C.076 恩師との再会
「──須磨先生」
耳に覚えのある声に苗字を呼ばれ、京士郎は振り返った。ドレス調のワンピースにグレーのカーディガンを重ねた女性が、職員室の入り口に立っている。見覚えのあるセンスの服装、顔のしわ、やわらかにパーマのかかった髪。
思わず声を上げてしまった。
「矢巾先生じゃないですか。なんでまた、こんなところに」
女性は口角を上げて微笑した。
矢巾千鶴、五十四歳。芸文大学や附属高校で教鞭を執る音楽の専門家である。
「ピアノ専攻の授業でご一緒して以来かしら。元気?」
「いや、僕はほどほどに……。それよりどうして弦国にいらしてるんです」
目を白黒させながら、ひとまずと思ってコーヒーメーカーを指差した。矢巾は首を振って、要らないと伝えてきた。
京士郎が驚くのも無理はなかった。矢巾は、かつて京士郎が芸文大学の学生だった頃の恩師なのである。
「ここの管弦楽部の子たちに臨時で指導を頼まれて来たんだけど。顧問、あなたなんでしょう? 知らなかったの?」
手提げのカバンからペットボトルを取り出して口に含みつつ、矢巾は上の方を見上げる。道理で──。京士郎は慌てて外向きの苦笑を繕った。
「色々ありまして」
矢巾は深くは追及しようとしなかった。隣の席が空いていたので、座ってもいいですよと促した。貴婦人の趣を身にまとう矢巾を隣にすると、嫌でも自分との年齢差を意識せざるを得ない。十年前の学生の頃に戻ったような気持ちにさせられる。
「管弦楽部は応援演奏の練習の時期ですかね。どうですか、あの子たちは」
尋ねると、矢巾は口の端を崩して笑った。
「暑さには参ってるみたい。でも、基本的にはとっても元気ね。芸文附属の吹部もそうだけど、気合いと体力で音楽を作っちゃいそうな勢い。高校生って感じがする」
「芸文附属もそうなんですか」
「そりゃそうよ。気合いでも体力でもどうにもならない部分を補完するために、私たち顧問がいるんだから」
部に顔を出していない身としては、それを言われてしまうと胸が痛い。
まだまだね、と矢巾はつぶやいた。
「まだまだ未熟なところが多いかしら。細かいことを言うなら、音の粒がでこぼこしててユニゾンもきれいじゃないし、音量も力任せに大きくしてる印象がある。聴き手の耳への響き方にまで意識が至っていないと思うのよね。でも、そもそも甲子園は整然と美しい演奏を求められる場じゃない。引っ張り役の子もちゃんといるし、個々の基礎はそれなりに仕上がってきている感じもするし、甲子園の予選まではまだ二週間近くも残されてることも考えれば、あれならよほどのトラブルがなければ十分に完成させられるでしょう」
京士郎は安堵の吐息をついた。それなら、今年も天童や他の先生方に顔向けできそうだ。
部の顧問にあるまじき意識の低さを内心では恥じ入りつつ、何か近況報告でもしようかと思案していると、ふと、矢巾の顔に翳りが差した。
「それはいいんだけど……。須磨くん、あの部の子たちって大丈夫なの?」
「だ、大丈夫とは?」
「おおむねみんな部活に熱心なのよ。私が見てあげてるからか、だらっとした姿を見せてることもなかったし。ただね、何となく、空気がピリピリしてる気がする。練習の内容とはあんまり関係のなさそうな方向で」
当然ながら京士郎の身に覚えはなかった。
「特に……何て名前だったかしら、ほら、クラリネットの上手い子。高二の女の子が一人と、高一の女の子が一人」
頬に手を当て、矢巾が目を細める。さすがの京士郎でも名前はすぐに思い浮かんだ。高二の茨木美琴と、高一の高松里緒。里緒がなかなかの達者であることはどこかで伝え聞いていた。
「茨木くんと高松くんが……ですか」
「そう、そんな名前だったわね。あの二人だけ、明らかに雰囲気が固くって。ものすごい形相で練習してるし、高松さんなんか休憩中もイヤホンと楽譜を手放さないし。休みなさいって声かけても、ちっとも聞き入れてくれないのよ」
居眠りの多い授業中の里緒とはまるっきり真逆の様相である。そういえば、ホームルームの前後にもイヤホンを持ち歩いていた。何気なく里緒の日常風景を思い浮かべた京士郎は、その拍子に、尋ねておかねばならないことがあったのを思い出した。
「その高一の生徒、体調は大丈夫そうでしたか。四時間目の授業中に過呼吸を起こして、しばらく保健室で休んでいたはずなんですが」
そうなの、と矢巾は目を見開いた。聞き及んでいなかったらしい。
「様子はともかく、演奏は文句つけられないくらい上手かったし、特に体調に問題がありそうには見えなかったけれど」
「……それならいいんですが」
応じながら、京士郎は壁にかかった時計を見上げた。富田林から事態を聞き付け、保健室の里緒を見舞ってから、まもなく五時間以上もの時間が経過しようとしている。さすがの過呼吸も沈静化している頃か。
この二か月間、里緒があんな症状を見せたことは一度もなかった。クラス担任として、京士郎にはその点が気がかりで仕方ない。
「過呼吸って言ったわよね」
矢巾がつぶやいた。
「あれ、精神的な原因で起こす症状って言うじゃない。顧問のあなたの方から、日頃もっと注意して見てあげた方がいいと思うわよ。きっと須磨くんもすぐに感じると思う」
「……例の子たちの様子が他と違う、っていうことですか」
「本当はその二人だけじゃないんだけどね」
そんな言い方をされては余計に気がかりになる。
立ち上がった矢巾が伸びをした。それから手帳を覗き込んで、赤丸の穿たれた一角を指し示した。
「部の子たちからは、とりあえず今日と明後日の合奏練習に付き合ってほしいって頼まれてるの。今日が応援演奏練で、明後日は何かのコンクールに向けた練習だそうね。そこから先の予定は決まっていないけど、ま、じっくり練習に付き合ってあげられたらいいなって思ってるわ」
「ああ……。コンクール、出るって言っていました」
「もっとちゃんと目をかけてあげなさいよ。かわいい教え子たちなんだから」
「…………」
それじゃ、私はそろそろお暇するわね──。矢巾はカバンを肩に提げて言った。もう少しゆるりと話をしていたい気持ちもあったが、どうせ二日後には再び顔を合わせることになる。ともかくスリッパを引っ掛けて、校舎の出入り口まで送って行くことにした。淑やかな矢巾の服装には釣り合わない質素な色合いの廊下を、黙って二人で歩いた。
六月も半ば。芸文附属の吹奏楽部などは、今ごろ吹奏楽コンクールに向けて厳しい練習の真っ只中のはずである。
「本当、すみません。お忙しいだろうに」
頭を下げると、矢巾は笑って校舎の敷居を跨ぎ、校門の方へと消えていった。
「そういうときは『うちの部員をよろしくお願いします』でいいの」──と、言い残して。
見上げれば、音楽室の入る校舎一号館の壁が屹立している。夏の夕方、藍と橙と紫の絶妙に入り混じった高い空に、いくつもの楽器の音色がほのかに溶け込んで聞こえる。
管弦楽部の今日はまだ終わってはいないのだ。
口に出しかけたフレーズをスリッパで踏んづけ、京士郎は静かに嘆息した。それから、夕暮れの職員室へと戻っていった。
「……時には強引にでも、大人が介入しなきゃいけないことってのがある」
▶▶▶次回 『C.077 戦う覚悟』