C.086 保健室の片隅で
授業前のホームルームも中盤に差し掛かったあたりで、やっと里緒は教室へ戻ってきた。
その姿は、出席確認を取り終えて期末試験の日程表を配ろうとしていた京士郎が「おわっ……」と後ずさるほどに不気味だった。いったいどこにしゃがみこんでいたのか、制服も髪もくすんだ色のほこりにまみれ、汚れている。紅良も例外なく息を飲んだ。
教室は水を打ったように静まり返った。
「……ごめんなさい。遅れてしまって」
幽霊のような声で謝意を告げ、里緒はそのまま自分の席に向かおうとする。京士郎が慌てて押し留めた。
「待て、大丈夫なのか。授業は受けられるのか」
「……受けます」
「無理をするな。しんどいようであれば休んでいていい。事情は聞いてる」
駆け寄った京士郎は細い体躯を曲げて、里緒の顔を不安げに覗き込んだ。
それはきっと報道のことを意味していたのだろう。京士郎の腕が邪魔でよく見えなかったが、里緒はどうやら首を縦に振ったようだ。保健委員が呼ばれ、京士郎の指示を受けた。
「悪いが、保健室まで高松くんに付き添ってやってくれ。対馬先生には内線で話をつけておく」
応諾した保健委員の二人が、里緒の肩に手を回したり、「大丈夫?」と声をかけている。紅良は本能的に花音の姿を探した。花音は里緒に見向きもせず、悄然と椅子に腰かけている。
自分の知らない間に何か異常事態が起きたのを、無言のうちに紅良は察した。
「しかし、放課後まであのままだとまずいな……」
保健室への連絡を終えて教壇に戻った京士郎が、里緒たちの消えた扉を見やりながらつぶやいた。
「誰か、高松くんと同じ方向に帰る子はいないか。高松くんが回復しなかったら付き添って帰ってやってほしいんだが」
微かなざわめきが教室に戻ってきた。花音だ、花音しかいない。ささやく声の大半は花音を推していたが、しかし当の花音はいつまでたっても手を挙げようとしない。
(花音があんな態度を取るなんて……)
言い様のない気味の悪さに不安を覚えつつ、紅良は控えめに手を挙げて立候補した。里緒も、紅良も、最寄りは立川駅の南口。目的地は同じである。
「じゃあ、西元くんに任せよう。頼めるか」
表情筋を和らげた京士郎が確認を取る。一応、引き続いて花音の様子を伺いながら、「はい」と答えた。
木曜日の一時間目は英語表現である。出席番号の前半と後半でクラスが二つに分かれるので、ホームルームが終われば後半組は教科書とノートを携えて移動しなければならない。ばたばたと立ち上がったクラスメートたちに混じって、紅良も腰を上げた。そのまま、どさくさに紛れて花音のもとへ向かった。
「よかったの?」
訊くと、うん、と花音はうなずいた。首を振ったというより、首の骨が折れて頭がぶら下がったようだった。
ついでにと思って、これも尋ねた。
「何があったわけ」
「……里緒ちゃん、私のこと、怖いって」
「怖い?」
それ以上のことを花音は語ってはくれなかった。セミの脱け殻か何かのように、ただ、茫然と。
◆
初めて花音のことをあんなに怖いと思った。
──『教室、戻ろうよ。あんな人たちの言うことに耳を貸しちゃダメだよ。私はぜったい……!』
手を掴んで自由を奪い、大きな口を開けて迫り来る花音の影が、何度も脳裏によみがえって里緒を押し倒す。ひたすらに、怖い、と思った。ただ遠ざけたい一心で、夢中になって何事かを叫んでしまった。口にした台詞の中身はよく覚えていない。
保健室の真っ白なシーツにお世話になるのは、これで二度目のことになるか。しばらく横たわっていると関節が痛くなってきて、里緒は小さく寝返りを打った。シーツの端をつまんで手のひらに収めると、ようやく少し、暴れ回るばかりの心につっかい棒を入れられた気になった。
壁掛けの時計が十二時半を示そうとしている。
(もう、四時間目も終わり、か……)
まばたきをして、うつむいた。ずっと寝てばかりいると頭を使うこともないので、不思議と空腹を感じない。ありとあらゆる四肢の感覚が果てしなく空虚だった。
「お弁当は持ってきてるんでしょ?」
対馬がカーテンの向こうから声をかけてくれた。
