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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第三楽章 不協和音の波に打たれて
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C.083 動揺

 





 結局、里緒は二日連続で管弦楽部を休んだ。

 夏の甲子園での応援ブラバン演奏が始まるまで、練習に費やすことのできる日数は残りわずか。その貴重な練習を、里緒は放棄してしまったことになる。

 休みの連絡があったことは、練習開始のあいさつの時に部長の口から伝えられた。


「合計六回も『すみません』って書かれてるんだよね、あの子からのメール」


 淡々としたはじめの言葉に直央や恵が噴き出した。しかし他の部員たちが微笑も浮かべないのを見て、ばつが悪そうに肩を引っ込めていた。

 スマホを掲げ、はじめは尋ねた。


「誰か理由を聞いてる人、いる?」


 とっさに美琴は一年部員たちの顔を見回した。舞香も、真綾も、みな不安げな顔付きで互いの出方を(うかが)っている。事情()知っていると言わんばかりの様子である。


「ぶっちゃけ、高松はできる方の子だから、多少休んだくらいで合奏に影響を与えるとは思わないけどね……。昨日は応援部の人たちとの兼ね合いもあったわけだし、この時期に理由のない欠席を認めるのはあんまり望ましくない」


 腕組みをしたはじめの目が細く引かれた。


「コンクール組にとっても嬉しくはないでしょ」


 嬉しくない! ──つんとした表情の菊乃が、そんな無言のオーラをばらまいている。昨日からずっとこんな顔付きなのを思い返していると、「あのっ」と甲高い声が音楽室に響いた。

 起立したのは花音だった。


「ちょっと、あれ話すの?」

「やばいって!」


 足元の一年たちが口々に制止の言葉を(ささや)いたが、花音には耳を貸す気配はない。はじめの瞳孔が少し大きくなった。


「何か聞いてるの、青柳」

「えっと……、あの、本当かどうかはまだよく分からないんですけど」


 クラリネットケースの持ち手をしっかりと握ったまま、花音はうつむいた。


「その、仙台でいじめ自殺事件があったって、ニュースとかで話題になってるじゃないですか。あれに里緒ちゃんが関わってるんじゃないかって、いま一年生の間で噂になってて……」


 音楽室の空気が変わった。

 どういうこと、とはじめは尋ねた。落ち着き払っているのか、動揺を上から強引に押さえつけているだけなのか、美琴には見分けがつかなかった。


「里緒ちゃん、中学の時は宮城県にいたって言ってたんです。いじめが起きたのはおととしで、被害に()ってたのは中二の女の子だって新聞に書いてあって。それって里緒ちゃんが宮城県にいた時期とおんなじなんですよ。……それに、ネットで加害者とか被害者の特定がどんどん進んでるみたいで」


 一拍、花音は間を空けた。


「……被害者の子の名前は“りお”って特定されてるらしいんです」


 そんな出来のいい話があるか──。誰もが下を向いて破裂しそうな本音を必死に押し止めているのを、美琴はひしひしと肌に感じた。あの里緒が、重大ないじめ事件の被害者? メディアからもネットからも同情を受ける悲劇の少女?

 あり得ない。

 あり得るべきではない。


(でも、あり得る)


 喉を流れ下ってゆく苦い心の(おり)を、美琴はぐっと飲み込んだ。

 里緒なら、あり得る。あの卑屈な態度、異常なまでに他人の視線を気にする姿。一年以上にもわたっていじめを受けていたのなら、あんな人格形成がなされたって何も不思議ではない。かえって自然に説明がつくくらいである。

 それに、いま花音の語ったことはすべて、いつか校門で出くわした新聞記者が尋ねていったことでもあるのだ。


「高松さん本人がそう言ってたわけじゃないんだね?」


 洸の念押しに花音がうなずいている。


「……はい。だからみんな、多分そうなんじゃないか、ってくらいに」


 そっか、と洸は後頭部を()いた。おそらくはその眉の傾きが、部員全員の当惑を代表していた。


「だからって、高松さん本人に聞くのは難しいだろうしな。……どうする」

「私から話を聞いてみる。だからこのことはいったん、忘れて」


 はじめの一声で、ひとまず音楽室の空気は少し和らいだ。それがいい、と洸の目が語っている。部長の決断はこういうとき頼りになる。花音はまだ何かを言いたげな顔をしていたが、はじめの目配せに応じて元の座席に腰かけた。

