C.078 独奏者の資格
矢巾千鶴は淑やかな風体の女性だった。
年齢は五十代と言っていたか。色合いや独特の雰囲気に年相応の格を感じさせる、ゆったりとした臙脂色のワンピースをまとって、彼女は弦国管弦楽部へ二度目の来訪を果たした。
「今日もよろしくお願いします」
はじめの号令で部員たちがあいさつをすると、矢巾は二、三度とうなずいて、それからしわの混じった笑みを口元に広げた。
「そんな改まらなくてもいいのよ。ちょっとばかりお呼ばれしているだけなんだから」
たかが一日や二日の付き合いでしかない高校生に対しても、こうして物腰柔らかに敬意を払うことを忘れない。中学の先生にこんな人はいなかったな──。ことあるごとに暗黒の時代を引き合いに出す自分を醜く思いながら、里緒は包容力の大きそうな矢巾の身体をぼんやりと眺めていた。駆け寄った菊乃が練習日程表を広げ、今日の練習内容の予定を矢巾に伝えている。矢巾が初めて弦国に来たのは二日前、応援演奏の合奏日。今日は入れ替わりでコンクール組の合奏日だった。
「なんか、おばあちゃんって感じがするよね。優しいしおっきいし」
隣の花音がつぶやいた。すぐさま背後の舞香が、「いくらなんでも年齢感違うでしょ」と適切なツッコミを入れた。赤ん坊ならばともかく、十六歳の高校生に五十代の祖母がいたらいささか不自然である。
「てか、それ先生に失礼だからね」
「実年齢より老けて見えるって言ってるようなもんじゃん」
口々に制止の言葉を食らいながら、「そっかなー」などと花音は無邪気に笑う。うつむいて、靴先で床をいじりながら、にこやかな笑みを湛えた矢巾が自分の隣に腰掛けているのを里緒は空想した。じきに、虚しくなってやめてしまった。
(おじいちゃんとかおばあちゃんがいたなら、私ももっと普通の人生を送れたんだろうか)
まだ見たこともない祖父母の姿を思い浮かべると、惨めな思いがひしひしと強くなる。
自力で対処できないほどの苦しみや悲しみに追い立てられても、祖父母がいれば彼らのもとに逃げ込んで、あの柔らかそうな身体に触れながら泣くことができたのだろうか。果たしてそれが幸せなことなのかどうか、里緒にはよく分からない。生まれたときから里緒の祖父母はいないことになっていたから。
打ち合わせは終わったようだ。「セクションに別れて体操やるよ」と部長が声を張り上げ、部員たちが次々に立ち上がる。重い腰をどうにか椅子から引き剥がした里緒は、まだ痛みの残る胸をそっと撫でて労って、膝に置いていたクラリネットのケースを脇へ退けた。
そんなはずはなかったのに、いやに矢巾の視線を感じた。普段のように“頑張らなきゃ”と自己暗示をかけるのが、なぜだか躊躇われてしまった。
パート練習の間も矢巾は里緒のことを注視してきた。「ここがいちばん人数も多いから」といって木管セクションの教室の片隅に椅子を置き、あの穏やかな目付きのまま、管を組み立ててロングトーンや運指に励むクラリネットパート三人の姿を視野の片隅に入れていた。誰に対しても人懐っこい花音はともかく、里緒も、美琴も、矢巾と視線が合わないように楽譜ばかり睨んでいたように思う。率直に言って居心地が悪かった。
もっとも矢巾は、かの芸文附属で指揮棒を振るうコーチ陣の一角を占める一流音楽家である。おまけに懇切丁寧で、立場が下だからといって生徒たちを見下すような真似もしない。少なくともクラリネット以外のパートには引っ張りだこであった。放っておいても勝手にあちこちから声がかかり、矢巾は彼ら彼女らの対応に追われっぱなしだった。
「あの! 先生、ここってもう少し音をなめらかに繋げた方がいいでしょうか?」
「サビの和音がきれいに響かないんですが!」
「三十五番のあたり、気持ちテンポ下げた方がいいですか? いつも落ちちゃう子が出るので」
「その、あとで構わないので低音セクションにも来ていただけませんか。ファゴットの音がいまいち汚いんですけど、リードのせいなのか奏者のせいなのかよく分からなくて」
「悪いな藤枝、俺たち打楽器が先だ!」
「ちょっと! うちらサックスの方が徳利先輩より先に頼んでますからっ」
「分かった分かった、先生は一人しかいないんだから取り合いしない。順番だよ。ところで先生、ヴァイオリンパートの譜面についてなんですが」
