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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第三楽章 不協和音の波に打たれて
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C.074 拒絶

 





 紬の仙台取材から、一週間が経った。




 近頃、紬は里緒の姿をめっきり目にしなくなっていた。学校のある日は部活に打ち込んでいるのか、河原の土手でクラリネットを奏でるのはもっぱら休日ばかりになった。

 その休日にしても、里緒は以前のように好きな曲を奏でるのではなく、課題曲のような曲をいくつも繰り返し練習するようになった。ひっきりなしに楽譜を交換しながら、時にはクラリネットそのものまでも交換しながら、一心不乱に演奏と向き合っている。うっかり声をかけるのもためらわれるほどに。

 この二週間ほどで、里緒の日常風景は歴然と変わっていた。


「あ、今日はお姉ちゃんがいる!」


 その日も土手の向こうに見慣れた背中を見つけ、さっそく拓斗が嬉しそうな声を上げた。拓斗に引っ張られるようにして歩く紬の心は、彼とは裏腹にちっとも浮かなかった。

 仙台に行ったこと、勝手に家を覗いたこと、さまざまな現実を見聞きしてしまったこと、いつかは里緒にも説明しなければならない。だが、一体どんな言葉を用いて表現すれば紬の真意が伝わるのか、まるで見当がつかなくて。


(別に悪いことをしたってわけじゃないんだけど……)


 口に出すことのできなかった吐息を飲み込んで、苦い香りに顔をしかめる。

 確かに、紬は何も里緒の不利益になるようなことをしでかしたわけではない。それでも後ろめたい思いに駆られるのは、きっと目の当たりにした現実の冷酷さに理解が追い付いていないからなのだと思う。

 紬の葛藤が伝わるはずもなく、お姉ちゃーん、と拓斗が声をかけてしまった。振り返った里緒の顔が、道端の子猫を見つけたかのように(ほころ)んだ。夕陽の色の乗ったその表情は、少なくとも物理的にはずいぶん明るかった。


「こんにちは、神林さん」

「ごめんね。うちの拓斗がいつもいつも」

「いいんです。もう、馴れちゃって」


 しがみついた拓斗にしきりに演奏をせがまれながら、里緒はそっと微笑んで唇を結んだ。そしてそのまま、拓斗の指差すままに楽譜をめくっていく。


「ねーね、さっき吹いてたの何ー?」

「えっとね、〈闘魂こめて〉っていう曲。知ってる?」

「知らなーい。お姉ちゃんも発表会するの?」

「うん。発表、やるんだ」

「ききたいききたい!」

「まだずうっと先だよ?」

「じゃあ今きかせて!」


 二人のじゃれる影が土手に伸びる。紬はしばらく黙々と、里緒と拓斗の交わす言葉を拾った。

 きっと学校生活や部活も忙しいのだろうに、こうして血縁も近所の(よしみ)もない子にまとわりつかれながら、粗暴に扱うこともしないし、親の自分にだって礼儀を忘れない。常々(つねづね)、なんていい子なのだろう、と思う。

 そして同時に、こんな子をも痛めつけようとする人が実在したのだ、とも思う。

 にわかには信じがたい──否、信じたくない話だった。しかし里緒は実際にいじめを受けていたのだ。一週間前、他でもない自分自身の目で、紬はその証拠を確かに探り当てた。


(大人として、私はこの子に何をしてあげられるんだろう)


 クラリネットを抱え、拓斗の隣でそっと和らぐ里緒の横顔に、重たい痛みがずきんと響いた。

 里緒へのいじめがとうとう未解決に終わったことを、あの仙台の家は雄弁に語っていた。今、こうして里緒は表面上にこやかに日々を過ごしているが、きっと里緒はいじめを克服したのではない。ただ、住まう世界を強引に変更して、追い詰める魔の手から必死に逃れているだけなのである。


(いじめが終わらない限り、本当の意味でこの子の心の傷が癒えるはずなんてない。……ちゃんと、誰かに頼れてるのかな。まだ苦しみを抱えているんだとしたら、そのこと、きちんと周りの人に発信できてるんだろうか)


