているのか。いつもの土手でも北口の公園でもなく、よりによって里緒の最寄り駅の出入口前に。まるで待ち伏せでもしていたかのようではないか。


「よかった、ここにいたんだね! 探したんだよ」

「なんで、ですか」

「ごめんね。うちの新聞と週刊誌がろくに確認もせずに、あなたのこと報じちゃって……」


 里緒の両手を握った紬が、深々と頭を下げる。

 その手の外側に感じる、温もりにも似た冷たい触感に気味の悪さを覚えながら、里緒の頭のなかでは“うちの新聞”という五文字がしばらく円を描いて回った。()()()()()? 週刊誌?

 瞬間、里緒はすべてを悟った。悟らずに済むなら悟りたくなどなかった。


(この人、新聞記者なんだった……っ!)


 紬の所属は日産新報だ。思い起こせば、大祐が初めに見せてくれたのも日産新報だった。あの紙面の編集に携わっていたかもしれない、里緒の過去が日本中にばらまかれる元凶を創ったのかもしれない人が、今、眼前で里緒の手を握っている!


「やめっ……!」


 里緒は無我夢中で手を振りほどいた。


「放してくださいっ……!」

「お願い。ほんの少しでいいの、私の話を聞いて。里緒ちゃんの苦しさは私も分かってる」


 紬も必死だった。焦ったように伸びた手が、里緒の肩を(つか)もうとして空を切る。里緒はよろけながら後ろへ下がった。


「来ないで……っ」


 息も絶え絶えに訴えたが、紬は一歩、また一歩と里緒の方に近付いてくる。すぐ背後にはコンコースに上る階段の一段目があった。引き下げた(かかと)が段差に触れて、里緒は半泣きになった。

 もう駄目だ。これ以上、下がれない──。

 せめて覚悟を決めた(てい)だけでも装いたくて、固く目をつぶった、その時。不意に轟いた迫力のある声が里緒の背中を貫き、紬を直撃した。


「うちの娘に何してる!」


 大祐の声であった。振り返る間もなく、背後の階段を駆け降りてきた大祐の腕が里緒の背中を抱き止めた。息が止まりそうになった。


「お、お父様……?」

「どこの誰だ。何のつもりで声をかけた」


 台詞(せりふ)を詰まらせた紬に大祐は詰め寄り、声を荒げた。


「うちの娘に手を出したら許さないぞ。二度と顔を見せるな!」


 見たこともないような形相と剣幕だった。その瞬間、紬とは違う意味で、里緒の目には父親が恐ろしく映った。


「里緒ちゃん!」


 大祐の腕越しに紬が金切り声で叫んだ。


「お願い、信じて! 悪気があったわけじゃ……!」


 最後まで聞き取る前に大祐に手を引かれ、里緒はコンコースへ向かう階段を駆け上った。身体がふらついて、支えがなければ転落してしまいそうだったが、何とか上りきって改札の前に出た。

 もう、紬の姿はどこにも見えない。一気に猛烈な圧迫感から解放され、肩で息をする里緒の前に、大祐の大きな身体が立ちはだかった。


「嫌な予感がしたから、早退して帰ってきてみれば……。里緒」

「うん」

「あれは知り合いか」

「……知り合いじゃない」


 やっとの思いで里緒は答えた。どうして嘘をついてしまったのか、自分自身にも分からなかった。






 その日、里緒と大祐は立川駅隣接のビジネスホテルに泊まることになった。他にも新聞記者が自宅の周りをうろついているかもしれない、リスクは取るべきじゃないと、大祐には懇々と説諭された。紬が里緒の知り合いであることを大祐は知らないはずである。だが、立て続いたショックで疲労の限界を迎えていた里緒は、特に異論を唱えようとも思わなかった。

 いじめ自殺事件の報道が沈静化して、騒ぎの収束点が見えてくるまでは、もしかすると数日はホテルに足止めになるかもしれなかった。


「家に帰るのはやめておいた方がいい。どうしても必要なものがあるなら、父さんが代わりに取ってくる」


 憔悴し切ってベッドに座り込んでしまった里緒に、大祐は平らな声で尋ねた。


「明日の授業の分の教材は持ってるのか。教科書とか、ノートとか」

「……もってない」

「なら、休め。一日くらい外へ出ない日があったっていいだろう」


 それは外出の危険性を説いているのか、それとも“外に出てほしくない”と求めているのか。里緒には後者のように思えた。大祐にとって、記者から逃れるだけの体力も、腕力も、脚力も知力もない里緒を屋外に放つことは、騒動の拡散を手助けすることになりかねないリスクなのだ。

 里緒だって、そう思う。


「明日はゆっくり寝てなさい。ホテルからは出るな」


 吐息をついた大祐は、腕を伸ばして里緒の頭を撫でた。年頃の男性にしては細くて肉付きの悪い腕に、里緒は自分の身体と同じ臭いがするのを感じた。

 嬉しいとも思えなかったし、気持ちは少しも安らがなかった。








「クラリネット……こんなに重かったっけ」


▶▶▶次回 『C.089 音の喪失』

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