C.082 報道の余波
朝から里緒は様子がおかしかった。珍しくイヤホンを外し、不自然なまでに周囲の視線を気にしながら、何度も何度もスマホの画面を覗き込んでいた。無論、画面はしっかり手で隠した状態である。
日頃から里緒に付きまとって言動を見守っているはずの花音にさえ、いや花音だからこそ、その姿は奇異に映って仕方なかった。
「里ー緒ちゃん」
昼休みに入って早々、声をかけに行くと、飛び上がらんばかりの勢いで里緒は「ひゃあ!」と肩を跳ねさせた。
きっかけはどうあれ、久々に里緒に話しかけることができた。今にも舞い上がりそうな気持ちをぐっと抑えて、「ね」と花音は首を傾けた。
「どしたの? なんか怖い夢でも見たの?」
「そ、そういうわけじゃっ」
そうは言うが、目の周りにはくっきりと隈が浮かんでいる。寝不足なのは誰の目にも明らかだった。そして花音が知りたいのは、その寝不足の理由である。
「じゃあ、昨日の練習でまた先輩に何か言われたの?」
「……そうじゃ、ない」
「分かった! 親とケンカしたとか!」
「…………」
「じゃあ、じゃあ……帰り道でサイフ落としたとかっ」
「…………」
「黙ってたら分かんないよう」
甘えた仕草をしてみても、しゃがんで机にすがり付いても、里緒の様子はいっこうに変わらない。花音を見下ろす彼女の顔は普段以上に引きつり、よく見ると身体も小刻みに震えている。
夏前の教室が寒いはずはない。とっさに、怯えてるんだ、と思った。花音の目には見えていない、恐ろしい何かを、きっと里緒はしきりに警戒しているのだ。
「あの」
里緒はおどおどと口を開いた。
「私、今日の部活、ちょっと休ませてもらおうと思ってて……。部長さんにそのことを伝えてもらうの、頼めないかな」
「な、なんで? どうして?」
今日はブラバンの全体合奏がある日のはずだ。確か、応援部の人たちも参加して、実際の演奏に合わせてチアリーディングの動きを確認することになっていた。不参加といったら菊乃が機嫌を悪くしそうである。
思わず尋ね返した花音に、「ごめんなさい」と嗄れた声で里緒は訴えた。
「でも、大丈夫。私は大丈夫。だから心配しないで」
とても大丈夫には見えないから声をかけているのに──。
なんと返事をしたらいいものか分からず、花音は無言に陥ってしまった。
すると背後で、がらら、と扉の開く音がした。購買からの帰りなのか、ビニール袋を片手に賑やかに話しながら入ってきたのは、クラス委員の芹香たちである。話し声が大きい。会話の内容もダダ漏れだ。
とっさに反応した里緒の視線が芹香たちを捉える。それを見て、花音も慌てて彼女の視線を追った。
「でさー、ちょっと引用しただけで、ワケわかんないくらいRT集まってきてー。批判リプも殺到するし。通知切らないとやってらんなかったよ」
「えー! なに言ったらそんなに荒れるわけ?」
「“いじめられるのなんか陰キャの宿命でしょ”って」
「勇気あるなぁ美怜、そんなの炎上するに決まってるじゃんね」
話を聞く限り、どうやら花音のすぐ後ろの席の子──一戸美怜が、何やらSNSの書き込みを炎上させてしまったらしい。そういうの良くないよ、と言いたげに芹香が眉をひそめているのが窺えた。
里緒の目はまだ、彼女たちに釘付けになっている。気になった花音は立ち上がった。
「ね、何の話?」
尋ねに行くと、「知らないの?」と少女たちはスマホの画面を見せてきた。ニュースの閲覧アプリである。
【母子ともにいじめか、母自殺の衝撃 悪質な隠蔽の疑い】
見出しにはそうある。ため息混じりに美怜がSNSの画面を開いてみせた。美怜のアカウントのようだったが、投稿した文の下には凄まじい数の反応リプライが食らいついていた。
「ちょっと意見してやろうかなーって思っただけですぐ炎上だよ。あたし、怖くなってアカウントに鍵かけちゃった」
「だから言ってたじゃない、そういうことする時は初めから鍵アカにしといた方がいいんだって……」
