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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第三楽章 不協和音の波に打たれて
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C.080 予兆

 




 謎の記者の取材を受けていたのは美琴だけではなかった。遅い時間まで居残りで練習をしている野球部や応援部の生徒のなかにも、同じ男に話しかけられたという子が何人も出ていた。

 学校の取材許可を得ていたとはいえ、一歩間違えば不審者である。話は(またた)く間に生徒たちの間を巡って、猛烈な勢いで尾ひれをまといながら、数日も経つ頃には大半の生徒の知るところとなった。

 ──夕方の五時過ぎに現れて、誰かを探していたらしい。

 ──大きなカバンを持った人を狙って話しかけていた。大人数でいると話しかけられなかった。

 ──校門を出てきたタイミングでカメラを構えていた。もしかすると、特定のために写真を撮られていたのかもしれない。

 不気味な噂話は紅良のもとにも流れてきた。情報の出どころは花音である。休み時間に里緒に話しかけられないストレスがよほど溜まっているのか、近頃、花音は毎日のように『ねーねー』と寄ってきて、そんな怪しげな噂話を垂れ流していくのが習慣になりつつあった。

 しかし内容が内容である。楽器の入ったケースを抱えて登下校することのある紅良としても、無関係のことと割り切って済ませるわけにはいかなかった。




 その日の朝は、翠と国分寺駅のホームでばったり出くわした。多摩川を挟んで立川市の向こう側にある日野市から弦国へ通っている翠は、紅良とは行き帰りのタイミングが一致することが多かった。


「そのカメラマンだか記者だか、あたしたちは顔合わせずに済んでラッキーだったよねー」


 ホームを歩きがてら、話題に困って(くだん)の噂話を振ると、翠はカバンを後ろ手に握って天井を見上げた。


「要するにさ、あたしたち国立WO(ウインドオケ)の練習あって早めに校門を出てたから遭遇しなかったわけじゃん。楽器のケースだって持ってたし、捕まったらきっと、あることないこと色々と()かれてたんだろうなぁ」

「向こうが何を知りたいのか分からないのが不気味よね」


 紅良も応じた。男女の区別なく声をかけていたと言われているが、万が一にも犯罪目的だったら大変である。だいたい、名の知れていない中小規模のメディアに所属していても『記者』は名乗れるわけで、その気になれば偽物でも記者なんて簡単に詐称できる。日産新報所属というのも怪しいものだと思った。


「もしかしてさ」


 ICカードを取り出した翠が、にかっと笑った。


弦国(うち)みたいな音楽の弱い学校にも実は優れた奏者がいるんじゃないか! 発掘して特集を組みたい! とかいう趣旨の取材だったりして」

「夢の見すぎ」

「そんなぁー。あり得たっていいじゃん」


 無惨に斬られた翠が悲しげに抗議する。あり得てたまるか。スマホケースに仕舞っておいたICカードを引っ張り出しざま、紅良はわざと冷やした声をかけた。


「まさか自分がその取材に引っ掛かるとでも思ってる?」

「……思ってない」

「なら、変な妄想しない方が自分の尊厳を保てると思うけど」

「でもでも!」


 翠は迷うように視線を巡らせてから、細い指で中空を差した。


「ほら、高松さんとか! あの子のレベルだったら取材来ても違和感ないし。未来の名演奏家のタマゴ、的な……」


 まさか。いっそうあり得ない。何より最近の里緒には見るからに余裕がない。もしも翠の言ったことが事実だとしても、あの引っ込み思案な里緒が取材を受けるようには思えない。


「ないか。高松さん、そんなことよりずっとイヤホンで曲聴いてそうだしなぁ……」


 同じ結論にたどり着いた様子の翠が、がっかりしたようにトーンダウンする。

 紅良は嘆息して、コンコースの天井を見上げた。

 取材云々の真偽はともかく、里緒をもう少し立ち直らせてあげることはできないのだろうか。立川音楽まつりで軽微ながらもミスを犯して以来、ただでさえ乏しい精神力を里緒は日に日に消耗していっているように見える。つい数日前など、授業中に過呼吸を起こして倒れたばかりである。さすがの紅良も仰天した。過呼吸という病を初めて目の当たりにさせられた。

