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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第三楽章 不協和音の波に打たれて
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C.079 不振な過去、不審な男

 




 音楽準備室には使用者のいない楽器が大量に眠っている。それらの楽器の種類や型番、メーカー、数を控え、紛失しないように管理するのが、楽器管理係の仕事である。

 そして、楽器管理係はその仕事柄、音楽準備室にどんな楽器が眠っているのかも容易に調べることができる。


(楽器管理係をやっててよかった)


 半月前、準備室の奥でほこりまみれのクラリネットケースを見つけた時には、ひとり密かに喜んだものだった。ケースの中身は自前のB♭(ベー)管ではない。里緒のものと同じ、管弦楽用の(アー)管クラリネットである。

 これがあれば里緒と同じ練習に取り組むことができる。A管の音はB♭管でも出せるので、今までは楽譜を変ロ調に書き換えることでA管の代替をしていたのだけれど、これでもう、そんなまどろっこしい真似をしなくても済む。

 発掘したクラリネットを抱え、美琴は武者震いをこらえた。

 それは、いつか里緒から独奏者(ソリスト)の座を奪うために、なくてはならない隠し武器なのであった。




「──それじゃ、今日の練習はここまで。解散!」


 はじめの号令に続けて、「お疲れさまでした!」と部員たちの斉唱が音楽室に響いた。

 すっかり体力を消耗した顔つきの子がいるかと思えば、花音のようにピンピンしている子もいる。三々五々、帰宅の準備を始めた部員たちに背中を向けて、ピアノのところに戻ろうとすると。


「まだ練習やる? そこ、まだ掃除が済んでないんだけど……」


 香織の声がした。

 お掃除組、もとい美化係の三人が背後に勢揃いしている。美琴は首だけを後ろに回して答えた。


「もう少し残ります。掃除も私がやっておくので」

「そっか。よろしくね」


 香織はうなずいた。その両脇を挟むように、舞香と里緒が所在なげに突っ立っている。お互いの姿を見ようともしないし、里緒など美琴のことすら視界に入れるのを避けている。

 自分が美化係でなくてよかった。つくづく、思った。

 腰かけてピアノを弾き始めると、部員たちは次々に姿を消していった。菊乃や取り巻きの二年女子たちは、気を(つか)って別の教室に移動してくれたようだ。美琴ひとりのカバンくらいしか見当たるもののない無人の音楽室に、甲高いピアノの音が拡散して転がる。


(そろそろいいか)


 鍵盤から手を離して、ケースから出したA管クラリネットを手早く組み立てた。譜面台に載っていたピアノ用の楽譜を取っ払って、独奏クラリネットのそれに置き換える。

 放課後、音楽室から人が消えるタイミングを見計らって、美琴は里緒のパートの練習を重ねているのだ。

 くわえたリードをリガチャーで留め、アンブシュアを整えて管体に手を添える。いつもの手慣れたB♭管よりもわずかに重たく、わずかに長い。しかし里緒の持つあの異様なA管ほどではない。早くこの楽器にも慣れなければと思う。軽くロングトーンとタンギングを済ませて、楽譜と向かい合った。

 ()じり気のない、しっとりと柔らかな音が(ベル)を飛び出して、()えた楽譜の端をかすかに震わせた。




 里緒の演奏を聴いていると苛立つ。確かに、音はひとつも間違っていないし、演奏そのものには何の欠点もないのだが、そんなものはシンセサイザーで作成した合成音楽と大して変わらない。

 里緒の音色は一貫していないのだ。それらしく悲観的な雰囲気を漂わせてみるかと思えば、全合奏に入った途端に元気付いたり。反復(トリル)の速さも場所によってまちまちだし、即興的独奏(カデンツァ)に至ってはいまだに演奏のたびに質が変わる。あの少女は本当に、曲の目指す方向性や趣旨を決め切れていないのである。


(難しく考える必要なんてどこにもないのに)


 と、美琴はつねづね思う。常識的に考えて、前後の第一楽章(アレグロ)第三楽章(ロンド・アレグロ)と連続した文脈の中で曲を解釈すればいいのだ。どちらも第二楽章(アダージョ)と比べてそれほど暗くなく、全体的に穏やかで華やかな曲調で紡がれている。

 明るくするなら明るく、暗くするなら暗く。そのメリハリこそがもっとも重要なのである。美琴は陰鬱な演奏が好きではない。だから、明るく吹くことを選ぶ。晩年のモーツァルトは悲壮感のある曲が特徴だというが、そんなものは後世の人間が勝手に後付けで解釈したことに過ぎないわけで、律儀に従う義務はないというのが美琴の持論だった。

 むしろ、隠れて独奏(ソロ)の鍛練に励む美琴にとって最大の課題は、もう少し単純なところにあったのだ。




 かれこれ三十分は吹き続けただろうか。ぷは、とクラリネットから唇を外して、転がしておいたシャーペンを手に取った。次の演奏に生かせるよう、楽譜にチェックやコメントを書き入れる。

 “33番 入りをもっと早く!”