「そこで食べていいからね。カバン、そっちにある?」
「あります」
答えはしたものの、カバンのチャックを引き開ける気力も湧かなくて、里緒はそれからもしばらくぼうっとベッドに横たわっていた。
気分はまるで陸に打ち上げられたクジラだった。海に帰りたくても自力では何もできず、「間抜け!」と嘲笑されながら惨めに朽ち果て、死んでゆく、クジラ。
昼休みに入ると、にわかに校舎内が喧騒で満たされる。静寂に包まれた保健室の片隅で寝転がっていると、授業時間から休み時間へと校舎の空気が切り替わる瞬間は克明に感じ取ることができた。
愉快そうな笑い声が弾ける。
廊下に駆け出す足音も反響する。
耳をすませば、音楽室からは誰かの楽器の音が聞こえてきているだろうか。
(……私、いつまでこのままなんだろ)
里緒は吐息をシーツに押し付けた。さほど重たくもないはずの身体が、今にも布団の底へと沈んでゆきそうに怠い。そのまま沈んで消えてしまえばいいのにと思った。
(いつまで怯えながら暮らせばいいんだろう。広まっちゃった話が完全に忘れ去られることなんて、ありっこないのにな……)
考えれば考えるほど、気持ちまで海の底に沈んでゆく。やめた、今は頭を空っぽにして養生する時だ。必死に思考を切り替えようとした里緒だったが、その矢先、その努力を根こそぎ台無しにする存在が現れた。
管弦楽部の先輩たちが保健室に入ってきたのだ。
「すみませーん。一年の高松里緒ちゃんが寝てるって聞いてきたんですけど」
声の主は菊乃らしい。なんで、どうしてここに──。戸惑う里緒をよそに、対馬は里緒の眠るベッドの場所を指示してしまい、数秒とたたずにカーテンが開かれた。目を開くと、そこには菊乃や美琴、はじめ、洸の姿が並んでいた。
たまらず里緒は上半身を起こした。
「あ、あの、私……」
「ごめんね、保健室で休んでるって聞いたからさ。大丈夫?」
菊乃が笑った。いつも通りの明るい笑顔だった。部の欠席を糾弾しに来たのではない様子だった。
「……大丈夫、です」
仕方なく、答えた。まるで説得力のない、か細い声だったが、声が出るという事実だけで上級生たちは安堵を覚えたようだった。
思ったよりも元気そうだと、菊乃やはじめは声をひそめて語り合っている。何かを言われる前に自分から謝っておいた方がいいと、瞬間的に里緒は先読みした。
「その……部活を二日も休んじゃったの、本当にすみませんでした」
起こした身体を先輩たちの方へ向けて、頭を下げた。せっかく勇気を振り絞ったのに、「いいよいいよ」と菊乃が手を伸ばして、肩をベッドに押し戻してしまった。
その横からはじめが尋ねる。
「理由、聞いてもいいかな。話せそうならでいいから」
一見、無感情に落ち着けられた、いつものはじめらしい口調だ。やっぱり怒っているようには感じられなかったけれど、それでも里緒ははじめから視線を逸らした。ほとんど本能的な行動だった。
「……話せないです」
「そっか」
「ごめんなさい……。そんなんじゃ先輩方も納得、できないですよね。すみません……」
シーツの裾を握りしめながら、時間をかけて言い切った。よかった、泣かずに済んだ。そんなことで己を甘やかす自分を、心の底から醜く思った。
「今日の練習はどうする?」
ベッドの脇にしゃがみこんだ洸が問いかける。
今度は迷わなかった。
「行きます」
カーテンをめくった対馬が「本当? 大丈夫なの?」と眉をひそめた。だが、初めから里緒にそれ以外の答えなど存在しなかった。だって今日は四日に一度、コンクール組の合奏がある日。独奏の自分がいなければ合奏は成り立たない。
よかった、と菊乃が頬を緩めてくれた。
「やっぱ管弦楽部には高松ちゃんがいないと!」
「厳しそうなら早引きしてもいいからね。電車、混むと嫌でしょ」
隣ではじめが淡々と言い添える。こちらの不安の原因を見透かしているかのような言葉に、一瞬、里緒の肝は激しく冷えたが、「ありがとうございます」と返して里緒は笑った。
どう足掻いても弱々しい笑みにしかならなかった。
「その、自分なりに……一生懸命に……」
▶▶▶次回 『C.087 自分の値打ち』