 ごとん、と音がした。菊乃が椅子ごと美琴の方に寄ってきた音だった。


「美琴、知ってた? その話」

「知らなかった」

「あたしもさっぱり」


 美琴は肩をすくめてみせた。そうしている間も館山の姿が脳裏にこびりついて離れなかったが、()()()()()()()()ふりを(かたく)なに装った。

 練習スケジュールの表に目を通している部長たちをよそに、いじめか、と菊乃は伏し目がちにつぶやいた。


「もしも本当だったとして……そんなにきついのかな、いじめられるのって。あたし、いじめには()ったことないし、上手く想像できないや」


 菊乃の性格と立ち居振舞いでは、確かにいじめられることは考えにくい。

 自分には何となく分かる気がする。足元に落とした視線をそっと蹴飛ばして、美琴は菊乃には気付かれないように息を殺した。

 いじめはそのまま“孤独”に繋がる。孤独の痛みや味方のいない苦しみ、悲しみなら、美琴は身をもって知っているのだ。弦国の仲間たちが知らない場所で。


「よく分かんないけど早く復帰できないかな、高松ちゃん」


 フルートのケースを抱きかかえた菊乃が小声で漏らす。美琴は黙って、椅子を立った。じきに体操が始まる。その前にトイレに行っておきたかった。

 ついでに、ぞっとするほど冷めた血の気も、里緒を糾弾する理由を失って宙ぶらりんになった余り物の対抗心も、下水道の彼方へ流してしまいたかった。





 ◆





 夕時前の国分寺駅は、買い物帰りや乗り換えの客であふれ返っていた。

 どこを向いても声がする。

 耳をふさいでも音がする。


「…………」


 吐息も漏らさぬつもりで口を固く閉ざし、里緒は通学カバンの紐をぎゅうと握りしめた。もう一方の手がクラリネットのケースをきちんと持っているのを確認し、目の前に滑り込んだ八王子行きの電車に乗り込んだ。

 ここのところ毎日のように放課後遅くまで居残りで練習に励んでいたせいか、この時間帯の電車で帰宅するのはずいぶん久しぶりのことに思えた。帰宅ラッシュのそれに比べればマシではあるものの、午後四時の中央線はそれなりに混んでいる。必死に肩を小さくしながら、人波の中へ分け入って吊革に手を伸ばした。

 ちっ、と誰かの舌打ちが聞こえた。


「ひ…………!」


 里緒は反射的に目をつぶって防御態勢を取ったが、誰かに殴られることも蹴られることもなかった。たちまち、底知れない羞恥心と(みじ)めさに打ちのめされて、うなだれながらイヤホンを耳に詰め込んだ。

 ノイズキャンセル機能付きのイヤホンから流れ込む音楽の濁流は、押し退けて入り込もうとする外界の音を跡形もなく遮ってくれる。あとは、目を閉じてしまえばいい。里緒を苦しめる邪魔な情報はこの世から消える。感じなくなる。


「……………」


 中吊り広告の一枚さえ視野に入れないように、うつむいたまま目を閉じた。

 早く。早く立川駅に着いて、私を解放して──。祈る里緒の感情になど少しも敬意を払うつもりのない、ひどく緩慢な速度で、電車は国分寺駅をゆるゆると滑り出した。




 この二日間、行き帰りの電車はこの世に現出した地獄のようだった。どこを向いても人の姿があった。大混雑の中では満足に身動きも取れず、嫌でも人々の話し声を間近に聞かされた。

 血の気が引く思いをしたのも一度や二度ではない。


 ──『出たそれ、いじめ自殺の記事じゃん。俺も読んだ』

 ──『当時のクラス担任の名前も特定されたんだってよ。マジざまぁ見ろって感じ』

 ──『こういうのって犯人逮捕されたりしないの? 警察は何やってんだろ』


 こんな言葉が聞こえてくるたび、凍り付いて固まった息が里緒の喉を詰まらせた。やめて、もうその話はしないで、聞きたくない──。叫びたくても喉は開かず、その都度、やっとの思いで深呼吸をして詰まりを取り除いた。いつ過呼吸の発作が起きてもおかしくない、毎日が不安と恐怖の連続だった。

 見上げれば、中吊りの雑誌広告が『緊急特集・仙台市母子いじめ自殺事件の謎を追う!』と高らかに(うた)っている。ドア上の液晶ディスプレイにはニューステロップが流れている。曰く、『教育評論家の越谷(こしがや)まり氏、いじめ自殺の絶えぬ教育界に警鐘』……。眼前に座る人の広げた新聞が、ふと目に入った他人のスマホが、得意気な顔をして里緒の過去を無邪気にほじくり返そうとする。それが里緒の味方をしてくれようが何だろうが、里緒にとってはどうでもよかった。関心を持たれているというだけで、苦痛の原因となるには十分だった。


(もう嫌だ)


 耳をふさいで目を閉じて、暗闇のなかで里緒は静かに泣き叫んだ。


(そんなに寄ってたかって私のことを知ろうとしないでよ。私、まだここで生きてるんだよ。ぜんぶ忘れて生きようとしてるところだったんだよ……っ)


 ああ、早く帰って閉じこもりたい。ほんの小さな音でもいいからクラリネットを吹きたい、口をつけたい。そう思った。大切な愛器をそんなことのためにしか使えない情けなさに胸を締め付けられて、こんな些細なことで練習を休んでいることへの後ろめたさまでもが押し寄せて。わずかにでも気を抜いた瞬間、底の見えない感情の裂け目の淵へ滑り落ちてゆきそうだった。


『──立川、立川。ご乗車ありがとうございます』


 イヤホンの片耳を外すと、駅の構内アナウンスが耳に飛び込んでくる。着いたと思ったとたん、人波の圧に背中を力いっぱい押されて、里緒は立川駅のホームに弾き出された。

 しくしくと背骨が痛む。


「うぅ……」


 閉じきった口元がわずかに緩み、(うめ)き声が漏れる。だが、それもそこそこに急ぎ足で階段を登り、目を伏せたままコンコースを駆け抜けた。押し当てたICカードが悲鳴のような音を立てて戸を開く。足早に改札を通過して、外に出た。


 一刻も早く、誰もいない場所へ。

 誰の目も届かない、誰の声も聞こえない天岩戸の内側へ。

 里緒の願いはそれだけだった。









「リークが殺到しているんですよ。仙台市青葉区佐野──“あのあたり”の住民の方からね」


▶▶▶次回 『C.084 待たれていた声』

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