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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第三楽章 不協和音の波に打たれて
92/231

C.087 自分の値打ち

 




 紅良は何度も繰り返し里緒への説得を試みた。


「やめときなよ。今日は素直に帰った方が……」


 しかし里緒は放課後になってもとうとう、紅良の話を聞き入れようとしなかった。肉付きの悪い腕にクラリネットのケースを二つも抱え、「ううん」と言った里緒は、眉を押し下げて曖昧に口の端を上げた。紅良には、笑おうとしていたように見えた。


「行くって約束しちゃったから」

「そんな約束、破ればいい。高松さんは自分のことだけ考えていればいい」

「そういうのは、よくないよ」


 里緒の言葉はまったくの正論だった。反論の文句を奪われてしまった紅良の横をすり抜け、彼女はおぼつかない足取りで音楽室のあるフロアへ向かおうとする。

 今朝、教室で起きた事件のあらましを、すでに紅良はクラスメートから詳しく聞き及んでいた。花音が里緒の付き添いに立候補しなかった理由も分かった。花音は拒絶されたのだ。それも里緒自身の意思と口によって。

 だが、紅良が京士郎から与えられた任務は、里緒をきちんと立川駅まで送り届けること。過去に過呼吸を起こして倒れたこともある里緒を、ここで諦めて見放すわけにはいかない。


「分かった」


 紅良は叫んでいた。


「私も付き合う。だから約束して。無理はしないって」


 里緒は表情を崩して、へにゃり、と笑った。今度こそ間違いなく笑顔のカタチをしていたが、その(さま)はあまりにも(もろ)く、危なっかしかった。




 管弦楽部に出入りするのはこれが初めてのことになる。やや緊張しつつ、ドアの前まで来て里緒を先に入らせると、「あ!」と先輩の声がさっそく紅良を捉えた。


「定演の時に来てくれた子だよね! ……ごめん、名前なんだっけ」

「西元です。今日は、高松さんの付き添いで」

「そうそう西元()()()!」


 ポニーテールの先輩は笑った。聞き慣れない敬称に顔をしかめながら、こっちが本物の笑顔だ、と紅良は思った。笑顔は勝手に浮かんでくるものであって繕うものではない。繕って描かれた笑顔に、本質が伴うことはない。

 改めて『滝川菊乃』と名乗った先輩に勧められるまま、椅子に腰かけた。里緒はさっそく上級生や一年の同期たちに取り囲まれていた。


「体調どう? もう大丈夫なの?」

「クラリネット、吹けそう?」


 蚊の鳴くような声で里緒は「大丈夫です」と答えて回っていた。もはや紅良にはその声も、顔も、たっぷりとペンキを塗りたくって描かれた作り物のようにしか思えなかった。

 花音はやけに離れた場所にぼんやりと座ったまま、『バトンちゃん』をいじっている。いつもの覇気は微塵も感じられない。


(こんな感じなんだ、管弦楽部)


 集まってのあいさつが済み、体操を終え、それぞれのセクションごとに練習場所の教室に散ってゆく部員たちを眺めながら、国立WO(ウインドオケ)との空気の違いを紅良はひしひしと肌に感じた。大人だらけで普段はまとまりのない国立WOよりも俄然、集団行動はできている。上意下達の部活動に特有の、ほどよい緊張感もある。もっとも、中学で同じものを経験済みの紅良にとって、その緊張感は居心地のいいものでも何でもなかった。やっぱり管弦楽部(こちら)を選ばなくてよかったと思った。


