C.008 管弦楽部へ【Ⅰ】
始業式は賑やかな会になった。式辞のために登壇した副校長の天童先生は思いのほか話が面白く、時折ぽろっとこぼれる冗談に生徒たちは何度も沸いていた。在校生代表としてあいさつを述べに出た三年の男子生徒は、原稿を手にしていたにもかかわらず何度も話に詰まり、台詞を噛み、あげく簡単な漢字を読み間違え、同じ三年生たちから野次を飛ばされて笑いを誘っていた。
校歌斉唱の場面では例にならって管弦楽部が登場し、今度こそ里緒はその全貌を目にすることができた。
ずらりと並ぶ金や茶の楽器たち。トランペット、トロンボーン、ホルン、チューバ、フルートにサックスにクラリネット。後方には打楽器も並ぶ。弦楽器には詳しくないが、ヴァイオリンや、ヴァイオリンを一回り大きくしたような楽器も見当たった。
(やっぱり、かっこいい)
胸がときめいた。ときめく理由はそれで十分だと思った。普通の人には操ることのできないものを手に、音をかき鳴らして誰かを魅了する。楽器は武器だ。武器を手にする者の姿は勇ましくて、眩しい。
だが。
──『ここの管弦楽部、そんな上手じゃないと思う』
彼らの姿を目で追っていると、紅良の言葉が嫌でも思い出された。そのつもりで耳を傾けてみると、確かに演奏はお世辞にも整っているとは言えなかった。曲全体としてメロディのバランスが取れておらず、ユニゾンの響きもよくない。“演奏”というより“合奏”と形容した方が似つかわしい品質だった。
花音の主張も紅良の主張も、誤っているだなんて思えない。在校生たちの歌う校歌斉唱の音の波に埋もれながら、里緒は黙って唇を噛んだ。
……分かってはいたのだ。
あの時、里緒に求められていた返答は、あくまでも『管弦楽部に入ることの是非』でしかないのだと。
そうと分かった上でなお、里緒にはそれが『花音と紅良、どちらと友好な関係を望むのか』という選択にしか感じられなかった。だから返答に窮したし、半端な立場を貫こうとしてしまった。
(そんなの決められるわけないよ。青柳さんも西元さんも、私のことを思って提案してくれてるはずなのに……)
二人の真剣な顔つきを思い返すたび、小さな胸がしくしくと切ない痛みを放った。いっそ、クラリネットの演奏経験があることも黙っていればよかったのだろうか。そうすれば誰のことも傷付けずに済んだのか。
結局、式が終わりに差し掛かっても、里緒はひたすらにうつむくばかりだった。新入生代表のスピーチやら、各部活の代表たちが登壇しての部紹介やらで式は大いに盛り上がりを見せていたはずだが、煩悶する里緒の心はそれらの楽しさに一つも触れることができなかった。
ああ。
こんなちっぽけなことで悩むそぶりを見せることのない、大半のクラスメートたちが羨ましい。
気楽に声をかけて気軽に笑って、もっと楽しく生きてみたい。
前の席の子からプリントを回されるたび、視線と視線が偶然以外の原因で交差するたび、里緒の惨めな気持ちはどんどん重みを増していった。
それぞれの授業のガイダンスが終わり、教科書販売の案内や健康診断に向けての指導も終われば、ついに恐れていた放課後がやって来る。
「それじゃあ、帰りのあいさつします!」
北本とか言ったか、式後のホームルームで選ばれたクラス委員の少女が、花音の隣あたりから立ち上がってにこやかな笑みを振り撒いた。里緒の口から漏れたのは笑みではなかった。
とうとう腹を決められなかった。管弦楽部の件も、それから紅良や花音のことも。
あいさつが終わると京士郎はさっさと教室を出てゆき、クラスメートたちはさっそく作った話し友達同士で団欒に浸り始めた。胸の痛む光景を横目に見つつ、今日も今日とて独りぼっちで教室を出ようと、カバンを手に取った。
そこに電光石火、花音が現れた。
「放課後だよ里緒ちゃん! 管弦楽部行こうよ!」
「えっ?」
里緒の声は派手に裏返ってしまった。まだ、行くとも行かないとも返事をしていないのに。
「わ、私、その」
「西元さんだっけ? あの人の言うことなんか当てにしちゃダメだよ! 誰が何て言ったって、音楽やる部活が楽しくない道理なんてないよ!」
花音はいったいどの空間から、これほどまでに満ちあふれた自信を取り寄せているのだろう。紅良の発言を根こそぎ無意味と断じた花音の表情は、まるで隙が見当たらないほどに晴れやかで、どんな反駁も許してくれそうにはなかった。満面の笑みを湛え、彼女は嬉々として里緒の腕をつかんだ。
「始業式で言ってたよ、全体練習は音楽室でやってるんだって! ほら行こうよ行こうよー」
「まっ……待って……っ」
