C.084 待たれていた声
紬が本社のビルを訪れるのは久方ぶりのことだった。
大手町地区の連鎖型再開発とやらで、日産新報所有の本社屋は真新しい超高層ビルに建て替えの最中である。その間、本社機能は近隣の賃貸オフィスに仮移転している。おかげで建物内の部署配置がどうにも分かりづらい。『Weekly日産』の編集部にたどり着くまでずいぶん手間取った。
「立川多摩支局の神林です」
名乗ると、グレーのスーツを着た男が「ああ」と言って顔を出し、すんなりと面会室に通してくれた。『Weekly日産』編集長、結城悟。これで会うのは二度目である。
律儀に電話でアポイントを取っておいてよかった。そんなものを取ってやる義理はない、押し掛けて問い詰めてやる──。一時はそのくらい息巻いていたのだ。
「取材情報をいただいた例の事件のことですか」
ペットボトルのお茶をすすめながら、何事もなかったかのような顔付きで結城は尋ねてきた。いったい他の何だと思っているのか。紬は静かに噛み付いた。
「話が違います。あの件については私、あくまで不確定情報だと断った上で、ちょっと触れるくらいにしてほしいって情報をお渡ししたはずですよね?」
「ですから、それをもとに記事化させていただいたわけですよ」
「それならどうして、あんな詳細で断定的な書き方になっているんですか!」
問題の『Weekly日産』をカバンから引きずり出し、紬はそれを机に叩き付けた。あらかじめ付箋の貼ってあったページを開くと、そこにはちょうど里緒たちの事件を大々的に扱った紙面が出てくる。
「記事、拝読しました。ちょっとどころか、特集の欄をすべてお使いになるなんて……。おまけに私のお伝えしなかったようなことまでずいぶん事細かに掲載なさっていますよね」
「ええ、まぁ。報道ですし」
「ですから話が違うと言ってるんです! どうしてこんな、大っぴらに話を広めるような真似を……!」
激情で声にビブラートがかかるのを感じながら、紬は結城を睨んだ。
『Weekly日産』の発売からわずか一週間足らず。スクープとして報じられたとは言え、さしたる世論形成力を持たないはずの週刊誌によって明かされた『仙台市母子いじめ自殺事件』は、今や世間の話題をすっかり独占する炎上状態にある。正直、こんな事態になるなんて思ってもみなかった。いくらなんでも展開が性急すぎる。掘り出された情報は猛烈な勢いで拡散され、インターネット上ではすでに“特定祭り”までもが開始されている。里緒のフルネームや住所が発覚するのも、時間の問題になってきた。
紬が『Weekly日産』編集部に渡した情報は、ここまでの事態を引き起こすほどの記事を書かせるような代物ではなかったはずなのだ。
「我々は、いただいた情報はいただいた情報として、取材の資源にさせていただいたまでです」
広げられた紙面を見ても結城は飄々としていた。
「掲載した内容の多くは、神林さんの取材された内容をもとに我々編集部が独自に調査を行って得た情報です。追跡取材の結果、これは大きく報じなければならないと判断して、特集に組み込んだまでのこと。したがって神林さんにいただいた情報とは無関係だ」
「無関係なんて……! 誰が一次情報を提供したと思っているんですか!」
「疑われるのならばこちらを見てください」
ぺっ、と机の上に放り出された何かの一覧表に、紬は目を通した。「取材させていただいた方々の連絡先です」と結城が付け加えた。
一角に目が留まった。
【橿原秀樹 市立佐野中学校教諭 022-327-……】とある。
「これ…………」
「被害者──高松さんの、中学三年の時の担任だそうですよ。我々が独自に手に入れた一次情報源です」
信じられない。思いっきり困惑を貼り付けてしまった顔で、紬は結城を見上げた。結城の顔は動じていなかった。
「我々の取材班は仙台支局にも置いていますからね。いくら未確定情報でも見逃される週刊誌だからといって、そんな手抜きはしませんよ。あんまり週刊誌をバカにしないでいただきたい」
「で、でも」
紬は食い下がった。上から下まで一覧表を読み込み、それを掴んで結城の前にかざす。迷惑そうに結城が眉をひそめた。
「ここには肝心要の高松さんの連絡先がありませんよね? 取材対象として最も重要なのは、被害者であり遺族の高松さん本人ではないんですか? 取材はともかく、記事化することの許諾は取っているんですか!」
声を荒げ、紬は無我夢中で詰め寄った。
記事を書くにあたり関係者に取材を行うことには、情報を得ることの他にも『記事にしてもよい』という言質を取る目的がある。他人の情報を勝手に報道し、公衆の面前にさらせば、プライバシーの甚大な侵害として糾弾されかねないからである。特に今回の事件は、当事者に未成年者を含むいじめ事件。そして当事者は今も生きている。
