C.075 悪夢と現実
──『忘れたんです、だってよ』
──『本当は忘れてなんかいないくせに。息をするみたいに嘘つくよね、こいつ』
──『昨日なんて、せっかく味方になってやろうって人が出てきたのに、聞きたくないこと聞かされたくらいで逃げ出してさぁ。一時の感情に任せて味方をなくすなんてバカのやることだよ』
──『やめてあげなよー。元からバカなんだから、黒松』
──『あっはは! それもそっか!』
──『協調性もないし空気も読めないし、自分を正当化することしか考えないし。そうやって味方を失っていくのがオチなんじゃん?』
──『つか、あんたの味方なんか誰も務めたくないから』
──『やっぱ東京に行っても黒松は黒松だね』
──『あの頃とちっとも変わらないよね、黒松』
──『聞いてんの黒松?』
──『お得意の反応しなよ黒松ってばー』
──『黒松』
──『黒松』
──『黒松!』
──『黒松!』
──『黒松!!』
──『黒松!!!!』
──『黒松!!!!!!!!』
──爆発的な勢いで意識が戻ってきた。
「はっ……!」
里緒は組んだ両腕から顔を上げた。四方八方から耳を食い破ろうとしていたはずの声は、もはや現実世界の音に押し潰されて聴こえない。
よかった、今のは夢か──。ほっと胸を撫で下ろしたのもつかの間、汗の吹き出した背中が凍えそうなほどの冷気に撫でられ、冴えた意識に周囲の光景を見るように促した。
慌てて里緒は正面の黒板を見上げた。教卓に立つ先生が、里緒の顔をまじまじと凝視していた。
違う、先生だけではない。教室中の生徒たちが同じことをしている。時計の指す時刻は十一時半。月曜日の四時間目、今は保健の授業中である。
(しまった、また居眠り……!)
里緒は青くなった。二時間目にも睡魔に負けて寝落ちたばかりだったというのに。
呆れたように先生が声を上げた。保健体育の教師、富田林健二である。
「高松さん、眠いのは分かるけどちゃんと授業は聞いてくれよ。はい、三番の答えは?」
「さ、三番って、どこの」
「前回配ったプリントの裏!」
慌ててプリントを引っくり返す。空白補充の問題がいくつも並んでいるが、授業を聞いていなかった里緒には答えが分かるはずもなかった。おまけに悲しいかな、こっそり答えを教えてくれるような都合のいい同級生もいない。
「ごめんなさい、分かりません……」
正直に白状する他なかった。
露骨に失望を示しながら富田林が嘆息し、静かな失笑があたりを包み込む。情けなくて、悲しくて、里緒は懸命に肩を小さくした。高まりすぎた羞恥心が弾けて、小さな胸はしくしくと痛みを放った。
その時である。
夢の中で聞いたのと同じ嘲笑の声が、どこからか響き渡って里緒の耳に殴り込んできたのは。
──『恥を知れよな黒松!』
里緒は弾かれたように周りを見回した。間を置かず、別の声が飛んできた。
──『あんたはずうっとそうやって独りぼっちで生きてけば?』
幻聴だ。そうに違いなかった。だって里緒を“黒松”と呼んでいたのは同じ中学の子たちだけで、その顔ぶれはこのクラスにはいない。気のせいだ──。深呼吸して心を落ち着けにかかったが、無駄な足掻きと嘲笑うように声はなおも飛びかかってきた。
──『逃げられるとか思ってんじゃねーぞ』
──『一生苦しみ続ければいいんだから』
──『てか、そんなに苦しいなら早く死んだら? その方がみんなのためになるよ』
──『黒松なんかが生きてたって、誰の得にもならないんだし』
──『死ねば?』
──『さっさと死ねよ黒松』
──『母親みたいにさぁ!』
声の主はいっこうに分からない。いくら周囲に目を走らせようとも、口を開いている人は誰もいないのだ。……いや、いる。こちらを横目に眺めながらせせら笑う背中が、あそこに一人、二人、三人、四人、五人六人七人八人九人十人十一人十二人十三人十四人十五人十六人十七人──。
(そんな)
里緒は胸を押さえた。
薄っぺらな服と胸の向こうで、異常なまでに高まった左胸の動悸が、今にも里緒の身体を肋骨の内側から破壊してしまうのではないかと思った。
みんな笑っている。あるいは氷のように冷めた瞳で、里緒の一挙一動を否定している。一年前や二年前、泣いて嫌がっても見せつけられ続けた地獄の光景。いじめられていたあの頃と、寸分たがわず同じ。
(嫌だ)
息が詰まるのを覚悟で、必死に唇を閉じて机を睨む。
すぐさま声が神経を貫いて打ち砕いた。
──『逃げんなよ!』
(嫌だっ……!)
