表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第三楽章 不協和音の波に打たれて
82/231

C.077 戦う覚悟

 





 ──『やめてください……。私、もう、忘れたんです。仙台で暮らしてたことなんか、上手くいかなかったことなんか……!』




 また、里緒の残した悲痛な叫びが耳元でリフレインする。それこそ忘れたくても忘れられない。ぐったりと顔を横たえながら、紬はパソコンのディスプレイへ無気力に視線をやった。


(……もう四時すぎか)


 画面の隅に光る小さな時計に視線が留まる。無為に消費してしまった時間の累積を感じて、そっと重たい息を漏らした。

 昨日、里緒の拒絶を食らってから、もうじき丸一日が経とうとしているところだった。そろそろこの倦怠感からも抜け出さなきゃ──。そう何度も自分に言い聞かせてきたが、今日はなんだか何をやっても仕事にならない。もうじき、会社を出て拓斗を迎えに行かねばならない時間なのだけれど、やっぱり身体は思い通りに動いてくれない。

 だって、考えてもみなかったから。

 あんなに真正面から拒まれてしまうだなんて。


「はぁ……」


 また嘆息が口をついて出た。さっきから同僚たちが腫れ物にでも触るような目付きでこちらを見てくるのが、余計に気に食わない。少しくらい気を配ってくれたっていいではないか。

 膨らみかけた不満が、肩に手の置かれた衝撃でぽんと弾けた。


「元気ないね」


 雅であった。紬はちょっぴり身体を起こして、微笑む彼女に冷えた目を向けた。


「……ここ、文化芸能部のフロアじゃありませんけど」

「別にいいじゃない、様子見に来るくらい。どうせここの部署の人たちには顔も割れてるんだし」


 めちゃくちゃなことを言う。紬も今度はため息を隠そうとしなかった。何かと雅にお世話になっているのは事実だが、世話を焼かれている姿を同じ部署の人たちに見られたくはない。


「えらく憔悴してるけど、どうしたわけ。仕事疲れ?」


 横倒しの顔を覗き込み、雅は尋ねる。「違います」と紬は唇を尖らせたが、この顔では全く説得力がないことに気付いた。

 本当のことを言ってしまおうか、それともやめておこうか。

 いくら先輩とはいえ、文化芸能部の人間に相談して何が変わるだろう。一瞬、激しいためらいを覚えた紬だったが、じきに考えを改めた。部外者だからこそ言えることだってあるのかもしれない。三人寄ればなんとやら、知恵は多い方が役に立つ。


「ちょっと」


 手元を見るようにジェスチャーした。興味深げに雅が視線を移してきたので、(くだん)の手帳を手にして、開いた。

 仙台で見たもの、聞いたこと、そこから推認できる事実のすべてを、そこには箇条書きで列挙してある。


「……どうしたの、これ」


 雅の瞳から笑みの色が消えた。


「いじめ事件?」

「仲良くしている高校生の女の子がいるんです。その子のこと、ちょっと気になって調べてみたら、こんなことになっていました」


 里緒と出会った経緯を話して聞かせた。その為人(ひととなり)も、クラリネットが上手であることも、少し家庭に問題のある子らしいことも話した。仙台で取材した時の写真や、スクリーンショットで撮影した里緒にまつわるネットの情報も、スマホの画面に出して見せた。

 雅はそれらを黙って読み、黙って耳を傾けていた。徐々に険しくなってゆく眉の傾きに、彼女が事情を察してゆく過程がありありと見てとれた。


「よく一人でこんなに調べられたね……。このぶんだと向こうでの情報収集も大変だったでしょ」

「何人かに声をかけて回ったんですが、みんな逃げられてしまって。最後の一人にだけ辛うじて話を聞けたんです。それがなかったら私、取材を諦めてました」


 手帳をめくりながら紬は唇を歪めた。苦笑したつもりだった。

 あの日、夕暮れ前の町で声をかけ続けること三十分、最後に捕まえたのは四十代くらいの女性だった。高松家の話を聞きたいそぶりを見せた途端、有無を言わさず手を(つか)まれて崖下の国道まで下り、仙台駅西口行きの路線バスに乗せられ、延々三十分も揺られて都心に向かわされた。その車中で、彼女はようやっと口を開いてくれたのだ。


「『話したいのは山々だけど、どこで誰が話を聞いてるか分からない。ここいらの人は自家用車で都心まで向かうから、路線バスだったら大丈夫』──。そういう意図だったんだそうです。言葉通り、たくさんのことを聞かせてもらいました。私のメモ取りが間に合わないくらいでした。名前も教えていただいたんですが、絶対に他へ漏らすなと繰り返し釘を刺されました」