芹香が困り顔でたしなめている。やっと細かい状況が掴めた。美怜は公開状態のアカウントで、何か世間の気に障るようなことをつぶやいてしまったのだろう。
花音は記事に目を戻した。
美怜の件はともかく、こんな事件が起きていたなんて知らなかった。仙台市での出来事とある。遠い彼方の事件には違いないのだけれど、つい、食い入るようにして最後まで読み終えた。なにせ被害者の年齢は花音と大差ないのだ。嫌でも自分と重ねてしまう。
「なんか、すごい事件だね。お母さんまで追い詰めちゃうなんて。しかも自殺って……」
「遺族は何も言ってないらしいし、本当のことなのかどうかはよく分かんないみたいだけどね」
芹香が補足を加えてくれる。
ふぅん、と画面から目を離してつぶやいた花音は、その時になってようやく、背後からの視線を感じなくなっていることに気付いた。振り向くと、里緒は両耳に手を押し当てながら固く目を閉じていた。真一文字に結ばれた口、真っ青な顔、およそ生気を感じることのできない頬の張り。耳元からはイヤホンのコードだけが覗いている。
「り、里緒ちゃん? どうしたの?」
問いかけても反応はなかった。完全に聞こえていないようだった。耳に飛び込む音のすべてを、里緒は強引にシャットアウトしようとしている。
花音が目を離していた時間はわずか一分ほどにすぎない。いったい、どうしてしまったのか。
「なんか、ここんとこの高松さん、前よりも感じ悪くない?」
何気なく美怜がつぶやき、また周囲の制止と失笑を買う。──その瞬間、花音の小さな胸を、不気味な色の予感が不意にぼうと照らし出した。芹香の手に戻っていたスマホを、ごめん、と声をかけて取った。
ニュースの画面には確かに、事件が起きたのは宮城県仙台市の市立中学だと書いてあった。いじめの発生は二年前、当時の被害者少女の学年は中学二年。逆算すれば被害者少女は現在、高校一年生相当の年齢のはずである。
──『中学の時は宮城県の仙台市にいました!』
年度始めの自己紹介で里緒の口にしていた言葉が、今さらのように記憶の隅へと去来してきた。
(まさか、そんなわけ)
花音はスマホを握りしめた。
笑い飛ばしてしまいたいと思ったのに、うまく笑顔を浮かべられなかった。
◆
新聞、週刊誌、インターネットメディアやまとめサイト、ブログ、SNS、それに匿名掲示板を通して、高松家の事件は『仙台市母子いじめ自殺事件』と命名され、瞬く間に拡散していった。
事件に触れる者の論調は、ほぼ加害者側への批判で一貫していた。卑劣ないじめ事件であるばかりか、そこには親も巻き込まれ、しかも母親は自殺している。事実であれば学校も教育委員会も責任を問われかねない重大事件であり、おまけに被害者遺族の行方や動向は今も分かっていない。
『中学校と教委はただちに会見を開き、事の認否について説明を行うべきです』
『一刻も早い第三者による調査委員会の設置が求められる。市長や市役所はいったい何をしているのか』
名だたる教育評論家や教育学の研究者たちからも一斉に非難の声明が発せられ、それらがテレビ番組や新聞を介して世間に流布されたことで、世論はますます“反加害者”に傾いた。報道も刻一刻と過激さを増していった。全日本テレビの情報番組が真っ先にこの件を取り上げるや、各局のテレビカメラや報道カメラマンが続々と現地に乗り込み始め、取材を拒む佐野地区の住民たちを“悪者”として画面や紙面に映し出した。
インターネット全盛期の現代においても、旧来メディアの代表格たるテレビや新聞の世論形成力は決して侮れない。もはや“加害者”の側には、何の正義も認められる気配はなかった。
だが、安全圏への逃避という形で事件の解決を図ろうとしていた里緒や大祐にとって、その状況は福音であるどころか、かえって自らの首を絞めにかかってくる悪夢でしかなかったのである。
瑞浪弁護士は電話口の向こうで唸っていた。
──『大きな騒ぎになってしまいましたね』
「ええ……」
