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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第三楽章 不協和音の波に打たれて
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C.073 届かない懸念

 



 里緒の日常は次第に変わっていった。

 帰宅時間ぎりぎりまで音楽室でクラリネットにかじりつき、行き帰りの電車では楽譜や曲の解説本に目を通しながらイヤホン越しに演奏を聞く。家に寝る前には運指(フィンガリング)の確認。休み時間は不足がちの睡眠を補いつつ、ひたすら曲の聴き込みに励む。学校のない日には河原の土手に通って、基礎練習やソロパートの練習に没頭。

 これだけのことを日課として消化するのが、里緒の当たり前になった。もとから似たようなものだったが、初の合奏を境にして練習体制はより強化された。

 クラリネットのために払う時間の犠牲はあまりに大きい。とはいえ、ほかに趣味があるわけでも、余暇を一緒に過ごすような家族や友達がいるわけでもなかったから、さして大きな変化ではなかったように思う。……否、こんなことを言えば花音あたりが『そんなことないよ! 私がいる!』なんて言うのだろう。しかし今の里緒は到底、その言葉に素直にうなずいて甘えられる心境ではなかった。

 そうでなくても人見知りで交遊関係の少ない里緒のこと、親しいのはせいぜい花音や紅良くらいのものである。そして、


(青柳さんにも、西元さんにも、それぞれに親しい人がたくさんいるんだもん。私が、いなくたって)


 その観念がますます里緒の心を二人から遠ざけ、手元のクラリネットにがんじがらめに縛り付けてゆく。




 イヤホンに没頭する里緒の姿は、いよいよ周囲の目にも奇異に映り始めたようだった。


 ──『それ、飽きないの?』

 ──『なんか見かけるたびにそれやってるけどさ、疲れて投げ出したくなったりしない?』


 昨日は電車の中でたまたまクラスメートに会って、(いぶか)しげに尋ねられた。作り笑いを描いて、答えた。『飽きないよ』、『投げ出したりなんてしないよ』と。

 なぜって、それが自分に与えられた役割だから。

 飽きただとか疲れただとか、そういう自分本位の逃げ口上を並べ立てることは許されないから。


 ──『高松さんって頑張り屋さんだよね』


 里緒の姿を見かけるたびに、クラスメートたちは決まってそんな台詞を吐く。本当なら、それは直球な褒め言葉のはずなのだけれど、素直に喜ぶ気にはなれなくて里緒は曖昧に笑うばかりだった。“頑張りやさん”の称号は、自分にとって理解不能な存在を彼女たちが強引に定義するための語のようにしか感じられなかった。

 事情を理解してくれているからか、はたまた関わり合いになりたくないからか、里緒が耳にイヤホンを沈めていたりクラリネットをくわえている時、管弦楽部の仲間たちはほとんど里緒には話しかけてこない。あの花音でさえ、じゃれついて来るのをためらうようになった。それが里緒の意思を尊重しようとしてくれている結果なのか、それともそうではないのか、里緒には分からない。分かりたいとも思わなかった。

 もはや、他人の動向に割く心の余裕など、里緒の小さな胸のなかには微量も存在しなかった。





 ◆





 菊乃の表情は今日も晴れやかだった。コンクールの練習が始まって以来、ただでさえ暑苦しい菊乃の瞳や肌の輝きは、日を追うごとにますます強さを増してきた。


「んー、疲れた! 今日もよく頑張った!」


 音楽室の鍵を締めながら彼女が伸びをすれば、隣の恵が「帰りにコンビニ寄ってアイス食べようよ! アイス!」と便乗する。駅前のコンビニに並ぶアイスの品揃えを美琴は思い返した。六月も半ばに差し掛かった今、東京の夕方は確かに暑い。アイスくらい食べてもバチは当たらないのではないかと思った。


「恵、最近買い食いしすぎじゃないの? 晩ご飯だってあるんでしょ?」

「そんなの別腹に決まってんじゃんっ」

「これでまた夏休みに入ったとたん『ダイエットしなきゃ!』とか言い出すんだから、学習能力ないよなー」


 うるさい! と恵が顔を赤くして、音楽室の前は賑やかな笑いに包まれた。いま、ここにいるのは二年生の女子だけ。最後まで居残っていた里緒たち一年生コンクール組を帰し、無人の廊下を占領しながら駄弁(だべ)る時間は、誰よりも遅くまで楽器と向き合っていた者だけの特権なのだった。