 彼女の中で何が起きているのか、外野の紅良には想像することしかできない。きっと翠の懸念も、それと同じところに根差しているのだろうと思う。


(宮城出身の子を探してるらしい、って噂もあったな)


 花音から聞かされた話の続きを思い返しながら、ICカードを自動改札機に押し付けた。『まさか里緒ちゃんじゃないよねー』──。花音はその話をしてくれた時、少しも疑う余地はないかのように朗らかな顔で笑っていたが。

 何にせよ、あの噂話が里緒に余計な不安を与えるようなことがあってはならない。里緒に取材の噂話が伝わっていないことを祈るしかない。

 二人揃って、改札の外に出た。気まずい空気を嫌ったのか、翠が強引に違う話題を持ち出してきた。


「ね、そんなことより昨日の帰りにつばさがさ──」


 どんと重たい音が響いた。振り向くと、見覚えのあるセーラー服の少女が、翠の右肩と正面衝突したところだった。声にならない悲鳴を漏らした翠が、「ちょっとー」と憤る。


「ちゃんと前見て歩いてよねっ」

「すみません」


 少女は顔を上げた。

 目と目が合ったその瞬間、紅良はホームで翠と合流してしまったのを心の底から後悔した。──最悪だ。そこに立っていたのは奏良だったのである。

 鼻で笑った奏良が問いかけてきた。


「西元じゃん。元気そうだね」

「……おかげさまで」


 紅良は悪態にならないぎりぎりの言葉を選んだ。別に関わり合いになりたいわけでもないだろうに、どうしてこの奏良(ひと)目敏(めざと)く自分を見つけて話しかけてくるのだろう。『早く逃げ出したい』以外の感慨が何も浮かばない。

 二人を見交わした翠が「知り合い?」と目をしばたかせた。紅良が答える前に奏良が口を開いた。


「そういうあなたは西元の知り合い?」

「えっと、クラスメート兼楽団仲間の津久井って言います」

「ふーん。西元、楽団入ってるんだ」


 奏良は目を細めた。紅良の目には(さげす)んでいるようにも、(あわ)れんでいるようにも映った。きっとどちらも正解なのだろう。違うのは言葉を手向ける相手だけ。

 二人は紅良そっちのけで和気あいあいと話し始める。


「どこの楽団?」

「国立WO(ウインドオケ)だよ」

「あそこか。うちの学校からも何人か入ってた気がするな」

「その制服って芸文附属のだよね? いるいる、うちのパートに!」

「国立WOに行く人が二割くらいいて、残り八割は吹部に入るから。私は、吹部を選んだ側」

「へー、あの有名な芸文附属の吹部かぁ……。楽器は何? 今ってコンクール練の真っ最中だよね?」

「クラリネット。もうすぐA部門の選抜オーディションあるから、それに向けて個人練やってるところ」

「うわ、やっぱAは生え抜きなんだなー。曲は?」

「課題曲が〈スター・パズル・マーチ〉、自由曲が〈鼓響・・・故郷〉」

「あー! あの後半が祭囃子(まつりばやし)みたいなやつ!」


 今がチャンスだ。互いへの関心に意識が向いているうちに、こっそり姿を消してしまおう。どっと改札からあふれ出した人の流れにさりげなく紛れて、紅良は北口の方へ向かおうとした。