「西元ちゃんはどこで活動してるんだっけ」


 隣を歩く菊乃が、フルートを器用に回しながら問いかけてくる。「国立WOです」と紅良は答えた。


「あそこかー。やっぱ多いなぁ、国立WOに行く人。楽器は?」

「高松さんとか花音と同じ、クラリネットをやってます」

「そっか、だから仲がいいんだね」


 どのあたりを見て納得したのか分からないが、ともかく菊乃はうなずいた。


「今日は合奏日だから、一時間くらい調子を整えたらコンクール組だけで音楽室に戻って全体練習するの。そこまで見てく?」

「高松さんが帰るまでは私も残ります」

「ほらやっぱり仲いいじゃん」


 菊乃は笑う。腑に落ちないまま、紅良は黙って里緒たちの背中を追いかけた。

 正直なところ、あまり長居をしたくはなかった。応援演奏とコンクール本番に向けて練習真っ盛りの管弦楽部にとって、楽器を吹きにきたわけでもない紅良の存在は邪魔でしかないはずだ。実際、木管セクションの教室に全員が揃い、各自が音出しや基礎練習に取り組み始めても、部員たちは異物感を振り払うように紅良の方を何度も(うかが)い見てきた。ここはアウェイなのである。


(そんなにレベルの高い楽団でもないし、長く見ていたって参考になるところが多いとも思えないし……)


 響き渡るのは、国立WOの練習室ではまず聴かれないような、不完全なフルートやサックスの音ばかり。耳介を折り畳んでしまいたい衝動に何度も駆られながら、紅良はひそかに本音を胸へしまい込んだ。里緒も里緒である。意地なんか張らないで、早く「帰ります」と言ってくれたらいいのに。


 しかしその待望の瞬間は、全体練習に移行した途端、思わぬ形で訪れた。




「──ストップ、ストップ!」


 一回目の練習が六十小節目にかかった直後、フルートを放り出した菊乃が叫んだ。里緒は気付かずにまだ吹き続けている。駆け寄った菊乃が肩を叩いて、それでようやく指を管体から離した。

 なぜ演奏が止められたのかを、コンクール組のメンバーたちは揃って理解している様子だった。「今のとこ」と菊乃は楽譜を示した。重たい声だった。


「もう一回、吹いてみて」


 言われるがまま、里緒は五十八小節目の休符から演奏を再開した。


即興的独奏(カデンツァ)か)


 すぐに紅良は気付いた。独奏者(ソリスト)の自由な意思に基づいて演奏を行う部分である。

 里緒の演奏には凄みがあった。苦しげに見開かれた両目の周りは青ざめ、その口から放たれたクラリネットの音色はとんでもなく圧が強く、聴きづらい。細くて美しい音色が売りのはずの里緒の演奏には思えなかった。奏者の顔を見ずに聴いていたら、曲のテーマは“破滅”か何かかと錯覚しそうだ。


「……分かった、もういいや」


 菊乃がフルートを指揮棒のように振った。横一文字に構えられた銀白色の管体の向こうで、眉が大きく歪み、傾いていた。


「高松ちゃん。今の演奏、自分ではどう思う」

「わ……私は」


 うろたえた里緒は台詞を詰まらせた。


「その、自分なりに……一生懸命に……」


 誰も、何も答えなかった。里緒(ソリスト)を取り囲むすべての仲間たちが、フォローの入れ方の思いつかない顔で一様にうつむいている。

 奏者のメンタルは嫌でも演奏に反映される。つまりこれが、(まが)うことなき里緒の現状なのである。

 里緒の顔はいよいよ青くなった。


「あっあの! ごめんなさい、私のせいで……! 私は大丈夫です、もう一回! もう一回だけっ」

「高松。もう今日は帰った方がいい」


 声を発したのは、音楽室の隅で合奏を見守っていた部長だった。里緒が、菊乃が、顔を上げてはじめを凝視した。抗議の声が噴き出す前にはじめは言葉を継いだ。


「自分じゃ分からないかもしれないけど、今の高松の音は聴くに堪えない。このまま練習しても価値のあるものにはならないと思う。一回、ちゃんと休んできて」

「そんな──」

「具体的に言うなら、dolce(ドルチェ)はちっとも柔らかくなってないし、スラーの繋ぎ方も全体的に硬すぎる。曲の雰囲気が完全に壊れてる上に、伴奏のみんなまで引きずられてる」