「わたし、前回は代表委員会あって休んじゃったからさ。ブラバンの合奏に加わるのは初めてだったんだけど」


 暑そうにベストの胸元を扇ぎながら、トロンボーンの佳子が心地よさげに瞳を閉じる。


「やっぱ野球部の応援練が始まると、夏が来たなーって感じがするよね。この感覚、なんか幸せ」

「暑くてあんまり練習に身は入ってないけどね」

「そーそー。みんな窓際とかクーラーの真下に集まるし。見た? 低音なんて今日お昼寝タイム設けてたんだよ!」


 いちおう真面目に練習しているつもりの美琴としては、正気か、と目を剥きそうになった。甲子園の予選だって近いし、低音セクションにはコンクール組が二人もいるというのに。

 でも、本当はそのくらいの余裕があってしかるべきなのかもしれないとも思う。


「木管セクションは誰かさんがいるから休めなさそうだよねぇ。あー、可哀想」

「当たり前でしょ! コンクール総監督にして楽譜管理者(ライブラリアン)のあたしがいるんだもんね」


 聞こえよがしの皮肉に菊乃が反応した。心なしか、嬉しそうでもある。


(嬉しいのは私も同じかな)


 汗を吸い込んだように重たいクラリネットのケースを意味もなく揺らして、美琴は仏頂面の裏に笑みを作った。クラリネットにしたってピアノにしたって、“練習”の題目の(もと)にいくらだって演奏していられるのだ。嬉しくないはずがない。

 この息の続く限り、力一杯の音を世界に向かって響き鳴らしたい。

 そのためならどんな練習にだって立ち向かえると思う。

 演奏に楽しみとか幸せを見出だせない奏者なんて、それこそ可哀想だ。こんな感慨をきっとこの人たちは理解しないだろうな──。すぐ隣を歩く部の仲間を自分と比べ、ひそかな満足感に酔いしれた時。


「……あのさ」


 不意に、控えめの声が菊乃たちの雑談を遮った。

 声の主は、それまで黙ったまま一行の最後尾をついてきていた、アルトサックスの佐和だった。


「どしたの、佐和っち」

「こないだからコンクールの練習、本格的に始まったじゃん。もう合奏も何度かやってるんでしょ」


 すぐ後ろを歩いていた美琴の横を抜け、追い付いた佐和が菊乃の横に並んだ。菊乃の顔からは、まだ笑みの余韻が消えていない。


「うん。そだよ」

「高松はソロのままなの?」


 菊乃は目をぱちくりさせた。美琴にも佐和の言いたいことが分からなかった。佐和は廊下に視線を落としたまま、「こないださ」と話を繋いだ。


「あの子、立川音楽まつりの後に謝ってたじゃん。演奏失敗してごめんなさい、って」

「あたしはあれ、あんまり気にしてないけどな」

「そんなの私だってそうだよ。そうじゃなくて……」


 佐和は声のボリュームを一気に引き絞った。


「あの子、大丈夫? コンクールになんて出せるの?」

「どういう意味?」

「あの謝罪だけに限った話じゃない。最近の高松、あからさまに様子が変だよ。無理して練習してるのが見え見えだし、いつも顔がひきつってる。……普通じゃないよ、あれ」


 穏やかならぬ佐和の言葉選びに、場の空気が一瞬、凍った。菊乃の顔つきはまだ変わっていない。佐和はなおも畳み掛けた。


「あの子の技量は確かに本物だよ。だけど、それ以前にメンタル面の(もろ)さがやばすぎると思う。音楽まつりの件だって、たかが一、二ヶ所の目立たないミスしたくらいであんなに必死に謝るなんて絶対おかしいでしょ。いくら何でも経験者なのに緊張しすぎだし、神経質ってくらい他人の目を気にしてる。こないだの合奏でも、ちょっと何か言われたくらいでめちゃくちゃ凹んでたっていうじゃん」