くそ、と悪態をつきたくなるのをこらえて、大祐は口から離したタバコを静かに灰皿に押し付けた。他に人影のない喫煙室の片隅に、受話器越しの瑞浪の声がぐわんと反響した。
──『ただ、世論は高松さん方に同情的です。どういう形で証言を求めるにせよ、この状況は我々には有利に働くと思われます。あれだけ報道機関に押し寄せられたら、学校もいい加減、黙ってばかりではいられなくなるでしょう』
「そんなに上手くいくものなんですか。『我々には関係ない』って言い張られるリスクが消えたわけじゃない」
──『……それは、まぁ、おっしゃる通りです。学校側や教委に良心があるのを祈るしかありません』
要するに、議論の場に引き出しやすくなったということにすぎない。大祐は歯噛みした。むしろ非難の矛先を向けられたことで、向こうの態度の硬化を招く原因にすらなったかもしれない。
訴訟の相手方を引きずり出す方法など、その気になればいくらでも編み出せる。そんなことのために目立ってしまいたくはなかった。それならむしろ穏便に、静かに訴状を突きつけて、里緒に余計な負担をかけない形で解決してしまいたかった。いくら夢想しようとも、もはや後の祭りであることに変わりはないのだが。
「……とにかく、訴状の作成はもうちょっとだけ先伸ばしにさせていただけませんか。こちらの方も手一杯なんです」
分かりましたと瑞浪が応答したのを待って、電話を切る。行き場のなくなった大粒の息がスマホの画面を滑り落ちて弾けた。それを見届けてからもう一度、「はぁ……」と嘆息した。期待していたほど、心の曇りは晴れなかった。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
(『遺族は刑事告訴すべきだ』とか『遺された子の心のケアを』とか、どいつもこいつも好き勝手に言いやがる)
蓄積されてゆく事件へのコメントを見かけるたび、やり場のない感情が横隔膜を押し上げて吐きそうになる。頼むから、お願いだから、何も知らないままでいてくれ。当事者だけの問題にさせてくれ──。それが今の大祐の正直な心境で、それ以上でも以下でもなかった。
やけくそになってスマホをポケットに突っ込み、喫煙室を出た。すぐ向かいには自販機の置かれた休憩室があった。
「よ」
太みのある声が大祐を呼び止める。振り向くと、缶コーヒー片手の亮一がそこに立っていた。これから休憩のつもりらしい。
呆れたように亮一は笑った。
「またタバコ休憩かよ。いくらなんでも吸いすぎじゃねえの」
「新発田にだけはとやかく言われたくない。休肝日も設けずに飲んだくれて高血圧の診断を受けたくせに」
素っ気なく返して横を通過しようとしたのに、亮一はその意図を察してはくれなかった。「なぁなぁ」と肘で脇腹をつついてくる。
「聞いたか。東北支社の経理部長、新入社員へのパワハラで更迭されたって噂だぞ。懲戒食らってどこかの閑職に飛ばされたらしい。お前もそれ──」
「今は仙台の話は聞きたくないんだ」
強引に遮って、大祐はオフィスに戻る廊下へ一歩を踏み出した。
古巣のことは思い出したくなかった。今さら更迭が何だ、懲戒が何だ。あそこには自分を苦しめた同僚たちがいる。上司がいる。自分が声を上げた時には、誰も彼らに制裁を加えてはくれなかった。
この世のすべての理不尽は、『仕方がなかった』の一言で簡単に処理される。
亮一はまだ、報道されているいじめ事件の当事者が目の前の同僚であることには勘づいていないらしい。喫煙室の戸を開けて中を窺い、「お前、blossomまるまる一箱も空けたのかよ!」と頭を振っている。
無視して大祐は経理部オフィスのドアを開け放った。
大祐にとってタバコは生命線なのだった。息を落ち着かせ、心の平穏を保つために、苦しくても吸い続けねばならない。里緒にとってクラリネットの吹奏がそうであるように。
「私、まだここで生きてるんだよ。ぜんぶ忘れて生きようとしてるところだったんだよ……っ」
▶▶▶次回 『C.083 動揺』