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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第三楽章 不協和音の波に打たれて
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C.085 火に油

 




 里緒は今朝も、顔を隠すように下を向きながら登校してきた。

 机に伏せていれば、長い前髪が顔を覆って表情を見えなくする。さながら貞子のような容貌の里緒を取り巻くように、D組のクラスメートたちは距離を取りながら三々五々、教室の中に集団を形成していた。

 すぐ隣には芹香の机がある。その周りにたむろして雑談に興じる少女たちの姿を、やりかけの宿題にペンを立てた花音はぼんやりと眺めていた。なんとなく、今の里緒には近付いてはいけないような気がしてしまって。


「だからー、ぜったい高松さんが何かやったんだって。いじめっていじめられる側にも原因があるって言うじゃん」


 一人が半笑いで言えば、別の一人が反駁(はんばく)する。


「いや、そりゃ一端を作ったのはあの子かもしれないけど、やっぱりいじめは加害者が悪いでしょ。原因の有無と責任の有無は別だよ」

「同感だなぁ。どんな理由でも人を殺したら殺人罪だし」

「えー、でもあの子、見るからに協調性なさそうだよ。周囲の反感買っても仕方ないと思わない?」

「あ、Aの真綾もそれ言ってた! やっぱ管弦楽部でもそうなのかな」

「被害者なのは確かだろうけどさ、前の学校でも何か、やらかしちゃったりしてたんじゃないの」


 黙って聞いていれば勝手なことを──。花音はふつふつと(はらわた)に熱が溜まってゆくのを覚えた。協調性がない? そんなことがあるものか。だいたい協調性とはいったい何を指すというのか。詰め寄って言葉の定義を問えば、きっと彼女たちは返答に困って誤魔化そうとするに違いない。ノリや雰囲気だけの批評なんて中傷と変わらない。


(里緒ちゃんはちょっと人より怖がりなだけだもん)


 そう思ってきたし、これからも思うつもりでいる。慣れて恐怖心を取り除くことができさえすれば、里緒は決して付き合えない子ではないのだ。それはこの身が証明している。と、少なくとも花音は考えてきた。


「てかさ、花音いつまで宿題やってんの?」


 黙っていたら花音にも話題が向いた。


「その問題めっちゃ簡単じゃん。解の公式使えば一発だよ」

「……みんなはさ」


 花音は視線を落としたまま、尋ねた。里緒に配慮したつもりの小声で。


「やっぱりあの事件の被害者、里緒ちゃんだって思うの?」


 視線が低くて顔は見えないが、クラスメートたちは互いの様子を伺っているようだった。美怜だろうか、短く折ったスカートの子が、腰に手を当てて切り出した。


「まぁ、断定はできないけどさ。あり得なくはないよなって思っちゃうよね」

「なんで?」

「なんでって言われても……。高松さんはああいう性格の子だし、中学でいじめ受けてても不思議はないだろうなって感じするもん」


 美怜はいったい何を指して“ああいう性格”と言っているのだろう。花音には分からなかった。頭が悪いからだろうか。


「性格云々はさておいても、ちょっと付き合いにくいところあるなー、とは思うかな……」


 芹香までもがそんなことを言い出した。


「付き合いにくいなんてこと……」

「押しかけ女房みたいなことしてる花音には分からないかもしれないけどね。私がクラスのことで高松さんに話しかけても、必要最小限の会話だけ交わしたらあとは押し黙っちゃうし、目も逸らされちゃうし。ここのところはずっとイヤホンで音楽聴いてて話しかけられないし」

「違うよ、それは部活で吹く曲のインプットしてるからでっ」

「花音ってなんでそんなに高松さんのこと擁護しようとするの?」


 さりげなく放たれた疑問の言葉は、花音の机に深々と突き刺さって止まった。反動で揺れるその言葉を、しばし茫然と花音は見つめた。


 擁護だなんて。

 なんでそんなに、なんて。

 まるで里緒のことを(かば)う必要はない、そんなことをする理由はない、とでも言いたげに。

 里緒にそんな値打ちはないとでも言いたげに──。


「──そんなの友達だからに決まってるじゃん」


 我に返った時には感情が沸点を越えていた。低い、震える声で牙をむいた花音を、クラスメートたちは呆気に取られた顔で眺めた。めらめらと燃え上がった瞳の炎が、彼女たちの頬に鮮やかな赤色を焼き付けた。


「私は里緒ちゃんの友達だもん。誰よりも好きだし、誰よりも大切に想ってる。みんなだって友達相手ならそういう態度を取るでしょ? なのに私が里緒ちゃんにそうしたらおかしいの?」

「いや、別におかしいなんて……」

「言ってるようなもんだよ! だいたいみんなどうして、そんなに里緒ちゃんのこと被害者だって決め付けたがるわけっ」


 花音は()え返した。里緒が宮城から来た子だからか。いかにも“いじめられそうな子”だからか。特定された名前と一致したからか。そんなものは状況証拠でしかない。決定的な証拠が掘り起こされるか、あるいは里緒本人の口から認められない限り、推測は永遠に“事実”にはならない。

 そんなことで里緒を侮辱するのは許さない。花音は里緒の『一番の友達』なのだ。


「そんなこと言ったら花音だって疑ってたでしょ!」


 目を剥いた美怜が問い返した。「そうだよ!」と何人かの声が続いた。

 花音は反論を喉に詰まらせた。

 確かに、そうだ。花音だって一瞬、里緒が当事者なのかと疑ってしまったことはあった。──けれども、


「私はみんなと違って、里緒ちゃんの性格なんか疑ってないもん!」


 噛んだ唇を解放し、花音は唾を飛ばした。一緒にされてたまるかと思った。里緒の“一番の友達”を自負する花音と、ただのクラスメートでしかない彼女たちを一緒にされては困るのだ!