文字通り後ろ髪を掴まれるようにして歩きながら、里緒は背後の紅良を振り仰いだ。紅良は里緒や花音の挙動になど少しも気づかないかのように、手元で広げた本に黙って見入っていた。
引きずられるようにして進む廊下は長かった。昼下がりの黄色みを帯びた陽光に照らされながら、二人で音楽室を目指して歩いた。『ね、次は英語部のこと覗きに行こ!』『スキー部も面白そうだよなー』──。狭い廊下をすれ違った生徒たちは同じく部活選びに励んでいるようで、花音が愉快そうに口元を緩めた。
「高校来たなーって感じがするよねっ」
「高校来た感じ?」
「うん! だってこんなに部活の選択肢がたくさんあるもん」
言われてみると、中学では目にしたことのない部が弦国には多くある。ボート部やゴルフ部、科学部に商業経済部、同好会には馬術や軽音楽もある。この中に管弦楽部を選ぶ人はどれほどいるのだろう。経験者ばかりでないといいのに──なんて、里緒は密かに独善的な願いを玩んだ。
校舎一号館三階の最奥、音楽準備室の並びに音楽室は設置されていた。いざ着いてみると、ぽかぽかと膨らむ春の温もりを蹴破る勢いで、音楽室の中からはたくさんの楽器の音色がてんでばらばらに聴こえてきていた。オーケストラを箱詰めにしてひっくり返したような騒ぎを前に、花音と里緒は、顔を見合わせた。花音がつぶやいた。
「……なんか、勇気、要るね」
この期に及んで花音にそんな台詞を吐かれるとは思わなかった。里緒は掠れた声で応じた。
「どうしよう……」
「頑張って開ける」
決心がついたらしい。花音は表情を硬くして、引き戸に手をかけた。
不意に背後から声が降りかかった。
「あれっ。もしかして新入生の子?」
「そうだけど」
ごく自然に返事をした花音の顔が、一瞬のうちに引きつった。しまった、今の声は先輩ではないのか。
怒られる! ──反射的に首をすくめた里緒だったが、声の主は怒りを少しも感じさせない勢いでトーンを跳ね上げた。
「やった! さっそく二人も見に来てくれた! ──ごめんね、ちょっとそこ通してね」
ポニーテールの髪を揺らし、立ち尽くす里緒と花音の間を通り抜けた先輩は、慣れた手つきで音楽室の扉を開け放った。
途端、無秩序に流れ出す音、音、音。
里緒は凄まじい音の奔流に全身が飲まれるのを覚えた。思っていたほど懐かしい感覚はしなかった。
先輩が声を張り上げた。
「静かにしてくださーい! 新入生見学第一号が来てくれましたっ!」
そんな大声で言わなくても! ──里緒の遮る言葉は声にならず、部員たちは一斉にこちらを振り返ってしまった。ああ、注目を浴びている。逃げ場のないほどの視線を浴びている。今すぐにでも傍らの壁と同化して見えなくなってしまいたい気分だったが、隣の花音はむしろ嬉しそうに先輩を見上げ、勇んだ口調で尋ねた。
「私たち一番なんですか!?」
「そうよー。ようこそ、我が管弦楽部へ!」
彼女もにこやかに微笑んだ。ピンで留められた黒い前髪の下には、ぱっちりとした二つの瞳が光っている。格好よくて、可愛い。花音との可愛さ勝負は五分五分だろうか。里緒はいよいよ本気で壁に同化したくなった。
ショートカットの先輩が駆けてきて、滝川、と彼女を呼んだ。
「練習に戻っていいよ。紹介は私がするから」
「はーい」
滝川と呼ばれた先輩は、ウインクまで残して自分の座席に戻っていった。練習が徐々に再開され、音楽室はふたたび乱雑な音の波の下に埋もれてゆく。
ショートカットの先輩が前に立った。里緒と花音は慌てて頭を下げた。
「初めましてになるかな。管弦楽部部長の大津はじめです」
「えっと、D組の青柳って言います!」
「……た、高松です」
初対面の部長を前にしても臆さず自己紹介をしてしまうあたり、花音はやっぱり豪胆である。か細い声をひねり出しながら里緒はつくづく思い知らされた。
花音の目はさっそく、はじめの手に握られた巨大な縦長の金属製楽器に釘付けになっていた。金属製だが、彼女が持っているのは木管楽器のB♭管テナーサクソフォーン。通称テナーサックスである。
「管弦楽部は毎週、日曜日以外の六日間をここでの練習に費やしてます。もう少しして夕方になったら、各セクションごとに別れて普通の教室を使って練習するんだけど、今はみんなでここで自主練中」
音楽室を見渡すように斜めに立ったはじめは、思い付いたように椅子を引きずってきた。「これ、座っていいよ」
言われるまま、腰かけた。これといって変哲のないパイプ椅子の座面には金属質の冷感が満ちていて、黙って座っていると低音がびりびりと響いた。
「音“楽”なんだから楽しくやろう──。それが管弦楽部の部是。気楽に音楽と触れ合える環境だと思ってくれれば、それで、いいかな」
▶▶▶次回 『C.009 管弦楽部へ【Ⅱ】』