「……そりゃ、まぁ」

「菊乃が高松のことをどんな風に評価してるのかは知らないけど」


 佐和は言葉を区切り、声量を上げた。


「私にはこのままだと高松も、コンクール組も、よくない方向に進む気がしてならないよ。あの子は弱すぎる。今のままじゃコンクールには向かないし、仮に出られるとしたって独奏(ソロ)パートなんかに立たせられる子じゃない。下手するとコンクール目前にして、潰れるよ」


 学年代表に対する物怖じの気配は少しもない。しん、と無言の流れ込んだ廊下の匂いを嗅いだ途端、静かな興奮の熱が美琴を包み込んだ。

 ──来た、この指摘。いつか誰かが口にするのではないかと思っていたのだ。

 まだ菊乃はきょとんとしている。動じない学年代表を前に、佐和はなおも訴えかけた。


「あの子、菊乃たちが無理してコンクールメンバーに加えたんでしょ。悪いこと言わないからさ、外しなよ。コンクールのためにも高松のためにも外した方がいい。美琴あたりがクラパート代替すれば済むんだから」

「え、でもそんなの、もっと練習を重ねてみなけりゃ分かんなくない?」

「そりゃそうだけど……」


 真正面から突き立てられた反論に、佐和の視線が横滑りする。菊乃は笑った。


「高松ちゃんのメンタルが脆いことなんか、あたしだってとっくに分かってるよ。総監督のあたしを()めないでよね」

「じゃあ──」

「そんなことで高松ちゃんの才能の活用を諦めたりしないよ。メンタルなんて、場数を踏んで馴れれば鍛えられる。弱さは自信で克服できる。いい演奏ができるようになれば、人前に立つ恐怖も勝手に乗り越えられる。そういうもんじゃない?」


 菊乃の言葉には有無を言わさぬ重量感があった。なおかつ、正論だった。主張の伝わらないもどかしさに(あえ)ぐように、佐和が潤みかけの目で美琴を一瞥する。美琴はとっさに知らんぷりを決め込んでしまった。


「そのための立川音楽まつり、そのための甲子園の応援ブラバン演奏だよ。あの子は確かに猛烈な緊張しいだし、いちいち自己否定しすぎだけど、それさえ克服すれば誰よりも強い奏者になれる。その道筋を示してあげることの方こそ、高松ちゃんを指導する上級生の責務じゃないかなって思うけどな、あたし」


 菊乃はさらにそう続けた。実に響きのよい言葉選びだったが、『何がなんでも里緒はメンバーに入れたままにしたい』という、決して剥き出しにされることのない本音が、正論の姿をした台詞(せりふ)の後ろにはしっかり隠れていた。


(ああもう、もっと食い下がりなさいよ)


 美琴は()れた。口に出せない本音を抱えているのは自分も同じだと思った。そしてその無言が伝わることはなく、佐和は不安げな顔付きのまま、うなずいてしまった。


「……確かに、そうかもね。ごめん、余計な口出しして」

「余計なんてことないよっ」


 笑った菊乃が前を向く。そのまま、気まずい色に変じた空気を戻そうとでもするように、また直央や恵たちと他愛のない話に興じ始めた。歩みの止まった佐和と美琴だけが、その場に残された。


 “里緒をコンクールメンバーから外させたい”。

 その理由に多少の相違はあろうとも、少なくともその一点において美琴と佐和の思惑は一致している。

 菊乃には一蹴されたとはいえ、これは思わぬ味方を見つけたかもしれない。響く足音や笑い声を聴きながら美琴が内心ほくそ笑んでいると、


「……あいつ、本当に分かってんのかな」


 立ち尽くす佐和の口から声がこぼれた。


「最近の高松、前と比べて明らかに、部活に来るのを苦痛に感じてるように見えんだけどな」

「ミスしたのを引きずってるからでしょ」


 とっさに聞き返すと、「違うよ」と佐和は首を振った。


「たぶん……もっと違う理由があるんだ。菊乃や私たちには分かんないようなところにある理由」

「分かんないところにある理由?」

「そう。直感で、そう思った」


 肩提げの通学カバンの紐を握りしめ、佐和はうめいた。


「……何も起こらないといいけど」


 何と答えたものか見当がつかず、美琴はその(うれ)いを聞き流してしまった。








「私、もう、忘れたんです。あの頃のことは忘れたことにしたいんです。仙台で暮らしてたことなんか、上手くいかなかったことなんか……」


▶▶▶次回 『C.074 拒絶』

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