「おい! さらっと抜け駆けしようとしてるだろ洸っ」
困ったように眉を曇らせながらも、矢巾は副部長の言葉の通り、声をかけられた順に助言や指摘をして回っていたようだ。ちゃっかり花音も音を聴いてもらったらしく、「褒められた!」と快哉を叫びながらパートの輪のなかに戻ってきた。自分には関係のないことと思って、里緒は特に反応を示さなかった。
いかに指導者の力量が優れていたって、奏者本人の努力がなければ演奏は改善されない。今の自分は、まさにその『奏者が努力を積むべき段階』にいるのだと思う。だから黙ったまま何度も、時間の感覚がなくなるまでクラリネットを吹き続けた。めくった先の五線譜に引っ掛かるおたまじゃくしを追いかけて、込めるべき情熱の姿を探して、吸い込んだ息を管体に送り込む──。
いつの間にか矢巾が里緒の隣に立っていた。
「いい音色ね」
不意に降ってきた誉め言葉に、里緒は吃驚のあまり派手に噎せた。げほ、ごほと息を乱す里緒の丸い背中に、「ごめんなさいね」と笑った彼女が手を添えてくれる。不意打ちなんて卑怯だ。里緒は拙い目付きで矢巾を見上げ、睨んだ。
「このあいだ来た時も同じことを言った気がするけど、私、あなたの紡ぐクラリネットの音色とっても好きよ。もう少し音量が出せるようになれば完璧なのにって思う」
「……あ、ありがとうございます」
「コンクールであなたが独奏に抜擢されたのも納得ね」
里緒はうつむいて、矢巾の顔を見ないようにした。“抜擢”といえば聞こえはいいが、実態はほとんど“押し付け”である。それに今の里緒は理想の音を口先に描けず、いたずらに苦労や心痛を重ねている有り様なのだ。とても褒められるには値しない。さりとて、抱えている事情を彼女に知ってほしいとすら思わない。どうせ話したところで、理解されないに決まっているから。
「〈クラリネット協奏曲〉、どうかしら。少なくとも譜面上はけっこう吹きやすい曲でしょう」
黙っていたら尋ねられた。周りに聞かれないように、里緒は小声で返した。
「……難しいです」
「あら。それはどうして?」
「譜面は簡単だから、吹こうと思えば簡単に吹けちゃって……。どんな風にアレンジしたり感情を込めればいいのか、取っ掛かりが何も見つからないんです」
「なるほど。それは確かに言えてるかしらね」
近くの椅子を引き寄せた矢巾が、腰掛けながら目を細めた。何となく、今は彼女の方を向いていなければならないように思われて、里緒はクラリネットを手放した。ネックストラップ越しに首へかかった管の重量が、嫌でも里緒の視線を足元に向かわせた。
「正直ね、コンクールに〈クラリネット協奏曲〉で応募するって聞かされた時は、私、ちょっとびっくりしちゃったのよね」
彼女は言った。ほこりっぽい灰色の床の上で、整然と揃っていた矢巾の靴先が少し崩れた。
「高松さん、コンクールに出たことはあるんだっけ?」
「ない、です」
「それじゃ、コンクールを聴きに行ったり、参加校の自由曲の曲目を調べたりは?」
「……それもないです」
そうなのね、と矢巾が意外そうな声を上げた。こういう、自分に対する既存のイメージと実際の自分の言動の乖離が発覚する瞬間が、里緒にはたまらなく息苦しい。
「実際に調べてみると分かると思うけど、コンクールで演奏される曲ってね、技術力重視の難しい曲が多いのよ。例えば吹コンだと……」
話しながら、矢巾はスマホのブラウザを起こして、どこかのサイトを開いた。過去の吹奏楽コンクールにおける選曲の一覧が、ページいっぱいにびっしりと記載されている。
樽屋雅徳、福島弘和、石津谷治法。
名前に覚えのない作曲家や編曲家たちが、作品名や演奏した学校の名前ともども名を連ねている。目が痛くなるほどの曲目の羅列だが、彼らの作品はそんなに演奏が難しいのか。経験の乏しい里緒には何とも分かりかねた。
「あくまで吹コンの例でしかないけれど、これ、あなたたちの参加しようとしているコンクールにも当てはまることだと思うのよね」
矢巾はスマホの画面を切って、しわけた手のひらの下に伏せた。