結城の目付きに宿る強気が揺らいだ。あー、と呻き声を挟み、結城は紬の手を離れた一覧表を手元に戻した。
「そこを突っ込まれると痛い。実は、高松里緒──と言いましたっけ、被害者の子に会って話を聞こうと思ってうちの記者に探させたんですが、上手く捕まらなかったもので……」
努力はしたが無理だった、とでも言い逃れるつもりか。ため息をついたらいいやら怒鳴ったらいいやら、紬には分からなくなってきた。どちらも同時にやりたいと思った。
「被害者は高校一年の子どもですよ」
叩き付けた週刊誌を閉じ、訴えた。
「母親と違って自殺してすらいないんですよ。何も知らないところで自分の過去がこんなに赤裸々に報じられたら、いったいどう感じると思っているんですか。無責任すぎますよ、あなたたちは」
明確に挑発の意図を込めて言葉を選んだつもりだった。
果たして、結城は腕組みをし、まっすぐに紬の顔を見た。
「……確かに、高松里緒さん本人に確認を取れなかったのは我々の落ち度です。そこは認めなければなりません。だが、報じたことそのものが間違っているとは思わない。私は責任をもって、あの号を世に送り出したつもりだ」
「そんなわけ──」
「神林さん。今、うちの総合問い合わせ窓口で何が起こっているのかご存知ですかね」
総合問い合わせ窓口。一般にコールセンターとも呼ばれる、日産新報社発行の新聞や雑誌に関する問い合わせの電話を一手に集約している施設である。
紬は首を振った。地方支局所属の紬が、そんなことを知っているわけがない。
結城の表情が険しくなった。
「リークが殺到しているんですよ。仙台市青葉区佐野──“あのあたり”の住民の方からね」
一瞬、結城が何の話をしているのか理解できなかった。
「今まで誰にも話せなかったが、電話でなら伝えられる。そう言って、話してくれるんだそうです。おかげで事実関係の把握もずいぶん進んできています。本紙の記事に取り上げられたのも、事実と確かめられた情報が増えてきたからです。うちが取材情報を回したんじゃない」
いいですか、と結城は畳み掛けた。
「神林さんが被害者の方を庇われる気持ちは分かります。だが、それを言ったら我々のような仕事は成り立たんでしょう。求めている人に、求められた情報を、しかるべき速さで伝える。それが我々、情報屋の仕事ではないんですか」
「だからって……!」
「あの記事には大きな反響があった。それだけ、あの記事を求めている読者がいたということです。それにリークの電話だって集まっている。『知りたい』だけじゃなく『知ってほしい』と願う人がいる」
ため息混じりの声色で、結城は話を締めた。
「みんな待っていたんですよ。いつか誰かが、どこかで声を上げるのを。それを神林さんは無下にできるんですか」
違う。そんな話をしようとしていたのではない。必要があるからといって正しい手続きを踏まないのはおかしい、そう伝えたかっただけだ──。思いきり口を開いて叫んでしまいたかったが、どんな言葉を選んでも上手く伝わらないような気がして、とうとう紬は反論の端緒を開くことができなかった。
報じるのが正義であることくらい、紬にだって分かっている。
どんな御託を並べようとも、いじめの正当化は決して許されない。それは立派な人権侵害であり、犯罪であり、弾劾されるべき絶対悪なのだ。──けれども。
(今、この瞬間にも、里緒ちゃんは昔を思い出して苦しんでいるかもしれないのに……!)
紬は唇を噛んだ。
だからあれほど言ったのだ。あくまで推測に基づいた情報として、『こんなことがあったらしい』程度の事実として報じてほしいと。
「いずれ学校側が会見で何らかの声明を出すでしょう。会見の日時が決まれば、我々の方でも記者を投入する予定です。第一報を出した誌としての自負はありますから」
椅子を立った結城が、「神林さんも同行されませんか?」と誘いの言葉を垂れる。反吐を吹き掛ける代わりに、紬はきっぱりと言い切った。
「結構です」
こんな男の部下と一緒に仕事をしたくはない。
そのまま、適当なあいさつを残して面会室を出た。ついでに本社の様子を覗いて行こうかとも考えたが、とてもそんな物見遊山の気分にはなれなくて、足早にビルを後にした。
大手町のビル風は強い。逆らって舞う髪を懸命に撫で付けながら、大股歩きで東京駅を目指した。──こうしてはおられない。
(あの人たちにその気がないなら、私がやるしかない)
紬は唇を固く結んだ。
里緒に会いに行く。
会って、事の次第を話し、勝手に過去を晒してしまったことを詫び、許しを得なければならない。
「もう何も聞きたくない! 怖いの!」
▶▶▶次回 『C.084 火に油』