 そうでないのなら──。胸に手を当てて、紬は深呼吸をした。

 その時は、真実の一端に触れてしまった者として、なんらかの形でもって介入しなければならない。せめて里緒を守る意思があることを、味方であることを里緒には伝えたい。それが自分の責務なのではないかと思った。それは新聞記者としてでも、一社会人としてでもない、もっともっと個人的な責務だ。

 勇気を出さなければ──。

 ちょうど里緒は拓斗お気に入りの〈トルコ行進曲〉を吹き終えたところだった。控えめな風を装って、紬は声をかけた。


「……ね、里緒ちゃん」

「はい」


 里緒は振り向いた。頬をほのかに染める(あか)みの優しさに、無実の微笑みに、また少し胸が苦しくなった。


「ちょっと話さなきゃいけないことがあるんだけど、いいかな」

「い、いいですけど……」


 里緒が姿勢を改めた。紬も真似をして、里緒の瞳をまっすぐに見つめた。


「こないだね、あなたの昔の家に行かせてもらったの」


 里緒の頬から(あか)みが消し飛んだ。


「ごめんなさい。里緒ちゃんには何も相談しなかったよね。でも、相談したらきっと行くことを止められてしまう気がして、できなくて」

「……なんで、うちに」

「里緒ちゃんの過去のこと、少し、知ってしまったから。……情報源は伏せさせてほしいんだけど」


 うつむきがちに紬は話を続ける。視界に入るのは里緒と、それから事情を何も分かっていない拓斗の膝だけ。

 そこへ、ぽとりと木の実が落ちるようにクラリネットの(ベル)が転がった。里緒がクラリネットを手から離したのだ。


「知らなかった。もう二ヶ月近くも親しくさせてもらっているのに、あなたの抱えている苦しみのこと、私は何も知らなかった。……ひどいいじめに()っていたんだね、里緒ちゃん」


 紬は太ももに両手を押し付けた。


「あなたがどうやってあのいじめから逃れたのか、そこまでのことは私には分からない。私自身、いじめに()ったことも、傍観者になったこともなかったし……。だけどね、これだけは誓わせてほしいの。もしも里緒ちゃんが今も苦しみを抱えているなら、心に痛みを感じているなら、私はあなたの支えになりたい。どんなことがあっても味方でいてあげたい。気軽に頼れる存在でいてあげたい。だから──」


 話し終えないうちに里緒が立ち上がった。

 その手には、いつの間にか拾い上げられていたクラリネットが収まっていた。逆光になった里緒の顔は真っ暗で、真っ黒で、そこにはおよそ色らしきものを感じられなかった。


「里緒ちゃん……?」


 尋ねると、里緒は細い声を絞り出した。


「やめてください」


 震えの混じったその声色は、顔付きは、凶悪な脅威を前にして(おび)えている者のそれと同じだった。一歩、二歩と後ずさった里緒は、丸めた紙屑(かみくず)のように顔を歪めた。


「やめてください……。私、もう、忘れたんです。あの頃のことは忘れたことにしたいんです。仙台で暮らしてたことなんか、上手くいかなかったことなんか……っ」

「里緒ちゃん──」

「聞きたくないです!」


 取り付く島のない里緒の叫びに、ついに紬は口にするべき言葉をひとつ残らず奪われた。

 同時に、確信した。

 この少女はすべて自分で抱え込んでいるのだと。

 里緒は身をかがめ、教本や楽譜の入ったクリアファイルやケースを乱雑にかき集めてゆく。その脇に、きょとんと目を丸くしたままの拓斗の姿があった。拓斗と紬を一瞥し、里緒はうなだれた。


「──ごめんなさい」


 呼び止めることもできなかった。たちまちきびすを返し、里緒は土手上を走り去っていった。胸に抱えられた二本のクラリネットが危なっかしく揺れていたが、それも里緒の姿が土手の下へ消えていくに従って見えなくなった。

 しん、と空気が澄んだ。虫たちの鳴き声が遠く聞こえた。


「……お姉ちゃん、行っちゃった」


 あどけない拓斗のつぶやきに、力なく紬はうなずいた。

 認識する事実はたったひとつで十分だった。──紬の申し出は、里緒自身の意思によって拒まれてしまったのだ。








「あんたはずうっとそうやって独りぼっちで生きてけば?」


▶▶▶次回 『C.075 悪夢と現実』

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