 “35番 スラーかかってるからって走りすぎない!”

 “41番 最初の四分音符忘れがち! ちゃんと下見ろ!”

 新たな指摘が三行、追加された。消しゴムや取消し二重線の出番はなかった。


(ちっとも改善点が減らない)


 増えていく一方の文字を目の当たりにするたび、無意識の歯軋(はぎし)りが低い音を響かせる。どうして上手く吹けないのだろう。腹立たしくてたまらない。

 里緒ならばこの程度の技量不足、きっと簡単に補ってしまうのに。


「…………」


 ペンを乱暴に置いて、クラリネットを構え直した。腐っていても仕方がない。美琴は美琴、自分にできる限りの努力を重ねるしかない。じんとしびれた下唇にリードが当たる。構わずに息を吸って、吹き込んだ。

 まだ吹奏楽部に入ったばかりの頃、同じような研鑽を積んでいたのが懐かしい。思いのままに吹くどころか、くわえたてのクラリネットはまともに音を発することすら叶わなくて、指導を受けながら必死に探り続けたものだった。正しい息の仕方、美しい音色の紡ぎ方、よりよい曲やパートのあり方を。

 クラリネットに出会う前、美琴の楽器はピアノだった。

 ピアノ教室にも、学校にも、自分より上級の腕の持ち主が何人もいた。どんなに努力を重ねても追い付くことができなかった。『上手い』と褒め称えられるのは別の人で、自分はいつも、そのおまけ。一番星になれない自分が悔しくて、それでもめげずに努力を積み上げていったら、そのうち人間関係のトラブルにまで見舞われた。

 結局、こうしてクラリネットに乗り換えた。今度は誰よりも練習したし、誰よりも真摯に向き合った。その結果、クラリネットの腕前で誰かに負けることはなくなった。美琴は一番星の座を(つか)んだのだ。

 今はもう、ピアノ教室にいた頃の自分など思い出したくもない。思い出す必要もない。


(上手くなりたい。誰よりもきれいな音を、この手で、この身体で)


 マウスピースを噛み締めた口で、決して他人にさらけ出すことのない願いも一緒に噛み砕く。美琴は叫んだ。


(いつまでも高松の背中を追ってばかりの自分なんて嫌だ。負けたくない。負けられない)


