C.007 二人の提案
恋焦がれたはずの高校生活も、いよいよ二日目。入学式に引き続いて今日は始業式が開かれ、里緒たち新一年生は在校生と初めての対面を果たすことになっていた。
部活の入部勧誘もスタートされた。校門前ではさっそくビラ配りの勧誘合戦が展開され、登校してきた里緒も差し出されるままに大量のビラを受け取ってしまった。サッカー部、硬式テニス部、少林寺拳法部、ハンドボール部、演劇部、考古学部、珠算部……。
「マネージャー募集中です!」
「野球部もいいけどうちも楽しいっすよ! マジで!」
「初心者大歓迎だよー!」
よく分からないうちにもみくちゃにされながら、一応、管弦楽部の姿を探してみた。晴れの日には目立つ金管楽器の姿も、黒や茶の大人びた格好よさが際立つ木管楽器の姿も、勧誘合戦の中には見当たらない様子だった。
「…………」
見つけたってどうせ、入らないのに──。もらってしまったビラをひとまずカバンにねじ込みながら、里緒はため息をついた。昨日の今日である。部活やら同好会やらに思いを馳せることはおろか、今は明るい気分で登校することさえ困難だった。
せめて今日こそは失敗を重ねたくない。元気に笑って、仲良く話して、今からでもクラスの人気者になれるように頑張ろう。髪をとかして歯を磨きながら、鏡の前で決心してきたのである。それが果たして自分の望みなのかどうかは、この際、どうでもよかった。
重たい心を引きずって階段を上りきると、そこはもう一年女子のフロア。初めて教室に立ち入った瞬間よりも緊張しているのを肌に感じながら、恐る恐る、D組の扉を開いた。
よかった。まだ人が少ない。
安堵の息を床に転がし、忍者よろしく足音を潜ませながら座席に向かった──その時だった。
「たーかまーつ、さんっ」
背中に不意打ちの声がかかったのである。
里緒は十センチほど飛び上がりそうになった。慌ててカバンを机の脇に引っ掛け、その声に引き揚げられるように顔を上げると、見覚えのある顔の子が席の前までやってきていた。
里緒は無言で叫んだ。
(青柳さん!?)
声の主は二つ結びの花音だったのだ。
花音はやけに楽しそうな顔で里緒を見下ろしている。一日前の記憶が脳裏をよぎり、たちまち回路の焼き切れるような臭いが鼻腔を漂った。いったいどうして、彼女が再び里緒のところを訪れているのか。里緒ときたら昨日、呼び掛けを無視して教室から飛び出してしまったばかりだというのに。
口を無意味に開閉させるばかりの里緒を前に、花音は小首を傾げてみせる。
「ね、高松さん昨日はどうしたの? 体調でも悪かったの?」
「え、えっと、その……」
「あっ。あと関係ないけど、高松さんの下の名前って『里緒』だったよね? これから『里緒ちゃん』って呼んでもいい? よね?」
「…………」
どうしよう、どうしよう。里緒の混乱にはいよいよ拍車がかかった。色々と話しかけられているのは分かるのだが、どう返事をしていいのか、頭の処理が追い付かない。しかしこのままずっとこうして黙しているわけにもいくまい。
「ねっ、『里緒ちゃん』でいいでしょ?」
なおも畳み掛けてくる花音を前に、ついに里緒は観念してうなずいた。気分は取調べ中の容疑者だった。
「……うん」
「やった!」
里緒の葛藤を知ってか知らずか、花音は嬉しそうにガッツポーズを決めた。
学校の友達に下の名前で呼ばれたことなんて、今までの人生の中でいったい何度あっただろう。身体中を這い回るむず痒い感覚の中で震えながら、
(“里緒ちゃん”、か……)
里緒は花音の声で、たった今この場で使われた呼び名を再生してみた。
くすぐったいような、それでいて胸の奥がじわりと温かくなるような感触がした。そのとき里緒を包んでいたのは、思っていたよりも恐ろしい感覚ではなかった。
「私のことは『花音』って呼び捨てにしてくれればいいからね!」
宣言した花音は、そうそうそれでー、と一方的に話題を切り換えにかかってきた。どうやら会話の主導権は、最初から最後までこの少女に握られっぱなしになるようだった。
「昨日は結局返事聞けなかったけど、私と一緒に管弦楽部、見学しに行かない?」
「か、管弦楽部?」
やっぱり──。思わず里緒は身構えてしまいそうになった。
花音は「うん」と言ってはにかみながら、頭の後ろを小さく掻いた。可愛い、と思った。ありふれた自然な動作でさえ可愛く思えてしまったのは、それをしているのが花音だったからに違いない。仮に里緒が同じことをしたところで、誰かの目に留まることは決してない。
「里緒ちゃん昨日、クラリネット吹いてるって言ってたじゃない? 私ね、高校に入ったら部活で楽器やりたいなーって思ってたんだけど、一人で行くのはちょっと勇気が出なくて」
「で、でも、私なんかが入ってもいいのかな……」
里緒はうつむいた。クラリネットを本格的に吹くようになって、四年か五年。今の自分にどれほどの実力があるのか、求められている技量のレベルにどれほど達していないのか、長らく吹奏楽部から遠のいていたせいでちっとも分からないのだ。それに──。
「何言ってんの。里緒ちゃん経験者なんだし、きっと歓迎してもらえるよ!」
花音は笑った。里緒の懸念はまとめて鼻息に吹き飛ばされた。
「そっ、それはそうかもしれないけど……」
「それに他の人たちもおんなじように楽器吹いてるんだし、一緒に頑張る仲間ができるんだよ?」