叫んだ言葉は声にはならず、猛烈な息の反復の中にあっという間に飲み込まれる。
ああ。
苦しい。
息苦しい。
生き苦しい。
どこへ行っても何をしても、自分に安寧の温もりは与えられない。逃げ場はどこにもない。いっそ死んでしまったなら──。
揺れて曇る視界が、一瞬、大きく傾いだ。
網膜に映った本物のクラスメートたちは笑ってなどいなかった。涙が浮かんでにじむ寸前、驚いたように手を伸ばす前の席の少女たちの姿がまぶたに焦げ付き、涙もろとも里緒の理性を焼き尽くして蒸発させた。
「ちょっと! 高松さん大丈夫!?」
「先生やばいよ! なんか分かんないけどすごい勢いで息してる!」
「君たち落ち着いてっ。どうした高松さん、体調でも……まさか過呼吸か!? 保健委員! 保健委員は誰だ!」
「しっかりしてよ里緒ちゃんっ! 私の声聞こえる!?」
「こっ、校医の小諸先生呼んできます──!」
おぼろな意識の片隅で、誰かの叫ぶ声がめったやたらに躍り狂って、暴れた。
富田林の見立ては伊達ではなかった。──過呼吸だった。
クラスメートたちの支えで保健室に運ばれ、ベッドに寝かされて二分、ようやく里緒はまともに口を利けるようになった。平静を取り戻すにはそれだけの時間が必要だった。思い返せば、前回の発症は一ヶ月半も前のこと。完全な不意打ちで、対処のしようもなかった。
上半身を起こした里緒を見て、付き添ってきてくれていた花音は泣きそうに顔を歪めた。
「よかったぁ……。もうダメなのかと思った……」
「落ち着ける環境で少し安静にしていれば、すぐに回復する症状よ。大丈夫よ、そんなに心配しないで」
白衣の女性が花音をなだめてくれた。養護教諭、対馬桜子。今日は校医が不在の日で、保健室を訪れた生徒への対応は彼女が一手に引き受けてくれている。
聞けば、里緒は発症してすぐに症状に気付かれ、富田林の指示でここへ運ばれたのだという。ベッドの白いシーツを握りしめながら、保健の授業中だったことをつくづく感謝した。保健体育の教師ならば、過呼吸の症状にも多少は通じているはずである。辛うじて不幸中の幸いだったのかもしれない。
なんにしても、先生や周囲の子たちに大変な迷惑をかけたことに変わりはなかった。
(まさか学校で発作を起こしちゃうなんて)
里緒はうつむいてシーツに視線を逃がした。視線を持ち上げれば、きっと花音と目が合ってしまう。倒れる寸前に見た景色を思い出しそうで、それが怖くて顔を上げられない。
その花音が不安そうに尋ねてきた。
「ねぇ里緒ちゃん、さっきは何があったの? 病気?」
「……ううん。病気じゃ、ない」
「ほんと……? だって里緒ちゃん、ちっとも普通じゃない感じだったし、すっごく苦しそうだったし……」
「何でもないよ」
どう説明しても伝わる気がしなくて、頑なに『何でもない』を繰り返した。膝の上に乗せた両手をきゅっと握りしめ、花音はまだ問い詰めたげに身体をうずかせていたが、
「さ、あなたはそろそろ教室に戻りなさい。高松さんは私たちが責任持って見ているから」
と、対馬に保健室を追い出された。
昨日の今日である。仙台での苛酷な日々を思い出してしまったのも、現実の世界に重ね合わせてしまったのも、きっと仕方のないことだったのだろう。最後の刹那に見た、驚いて心配してくれるクラスメートたちの姿の方が本物で、あの冷たい笑いを浮かべた姿の方はきっと里緒の妄想に過ぎないに違いない。冷静に考えれば、その結論に帰着する。
だが、“声”と“冷笑”の描き足されたクラスメートたちの姿は、実在しないのにぞっとするほど自然だった。違和感を抱く必要も、余地も、まるでなかった。こんなクラスメートがいても不思議ではないと、何の疑いもなく信じ込むことができた。
(当たり前だよね。……こんな私だもん。逃げてばっかり、引っ込んでばっかりの私だもん)
人気の乏しい保健室の片隅で、里緒は抱えたシーツに顔を埋めた。今にも胸が張り裂けそうな心地がして、何かを抱きしめていないと耐えられなかった。
管弦楽部の人たちに続けて、クラスメートにまで苦手意識を持ってしまったら、いったい里緒はどうなるのだろう。
里緒にまともな家族はいない。まともな友達だっていない。つい昨日、神林親子のもとからも逃げ出したばかりである。もしも本当にそんなことがあれば──。
(いよいよ私の居場所、なくなっちゃう)
否、すでに失われてしまったのかもしれないのである。
あるいは初めから、そんなものはどこにも存在していなかったのかもしれない。
里緒が過去の記憶から逃れない限り、これまでも、これからも、いつまでも、永遠に。
一瞬、底のない永遠の闇を落ちていくような感覚に囚われて、恐ろしくなって里緒はベッドのふちを掴んだ。
休み時間の始まりを告げるチャイムの音色が、どこか遠くの方でかすかに聴こえた。
「そういうときは『うちの部員をよろしくお願いします』でいいの」
▶▶▶次回 『C.076 恩師との再会』