 さもなければ──。

 身震いが全身を駆け巡った。クラリネットにしがみついて耐え忍んだ美琴は、漆黒の管体を三度(みたび)、構える。

 ブラバンの練習、コンクールでのピアノの練習、それに加えてクラリネットの秘密の特訓。

 積み上げねばならない努力の量は膨大である。だが、今までも耐えてきた。これからも耐えてみせる。

 そうして、耐え抜いた姿を菊乃たちに、下級生たちに、里緒に、見せつけてやりたかった。






 結局、校舎を出たのは午後七時半を回った頃だった。

 菊乃たちは先に帰宅していたようだった。巡回中の守衛に会釈して、涼しい夜の空気を胸いっぱいに吸い込む。排ガスの香りは甘くも苦くもなく、虚しい。

 肩が()った。早く帰って、風呂上がりにマッサージでもしておこう──。腕を回して凝りを取りつつ、湯気の感覚を思い返しながら校門を出た。

 そこに、こちらに向かってカメラを構えている男の姿があった。


「……なに?」


 美琴は目を細めた。肩掛けのカバン、一眼レフの大きなカメラ、だぼっとした緩めの服装。見覚えのある人物ではない。

 不審者かもしれない。避けていこう。

 知らん顔のまま、それとなく男から距離を取って歩いた。──と、男はカメラを下ろし、声を張り上げた。


「あの!」


 美琴は迷わず駆け出した。「待って待って」と男が慌てて呼び止めにかかった。


「怪しい者じゃない! これ、名刺です!」


 手に紙切れを持っているのが見えたが、そんなものを信用するほど美琴も愚かではなかった。一瞬、足を止め、きっぱりと言っておく。


「誰ですか。警察と警備員呼びますよ」

「だからそんな怪しい者じゃないと言っているのに……」


 男はすっかり失望した顔付きになった。

 よく見ると、その腕には腕章のようなものが巻き付いている。首からは何かの許可証がぶら下がっている。薄暗闇の中で辛うじて読み取れたのは、『PRESS』の文字。

 美琴は目をしばたかせた。もしや、報道機関(プレス)か。


「ここの高校さんにはちゃんと取材許可をもらってるんです! だから大丈夫!」


 男は両手を広げて、カメラとカバン以外に持ち物がないのを懸命にアピールしようと試みている。

 腕章に弦国の徽章(きしょう)が入っているのを目にして、ようやく多少は警戒を解く気になった。恐る恐る、男の差し出した名刺を受け取る。【日本産業新報社 Weekly日産編集部記者 館山(たてやま)(のぶ)】とあった。


「週刊誌……ですか」

「取材の一環でね、他の生徒さんにも質問させてもらってることがあるんだ。よかったら少し時間をくれないかな」


 と言いつつ、彼はしっかりメモ帳を取り出して身構えている。いつでも逃げられるように退路の方向へ足を向けてから、美琴は仕方なく、うなずいた。まだ完全に不安を取り除いたわけではないのだ。

 館山は白い歯を見せて笑った。存外、人懐っこい笑みだった。


「ありがとう。さっそくなんだけど、この学校で今、いじめとかが問題化しているっていう話は聞いていないかな」


 美琴の身に覚えはなかった。首を横に振ると、そうか、と館山は鉛筆をメモ帳に走らせた。


「聞き方を変えようかな。現にいじめが起こっていなくてもいいんだ。何かこう、過去にそういう目に()ったことのある生徒の噂がある、とかでも構わないんだけど」

「それもないと思います」

「じゃあ、父子家庭の子ってのは?」

「いえ。聞いたことないです」

「どっちもなしか。ところで君、見たところ楽器のケースを持ってるみたいだけど、もしかしてここの吹奏楽部か何かに所属してる?」

「……管弦楽部ですけど」

「そうそれ、管弦楽部。ちょうどよかった。その管弦楽部に今年、宮城県から来たっていう子は入部してたりしないかな?」


 里緒のことだ。


「います」


 答えはしたものの、美琴は心なしか薄気味悪くなってきた。この記者が何を調べたいのかが、質問の内容からちっとも見えてこない。

 いるんだ、と館山は鉛筆を走らせる。今更ながらに取り消したい気持ちになってきた。


「あの……」

「ちなみにその生徒って、自分の過去のこととかを周りの人に話したりはしてるのかな」


 美琴の言葉はあっさり遮られた。

 ない。里緒はそんなに他者に向かって心を開く少女ではない。たとえ直属の先輩相手だろうが、同級生の友達相手だろうが──。声に出して答えるのが怖くなって、無言で首を横に振り回した。


「なるほどね……」

「も、もう、いいですか。忙しいので」

「待って、もうひとつだけ!」

「今度は何ですか……」


 帰りたい気持ちで今にも胸が破裂しそうだったが、しぶしぶ足を止めた。館山は一拍を置いた。


「その生徒って、“りお”っていう名前の子じゃない?」


 我慢の限界だった。うなずくや、思いっきり地面を蹴ってその場を飛び退いた。館山からの引き留めは特になかったので、そのまま校門前の緩やかな坂を転がるように走り()りて、駅前の通りへと繋がる交差点に出た。上がった息が苦しい。信号が変わるのを待ちながら、必死に肩を落ち着けて呼吸を整える。

 口にしてはならないことを口にしてしまった気がした。


(何? あの人は何を知ってるの? 何を知りたいの?)


 こっそり後ろを(うかが)うと、館山はまた校舎の方に身体を向け、次の獲物を狙うようにカメラを掲げている。路線バスの叩き付けた排ガスに後頭部を洗われて、慌てて美琴は前を向き直した。

 ともかく、早く帰りたい。急ぎ足で駅に向かった。

 あんまり動転していたので、受け取った名刺は道中のコンビニのゴミ箱に捨ててしまった。









「西元さんと守山さんって似た者同士じゃない?」


▶▶▶次回 『C.080 予兆』

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