 途端、人波に埋もれながら翠が叫んだ。


「ちょっと西元さん! 先行かないでよっ」


 バカ。このバカ──。紅良は無言で叫んだ。これでは企みが台無しだ。

 失望で満たされた紅良の胸に、追い討ちをかけるように奏良の声が突き刺さる。


「あのさ。西元(あいつ)には気を付けた方がいいよ。ぜんぜん協調性ないし、人の意見は聞き入れないし、自分の理屈ですぐみんなを振り回そうとするから」

「そ、そうなんだ?」

「中学であいつと同じ部活にいたから知ってる。演奏めちゃくちゃにされたくなかったら、せいぜい注意しとくといいと思うな」

「勝手なこと言わないで!」


 耐えきれなかった。振り向いた紅良は怒鳴り返した。


「意見を聞き入れようとしなかったのはどっちよ! 自分たちの価値観が世界の全てだなんて、傲慢(ごうまん)な考え方を譲らなかったのは守山たちの方でしょ!」

「何て言われようと、西元のせいで去年の私たちが全国大会進出を逃した事実は変わらないから」


 奏良も引かなかった。押し殺した声色と眼差しに青々と炎を燃やし、薄っぺらな笑みを口元に描く。


「今は()()()がいてよかったね。何ヶ月もつか楽しみ」


 紅良は反論の叫びを上げようとしたが、奏良はそれを待つことなく颯爽と身を(ひるがえ)し、雑踏の彼方に姿を消していった。呆然と(たたず)むばかりの翠と、口のなかに激情を溜め込んでしまった紅良だけが、自由通路の真ん中にぽつんと置き去りになった。

 翠の目の前で、過去の所業を明かされた。

 今まで、里緒や紬以外の人には誰にもしゃべらないようにしてきたのに。秘密のままで貫きたかったのに。


(最悪……っ)


 拳を震わせる紅良に、やっと金縛りの解けた翠が声をかけてきた。


「な……なんか大変だね。色々あったんだね」

「聞かないで」


 紅良は答えた。正直すぎる本音の吐露にも、「分かった」と翠は応じてくれる。こういう素直なところがあるから、翠はまだ紅良にとっても接しやすい。奏良とは雲泥の差である。

 築きたいと願っていたわけではないにせよ、せっかく生まれた翠やつばさとの関係を、あんな子にむざむざ破壊されたくはなかった。それは無論、花音や里緒との関係に関しても同じである。


(見てなよ守山)


 黙って北口のロータリーを目指しながら、やっとの思いで憤怒の言葉を噛み砕いた紅良は、人波の彼方へ見えなくなった奏良の背中にがぶりと牙を突き立てた。


(私だって今は独りじゃない。高松さんっていう理解者がいるんだ。守山なんかよりもずっと演奏技術(なかみ)の伴った、本物の奏者がね)


 そうだ。この世界に里緒がいる限り、自分は何があっても強気でいられる。この手で手繰(たぐ)り寄せた未来は間違っていないと、胸を張って宣言できる。

 里緒が自分の隣にいてくれる限り、いつまでも。


「そういやコンミスの須坂さんも、芸文附属から芸文大に進学したって言ってたなー」


 後ろ手を組んだ翠がつぶやいた。


「あの人も死ぬほどクラ上手いけど、芸文附属ではどんな感じだったんだろ。やっぱ毎日、顧問とか先輩にしごかれてたのかな」

「どうだか。さっきのあれみたいな人じゃないよ、須坂さんは」

「さっきの子、何て名前の人なの?」

「守山奏良」


 名前を口にするのも嫌だ。吐き捨てるや、それまで困惑げに眉を傾けていた翠が、ふっと笑い出した。いったい何が可笑しいのかと思った。


「西元さんと守山さんって似た者同士じゃない?」


 冗談じゃない──。無視して紅良は大股で階段を下りていった。カバンを握りしめた翠が「待ってよー」と追いかけてきた。









 この世界に里緒がいれば、紅良は孤独ではなくなる。自分の見据(みす)えた道を信じ、歩いていける。

 その時、紅良は間違いなく、そう確信していた。

 そして同時に気付いていなかった。──否、気付くことは難しかったかもしれない。すでに心のゆとりを失い、危ういバランスの中でクラリネットにかじりついていた里緒に、回復を許さないとどめの一撃を食らわせる鉄槌が、今、まさに振り下ろされようとしていたことに。


 紅良だけではない。

 誰も、気付いていなかった。










「私、こんなこと、しゃべってない」


▶▶▶次回 『C.081 日の目』

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