「性格性格って、里緒ちゃんの性格はそんなに歪んでなんかないよ! みんなの見る目が歪んでるんだよ! それとも何? ちょっと怖がりで臆病で取っつきにくい人がいたら、みんなその人をいじめるってこと? いじめても許されると思ってんの!?」

「だから、高松さんの怖がりと臆病と取っつきにくさはさすがに度を越してるんだって──」

「里緒ちゃんはそんな子じゃないよっ!」


 渾身の叫びはD組の教室中に響き渡った。しまった、ボリュームを絞らなければいけなかったのに。失念に気付いた花音が青くなった時、困惑するクラスメートたちの向こうで不意に『ガタン!』と大きな音が弾けた。

 里緒が椅子から立ち上がっていた。


「あ…………」


 花音も、振り向いた美怜や芹香たちも、一様に言葉を取り落とした。

 里緒の表情はめちゃくちゃだった。笑っているような、泣いているような、恐れているような、そのどれともつかない混濁した色の瞳は、次の瞬間には長い前髪に隠れて見えなくなった。うつむき、花音たちから顔を背けた里緒は、無言のまま教室のドア目掛けて床を蹴った。


「待って!」


 泡を食って叫んだが、里緒の足は止まらない。


「高松さん!」

「どこ行くの!」


 クラスメートたちの口々に呼び止める声を右耳に受けながら、花音は駆け出した。里緒の開け放った扉に滑り込み、グリップを効かせて方向転換し、廊下の向こうに遠ざかる背中を追い掛けた。

 激しい靴音が廊下にこだました。すれ違った生徒たちが、片っ端から顔を引きつらせて飛びのいてゆく。


「待ってよ里緒ちゃん!」

「来ないで!」


 里緒は叫び返してきた。金切り声に足が(すく)んだが、そんなことで(くじ)ける花音ではなかった。「なんで!」と怒鳴り返しながら、あっという間に距離を詰めていく。これでも運動部経験者なのだ。伊達に中学の三年間、一心不乱にテニスに打ち込んでいたわけではない。

 花音の手が里緒の手首を捉えた。


「いやっ……!」


 たちまち里緒は暴れて振りほどこうとする。そうはさせまいと力を込め、花音は里緒の顔を正面から見つめた。乱れた前髪の下で、里緒の唇が固く結ばれるのが見えた。


「教室、戻ろうよ」


 荒い息をなだめながら花音は畳みかけた。


「あんな人たちの言うことに耳を貸しちゃダメだよ。私はぜったい──」

「聞きたくない!」


 固く目を閉じ、里緒は(わめ)いた。何を、と花音が問う前に、その答えは向こうから飛んできた。


「もう何も聞きたくない! 怖いの! 青柳さんの言葉も、他の人たちの言葉も……!」




 銀白色の鋭い叫びは、手のひら越しに繋がれた花音の心を一撃で捉え、貫通し、粉々に打ち砕いた。




 怖い。

 ──私の言葉が、怖い。

 メトロノームのような調子で里緒のセリフが反復再生された。『怖い』の二文字が脳内を往復するたび、次第に全身の感覚が消え失せてゆく。触覚が消え、平衡感覚が消え、網膜が緩み、おぼろな闇の中で花音は尋ね返した。


「私のことも……」


 復活した視覚が、すぐさま首を縦に振ってみせた里緒の姿を捉えた。彼女の所作にためらいが挟まれることはなかった。

 もう一度、花音は尋ねた。今度は言葉を替えて。


「……私のこと、信じてくれないの」


 これにも里緒は夢中で首を縦に振った。

 手のひらから力が抜けた。ようやく花音の手を振りほどいた里緒の背中が、足音にまみれながら廊下の彼方へと消えてゆく。そのさまを、花音はその場に立ち尽くしたまま、真っ白な頭で見送った。


 ──私、味方になれてなかったんだ。


 無限の失望が、頭の中に白濁した霧を吐き出し続けていた。何も考えられない、何もしたくない。今にも全身から力が抜けて、廊下の真ん中に崩れ落ちそうだった。

 遅れをとって駆けてきた芹香たちの一団が、ようやく花音に追い付いた。


「高松さんは?」

「……分かんない」


 花音はやっとの思いでその一言を絞り出した。

 分からないものが多すぎて、何から手をつければいいのかも分からなかった。









「理由、聞いてもいいかな。……話せそうならでいいから」


▶▶▶次回 『C.086 保健室の片隅で』

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