 里緒は抵抗の芽を的確に潰された。

 自覚はあったようで、悔しげに菊乃が唇を噛んでいる。「異論はないね」とはじめは部員たちを見渡した。彼らはまばらにうなずいて同意を示した。あるはずがなかった。

 出番を予期した紅良の向こうで、菊乃がようやく指示を出し始めた。


「……休憩挟んでパー練に戻ろう。指摘出しもやりたいから、十分くらいしたら再集合ね。特に一年の二人、水はしっかり採っておいて」


 それから、と今度は里緒に向き直った。


「聞いてたよね、高松ちゃん。今日は先に帰っていいよ。いつもの演奏のできる自分に戻ってから、また、来て」

「はい……」


 里緒は痛々しいほどに悄気(しょげ)ていた。ぐったりと首から下がるクラリネットが、いつもの金色の輝きを放っていなかった。

 黙っていると菊乃は紅良にも振り向いた。


「ごめんね、西元ちゃん。高松ちゃんのこと頼むよ」

「言われなくても頼まれます」


 つい、なぜか苛立ってしまって、紅良は静かにきっぱりと答えた。




 だからあれほど言ったのだ。今日の調子では練習は無理だ、おとなしく帰って心を休めた方がいい。保健室にいた時から、そう口酸っぱく勧めていたのに。

 けれど、落とした肩にカバンを引っかけてとぼとぼと歩く里緒の背中に、そんな(とげ)まみれの忠告を叩きつけるだけの勇気は紅良にはなかった。里緒は今、心を痛めている最中である。何もわざわざ自分が余計なことを言って、いっそう傷口を広げることもないと思った。


(それにしたって……)


 やり場のない感情を紅良はアスファルトに押し付けた。この感情に名前をつけて分類することさえ、今は上手くいかなくて。


「西元さんも、ごめんなさい。あっちこっち振り回しちゃった……」


 里緒が力なく謝った。校門を出て、信号の前に立った紅良は、下り坂を疾走してくる自転車がいないのを確かめながら小さく答えた。


「別に、いいよ。これが私の任務」

「……そうだよね」


 里緒も応じた。いつにもまして長い漆黒の前髪が、目元をすっかり覆って見えなくしていた。


「明日も行くの?」


 思いきって、尋ねた。やっぱり尋ねるのをやめられなかった。里緒の口は閉じて、曲がって、それからまた開いた。


「行くと思う」

「なんでよ。部長さんも気遣ってくれたんだし、しばらく休んでいればいいじゃない……」

「そんなこと、できないよ。応援演奏は本番も近いし、コンクールは私がいなかったら練習できないし」

「クラリネットなら最悪、花音だって他の先輩だっている。コンクールの練習なんかどうとでもなる。何も高松さんが無理して出張っていくことない」


 駅までの道すがら、紅良は言葉を尽くして「無理をすべきじゃない」と伝えようとした。だが、里緒はついぞ首を縦には振ってくれなかった。信号を渡り、ファミレスの前を横切り、路側帯の白線を目で追いながら、明日は練習に復帰すると頑なに主張して譲らなかった。

 紅良はいよいよ濃い不安を覚え始めた。


「高松さんは分かってるわけ。どうして自分が独奏者(ソリスト)に選ばれたのか」

「…………」

「高松さんのクラリネットの音色をみんなが評価したからでしょ。今の高松さんは頭のなかがいっぱいいっぱいで、心の苦労を積み重ねて、その大切な音色を失いかけてる。今、休みを入れることは、また以前みたいな素敵な音を奏でるために必要なことなんだよ。どうして分かってくれないの?」


 このまま里緒が無茶を通し、自らの音を失っていってしまうのが、紅良には何よりも恐ろしかった。管弦楽部への入部を悩んでいた時も同じような話をして、そして今日のように聞き入れられなかったのが、今となっては懐かしく思える。しかし回顧に浸っている場合ではない。