「コンクールって、せいぜい数分の演奏時間しか与えてもらえないでしょう。その短い時間で高い評価を得ようと思ったら、どうしてもテクニック面を重視せざるを得ないのよね。技術的に難易度の高い曲を選んで、その完成度を審査員に見せつければ、審査員としても優劣の判断をしやすくなる。だから、どうしても『評価してもらえやすい曲』と『そうでない曲』があって、評価してもらえやすい曲は毎年のように色んな学校が演奏するわけ。人気が特定の作曲家に偏りがちだったりするのはそういう事情もあるのよ」
「そ、そうなんですか……」
「もちろん、選曲に当たっては他の要件も考慮されなきゃならないわ。使える楽器の数、演奏時間、参加するメンバーの技量の限界、それから過去の選曲の傾向なんかも参考にされる。……弦国がどういう基準でもって〈クラリネット協奏曲〉を選んだのか、私は何となくしか聞かされていないけど、すごく思いきった決断だと思う」
矢巾の言わんとすることが里緒にも見えてきた。〈クラリネット協奏曲〉、特にコンクールで演奏する第二楽章は、緩急や変化の乏しい単調な曲だ。激しい音回しやリズムを要求されることもない。そしてそれは、高度な演奏技術を見せつけて高評価を稼ぐという戦略とはまったく相容れない、コンクールに不向きな曲であることを意味するのである。
(……前に教えてもらったことがあったな。選曲の理由)
首にしがみついてぶら下がるクラリネットの管体を意味もなく掴み、いじりながら、里緒は楽譜渡しの時に美琴の話してくれたことを思い返した。確か、使える楽器があまりにも限られていて、これしか選びようがなかったから。至って消極的な理由である。
二年生には打楽器奏者がいない上、金管や弦楽に関しても極端に奏者の種類と数が少ない。選曲の余地は、初めからほとんど存在していなかったのだろう。だから〈クラリネット協奏曲〉を選んだ判断を里緒は責められないし、責める筋合いもない。
ただ──。
「不安ではあるわよね」
矢巾が里緒の憂鬱を言葉に置き換えてくれた。
「技術面のアピールがやりにくい以上、コンクールで上位を目指そうと思ったら表現力で勝負するしかない。しかも協奏曲だから、表現力のアピールが実質的に可能なのは独奏者だけっていうことになりかねない」
「……責任重大ですよね」
「そうね。それが、独奏者の運命よね」
分かりきっていたことだったが、肩にのしかかる荷の重さが一段と増した。里緒はうなだれた。
務まる自信なんてあるわけがない。
そんなものは初めからなかった。
それでも、今は里緒に代わってくれる人がいないから、里緒が舞台に立つしかない。ピアノを頑張っている美琴に独奏を押し付けて逃げ出すような真似は、里緒には、できない。
「先生」
押し潰されそうな肺をどうにか膨らませて、訊いた。
「私、ちゃんと独奏、務まるように見えますか」
矢巾はしばらく言葉を返さなかった。
じっと耳を傾けていると、陽の当たる南向きの教室には無数の音が断続的に流れ込んでくる。セミの鳴く声、楽器のがなる声、廊下やグラウンドで誰かの叫ぶ声、電車の喚く声──。それらすべての音に、自分の奏でるクラリネットの音が劣っているように思えて、たまらなく惨めな感情が里緒を包み込む。
「……務まると思うわ」
雑音を押し退けて、やっと矢巾が答えてくれた。
「でも、きっと苦労すると思う。あなただけじゃない、誰がやったって苦労することよ。だから苦労を苦労と思ったって、誰かに打ち明けたって、それはちっとも恥ずかしいことじゃないの」
「…………」
「困ったらきちんと誰かを頼る、相談する。それができれば、あなたにだってじゅうぶん独奏者は務まるはずよ。それだけの値打ちのある音色を、あなたは持っているんだから」
矢巾は微笑んだ。
芸文附属の権威の口からそんな風に言い切られてしまうと、素直に受け入れて信じなければならないような強迫観念に駆られる。里緒は唇を噛んで、ほこりっぽい床に焦点を結んだ。
(……私の今までの失敗歴を説明したら、きっとあっけなく意見、翻しちゃうんだろうにな)
浮かんだ皮肉を口にすることはなく、代わりにまた、マウスピースをくわえてアンブシュアを作った。身を乗り出した矢巾が、里緒の手元を覗き込む。里緒は必死に視線をクラリネットへ固定した。
気の重い合奏練習の開始が、目前に迫っていた。
「いつまでも高松の背中を追ってばかりの自分なんて嫌だ。負けたくない。負けられない」
▶▶▶次回 『C.079 不振な過去、不審な男』