里緒は返答を詰まらせた。唐突に飛び出た“仲間”の語に、不覚にも心が大きく揺れてしまった。
高校は部活動が生徒の生活へ大きく関与する世界だ。友達関係だって部活動を中心軸に動いていく。中学でも、そうだった。すでに同じ中学を出身に持つ子たちが友達として繋がっていっている以上、ここで部活参加の波にさえ乗り損ねて“部活仲間”を見つけられなければ、その先に待つ未来はきっと、暗い。
「今日から部活の見学も解禁なんだって! 今日は始業式が終わっちゃえばガイダンス授業ばっかりだし、放課後になったら一緒に音楽室行ってみようよ!」
落とす寸前と見たのだろう。花音が矢継ぎ早に付け加えた。
「心配しなくたって大丈夫だよ、きっとすっごく楽しいよ! だって里緒ちゃん、吹けるんだもん!」
花音の言うことは逐一もっともで、里緒の不安や懸念を的確に突いて揺さぶろうとする。すがる目付きで里緒は教室を見回した。始業式の集合時間も目前になり、D組の教室には続々とクラスメートたちが集まりつつあった。聞こえてくる会話がどれも皆、部活の話に明け暮れていた。
里緒に逃げ場はないのだ。
いっそのこと叫んでみたい。喚いてみたいと思った。部活動に加わることを、引いてはクラスの子たちと仲良くなることを恐れてしまうのは、そんな理由じゃない。もっと違う理由があるのに──。
唇を固く結んだその瞬間、つかつかと足音が里緒の席に向かってきて、止まった。
「やめた方がいいよ」
凛と響いたその声に、「えっ」と花音が反応した。里緒も声の主を探して、花音の隣に立ったその人物を見上げた。
そこにいたのは紅良だった。昨日、里緒の自己紹介をそっくり真似てきた、あの端麗な少女である。こうして見るとやはり背が高く、彼女は里緒よりも高い位置から冷ややかな視線をだくだくと注ぎ込んでいた。
「誰だっけ、この人」
「西元よ。あなた──青柳さんの、ちょうど四列隣」
失礼千万な口を利いた花音を一言で黙らせてから、紅良は里緒をまっすぐに見据えた。里緒は反射的に肩を小さくしてしまった。蛇に睨まれた蛙というのは、こういう状況のことを指すのに違いないと思った。
「そこの人は何か思い違いをしてるみたいだけど、部活に入ったからってそんなに上手くいくわけない。吹部経験者なら知ってるでしょ。部活で音楽をやるっていうのは音楽という芸術を追求するんじゃなくて、ひたすら躍起になって個性を叩き潰して、コンクールの審査員に媚びる音楽を集団で作り上げるってこと」
花音が何かを言いたげに口を開けた。が、紅良は気付いていないふりを貫くつもりらしく、なおも辛辣な言葉を滔々と重ね続ける。
「正直言ってここの管弦楽部、そんな上手じゃないと思う。そんなに集団での音楽がやりたいなら、中途半端な実力の管弦楽部なんかより、もっとしっかりした活動をする外部の吹奏楽団にでも参加した方が数倍は有意義よ。それともただ単に仲間が欲しいだけなら、クラス内で作った方がマシ。余計な諍いだって起こさなくて済む。入部しない方がいいよ」
一切の反論の余地を感じさせぬ、冷徹なその口調に、いつしか場の雰囲気は鮮やかな蒼色に一変していた。すっかり気圧されてしまった里緒は、反応のために口を開くことさえ叶わなかった。
里緒にだって、吹奏楽部に在籍していた経緯がある。部内の空気も、方針も、わずかな期間ではあったが肌で感じてきたつもりで、だからこそ紅良の言葉を遮ることができなかった。紅良の言葉はさすがに極端が過ぎるだろうが、同時に、すべて間違っているわけでもないのだ。
花音の表情が不満そうに歪んだ。自分の提案を全否定されたのだから、面白くないのは当然である。
「どういう意味? 西元さん、ここの管弦楽部のこと何か知ってるっていうの?」
すかさず紅良は涼しい顔で言い返した。
「私だって新入生なんだから知ってるわけないじゃない。でも、だいたい想像はつく」
「なんで?」
「中学の時、吹奏楽部にいたことがあるの。もっと言うと、高松さんと同じ楽器を吹いてた」
そんな、同じ楽器の奏者だったなんて。絶句する里緒の横で、「だーかーらー」と花音が声量を上げた。
「中学校と高校が同じ事情なわけないじゃん! 私たち、オトナになったんだよ!」
「大して年齢も変わらないじゃない。どうせ一緒よ。比べるまでもない」
呆然と佇む里緒を取り残して、紅良と花音は敢然と睨み合った。
『部活は楽しい、仲間ができる』と繰り返し声高に主張する花音と、その説を頭ごなしに全否定する上、そもそも管弦楽部のような団体を毛嫌いしている様子の紅良では、意見が一致を見るはずはなかった。しかも厄介なことに、二人が念頭に置いているのは睨み合う相手ではなく、里緒なのである。
「里緒ちゃん、西元さんの言うことなんて聞かないで一緒に管弦楽部行こう!」
「私は忠告したからね、高松さん」
左右の耳へいっぺんに告げられ、里緒は困り果てた。言えない。どちらも一理あるだなんて、言えない──。やっとの思いで考え付いた返事は、配慮と遠慮ですっかり尻すぼみになってしまった。
「わ……私にはまだ、決められないよ……」
そして、二人の表情が期待はずれと言わんばかりに一様に傾いてしまうのを、確かに目の当たりにした。
始業式の準備を報せる校内チャイムが、気付けば高らかに教室に響き渡っていた。
「誰が何て言ったって、音楽やる部活が楽しくない道理なんてないよ!」
▶▶▶次回 『C.008 管弦楽部へ【Ⅰ】』