 目の前に鎮座するパソコンのキーボードに視線を落として、うつむいた。雅は口を挟まなかった。


「女の子がいじめられていたのは事実でした。それどころか、その子のお母さんも激しいママ友いじめに()って、そのせいで自殺してしまったんだそうです。その子とお父さんは中学卒業と同時に仙台の家を放棄して、夜逃げ同然に東京へ移って来ていたんです」

「…………」

「女の子にとって、あのいじめはとうとう未解決のまま終わってしまったんだと思います。いじめを知ってしまった大人として、私、傍観者にはなりたくないんです。ただ知って終わりにしたくなかった。それで昨日、女の子に声をかけて、私は味方だよって伝えようとしたんですけど……」

「……断られたんだ」


 察しがいい。紬は唇を結んで、うなずいた。


「それで落ち込んでたのね」


 手帳を閉じた雅がつぶやいた。


「だけど、いじめか……。すごくプライベートなことに直結する話題だし、無関係の人に立ち入られたくないって思ったとしても不思議はないだろうな」


 だからこそ紬も頭を悩ませているのである。確かに、余計なお節介など焼かない方が、短期的には里緒の気も楽になるに違いない。しかし完全にいじめが解決しない限り、その記憶は里緒の身体と心を着実に(むしば)み続けるはずなのだ。それはきっと、とても、とても、辛いこと。


「私はただ、力になってあげたいだけなんです」


 独り()ちる声がかすれていた。


「誰も味方になってあげられなかったら、あの子もいつか心を壊してしまう。もう、誰かをそんな目には()わせたくないんです」


 雅はしばらく黙っていた。

 が、不意にスマホを取り出して、どこかのホームページに素早く目を通し始めた。


「この件って私以外の人には相談してない?」

「してませんけど……」


 答えるや、雅はスマホを紬の前に置いた。日産新報社の刊行する週刊誌、『Weekly日産』のサイトである。


聞屋(ブンヤ)は報道で闘うべきじゃないかな。どう、ここの編集部に持ち込んでみるのは」


 紬は顔を上げた。

 そうか、ここには情報がある。報じることで世間の耳目が集まれば、何がなんでも当事者は事態終息を図らなければならなくなる。


「今の時点で揃っているのって、その四十代女性の証言と自宅の写真くらいのものでしょ。それだけの証拠では事実の認定には不十分だし、本紙の記事に持ち上げるのは厳しいんじゃないかと思う。でも週刊誌だったら、ある程度は不確定な情報でも掲載できる。過去、そうやって明るみに出て捜査の進んだいじめ事件って、けっこうあるんだ」


 雅の指がスマホの上を滑って、画面をスクロールする。特集中の記事をピックアップするコーナーがあった。

 そのタイトルは、【いじめ根絶は可能か 社会の取り組みと苦悩】である。紬は目を見張った。


「持ち込むにはうってつけだと思うんだけど、どう?」


 雅の声色が心なしか誇らしい。はやる気持ちを懸命になだめ、紬は遠慮がちに答えた。


「……その、あんまり(こと)は大きくしないであげたいんです。ちらっと誌面で触れて示唆(しさ)する、程度のことができたらいいんですけど」

「じゃ、匿名を守るとか憶測で記事を書かないとか注文を付けたらいいよ。情報提供者なんだから」


 それならいい。里緒への影響も、最小限に抑えられるはずだ。

 週刊誌の編集部は、大手町の本社オフィスに入居している。今からでも(おもむ)きたいところだが、あいにく拓斗を遅くまで放置するわけにはいかない。せめて電話でアポイントだけでも取り付けようと思って、編集部の電話番号を調べにかかった。


「あそこにはやり手の記者も多いからね。その情報、ちゃんと生かしてくれると思う」


 微笑んだ雅は、手帳に目を落として、静かに言い添えた。


「……時には強引にでも、大人が介入しなきゃいけないことってのがある」


 先輩の背中がこれほど大きく見えたのは久しぶりで、紬の熱意は瞬く間に奮い立っていった。


 ──そう、これは正義の戦い。

 いじめという、罪名を持たない凶悪犯罪に(あらが)うための、聖戦(ジハード)なのだ。








「それだけの値打ちのある音色を、あなたは持っているんだから」


▶▶▶次回 『C.078 独奏者の資格』

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