C.081 日の目
──その夜も、里緒は普段通りの日課に励んでいた。
日中の練習で上手くいかなかった場所の運指を、実物を使って何度も繰り返す日課だった。身体が覚えるまでが目安だ。木管楽器の中でも際立ってキイシステムの複雑なクラリネットでは、指使いが多くの奏者の課題になる。里緒だって例外ではない。だから、愚直に繰り返す。
指が痺れてきた。マウスピースから唇を離して、ほっ、と一息をついた。時計を見上げると、時刻はちょうど午後八時を回ったところだった。
さいわい、運指だけの練習なら音を発することもないので、近隣の迷惑にもならずに済む。
(あと三十分はやれるかな)
そしたら次は学校の宿題に取りかからなきゃ、それに家事も──。目の前に積み上がるやるべきことの多さにめまいを覚えかけたが、ともかく今はクラリネットに集中しないといけない。付箋まみれの楽譜をめくって、次の指摘を目で追う。
ふわ、と譜面が浮いた。
玄関からの風圧だった。廊下の奥を覗き込むとすでにドアは閉まっていて、そこにはスーツ姿の大祐の姿があった。今日は帰ってくる日のようだ。
「おかえり」
声をかけるや、大祐は靴を脱ぐのもそこそこに、足音を鳴らしながらまっすぐ廊下を突っ切って、居間までやって来た。
いつもの大祐の様子ではない。とっさに里緒の背中を寒気が撫でたのと、カバンを放り出した大祐が里緒の両肩を掴んだのは、ほとんど同時の出来事だった。
「きゃっ……!」
「どうして話したんだ!」
至近距離で怒号が炸裂した。息を詰まらせた里緒に、大祐は感情の凄まじく昂った顔で迫り寄ってくる。私、なにか、話しちゃいけないことを誰かに話しちゃったっけ──。さっぱり身に覚えのないまま、肩を何度も強く揺さぶられた。
「いつの間に! どうしてだ! 少しくらい父さんに相談してくれたってよかっただろうが!」
「なっ……なんのことだか分かんないよっ……」
大祐の血相がまた変わった。里緒から手を離し、大祐は放り出していたカバンを手繰り寄せて新聞を引っ張り出した。今日の日産新報の夕刊である。
社会面のページを乱暴に開いた大祐は、それを里緒の前へ叩き付けるように置いた。
「見てみろ、この記事!」
言われるままに里緒は記事に視線を這わせた。
(どうして? なんでこんなに怒ってるの?)
恐怖で激しく収縮した胸が、血を送り出すたびに鈍く痛む。しかしそれも紙面に目を通すまでのことだった。里緒の目は瞬く間に、ページの最上段を飾る派手な太字の見出しに吸い寄せられた。
【母子ともにいじめか、母自殺の衝撃 悪質な隠蔽の疑い】
仙台市青葉区で一昨年から昨年にかけて、地域の公立中に通う女子生徒がいじめを受けていたことが分かった。学校や教委は『いじめはなかった』と主張しており、現地には報道の取材を拒む旨の貼り紙がなされるなど、いじめを隠蔽するかのような動きが起きている。さらに、生徒の母親もいわゆるママ友間のトラブルを抱え、自殺していたことが判明した。山あいの町で一体、何が起きているのか。──
ものの二行も読み進めることができなかったが、たったそれだけでも当事者の里緒が見紛うことはなかった。
この記事が取り上げているのは、里緒と瑠璃のことである。
みるみる血の気が引いていった。青ざめた顔を上げ、ようやく自分の首にかけられている嫌疑の内容を理解した里緒は、震える声で答えを発した。
「私、こんなこと、しゃべってない」
冗談ではない。こんなことは誰にも話していない。新聞社の取材を受けたことだってない。弦国にも数日前、週刊誌の記者を名乗る男が来ていたというが、里緒自身は取材を受けずに済んでいる。いったいどこからいじめの件が露見したのか、この場で里緒が大祐を問い質したいほどだった。
「信じていいのか」
大祐の声も震えていた。怒りか、恐怖か、その区別は里緒にはつかなかったが、ともかく懸命にうなずいて無実を訴えた。きしり、と首の関節が悲鳴を上げた。
「参ったな……」
大祐は力なく里緒の隣に座り込んだ。とてもクラリネットどころではなく、里緒は重みのある管体を壁の方へ追いやった。何かに指先で触れたその瞬間、ひびの入った心臓が一気に潰れて破綻しそうだった。ゆらり、大祐の背後から蜃気楼のように立ち上がった何者かの影が、無数の人影が、漆黒のオーラを全身にまとって、見る間に里緒の周囲を取り巻いてゆく。
どうして。
どうして里緒の過去が、こんな記事になっているのか。
それも、肝心の里緒や大祐が、少しもあずかり知らないところで──。
「日産新報に事情を問い合わせてみる。……最悪だ、こんなの」
唇を噛んだ大祐は、しかし今度はいたわるように、そっと里緒の肩を握った。
「いいか、里緒。こんなもの気にする必要はない。見なかったことにしていい。記事に書いてあったことはきれいさっぱり全部、忘れるんだ」
里緒は茫然自失のまま、分かった、とつぶやいた。
遡ること六月二十日、木曜日。この日発売の週刊誌『Weekly日産』によって第一報の報じられた里緒のいじめ事件は、その日のうちに日本中に点在する膨大なネット民たちの知るところとなり、コメントやアクセスの殺到する炎上状態に陥った。
母も子もいじめを受け、しかも母親は家族を置いて自殺するという凄惨な事件である。たちまちオンライン上にはまとめ記事が乱立し、著名人がSNSにリンクを貼るなどして、猛烈な勢いで話題は拡散。この事態に、ついに日産新報本紙の仙台支局が腰を上げた。二日後の二十二日には支局所属の記者が佐野地区に送り込まれ、話を聞き付けた他社記者との情報の争奪戦に突入。例によって佐野地区は住民による自主的な報道規制の最中であり、記者を追い払うための通報で警察が駆けつける騒ぎにまで発展し、その模様が近隣の住民によって動画投稿サイトで実況されたことで、一連の騒動はますます過熱していった。
多数の問い合わせを受けたであろう仙台市の教育委員会、それに市立佐野中学校が一貫して沈黙を決め込むなか、満を辞して六月二十四日、日産新報本紙の社会面がこの一件を報道した。大祐と里緒が目の当たりにしたのはこの記事だった。
当事者の知らないうちに、事件は一気に日の目を見つつあったのだ。
いや、“火がついた”と言った方がよかったかもしれない。
そして、いじめの社会問題化がしきりに叫ばれる近年の日本において、『いじめ自殺事件の隠蔽疑惑』などという可燃性の高い話題が報じられれば、鎮火に困難を極めるのは誰の目にも明らかである。
取り返しのつかない大事件が、幕を開けた。
「今は仙台の話は聞きたくないんだ」
▶▶▶次回 『C.082 報道の余波』