 里緒のクラリネットに理解を示す者の一人として、必要なときはこうして制止しなければならないのだ。


「……前に神林さんに『何のために音楽やってるの』って聞かれたこと、西元さん、覚えてる?」


 駅ビルのコンコースフロアへ続く階段に足をかけ、里緒は静かに尋ねた。行き交う買い物客の発する雑音に、その声は今にも融けて消えそうだった。


「私ね、あれからいろいろ考えたんだ。考えたけど結局、ひとつも思いつかなかった。そのとき、分かった。呼吸をするのに理由が要らないのと同じで、初めから理由なんて何もなかった。クラリネットを吹けなければ私は生きていけない、生きるのを許してもらえない、だから吹き続けてるんだ……って」

「生きていけない、って」

「そのまんまだよ。クラが吹ける子だったから、私は管弦楽部に受け入れてもらえた。そうじゃなくなったら、もう、あそこにはいられない。今ある居場所を守るために、私はクラを吹き続けなきゃいけないの」


 絶句した紅良の隣で里緒は滔々と語り続ける。その口角が少しずつ持ち上がり、笑みのような何かに変じてゆく(さま)を、手の届く至近距離で紅良は見つめていた。


「ダメだね、私。変なことで気持ちを惑わされないようにしなきゃいけないのに、あんな音しか吹けなかったんだもん……。どうやったら気持ちの乱れが音に影響しないようにできるのかな。下手くそだって先輩たちに失望されて、コンクールのメンバーから外されちゃう前に、早く調子、戻さなくちゃいけないのに……」


 その一瞬、紅良には里緒の姿が生者に見えなかった。痛ましい致命傷を負ってもなお、がむしゃらに前ばかりを見て起き上がり、歩いていこうとする。そんなものは生者の所業ではない。死者(ゾンビ)だ。クラリネットのケースを後生大事に抱え、それがないと生きられない哀れな死者(ゾンビ)


「クラも吹けない私に、価値なんてないのに」


 改札を通過した瞬間、押し当てたICカードを握りしめ、里緒ははっきりとつぶやいた。


「そんなことない」


 頭に血が上って、思わず言い返してしまった。


「クラリネットは高松さんの魅力のひとつでしかない。あなたには他にもっともっと、いいところがある。自分の値打ちをそんなに下げないでよ。神林さんだってそう言ってたでしょ!」


 他に魅力がないだなんて、そんなことがあってたまるか。こんなひねくれた私のことも理解しようとしてくれた。何だかんだ言っても、こうして隣で一緒に帰宅したり、話したりすることを嫌がらないでくれる。中学の頃、そんな存在は私にはいなかった。初めて大切にしたいと思える人に出会えたと思った。それが、里緒(あなた)なのに──。

 容量の少ない紅良の胸はあっという間に言葉で満たされて、どれから口にすればいいのか分からなくなった。

 そうこうしているうちに里緒はまた笑った。

 笑って、言った。


「いいところなんて、ないよ」


 それは、紅良の言葉を聞き入れる気は微塵もないと、きっぱり里緒が宣言したことを意味していた。


「……そう」


 紅良は得も言われぬ失望に身が沈んでゆくのを感じながら、やっとの思いでその二文字をひねり出した。

 きっと里緒は宣言通り、明日も管弦楽部に向かうのだろう。自分の負担も疲労も省みず、ただ『必要とされているから』『吹く機会を与えてくれるから』という理由で。もはや、紅良にはそれを押し止めるだけの説得力を持つ言葉が思い当たらなかった。里緒と紅良ではクラリネットを手にする理由が違いすぎるのだ。

 結局、紅良の口にした言葉は、誰の心にも届かなかった。(ちか)しいと思っていた里緒の心にさえ。

 高尾行きの電車が右から進入してきた。風圧に煽られた髪が視界を遮り、やがて静かに舞い降りて両目を闇から解き放った時、流れゆく車窓には並んで(たたず)む二人の女子高生の姿が反射していた。今にも泣きそうな顔をした里緒の(まぼろし)を鏡越しに見つめ、


(……私も、泣きそうだ)


 何年ぶりかも分からないような感慨に、紅良はそっと肩を震わせた。









「うちの娘に手を出したら許さないぞ。二度と顔を見せるな!」


▶▶▶次回 『C.088 会いたくなかった人』

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