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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第三楽章 不協和音の波に打たれて
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C.072 合奏一回目

 





 六月十一日。

 ついに、コンクール組にとって初めての合奏の日がやってきた。

 里緒なりに万全の準備を済ませ、この日を迎えた。隅から隅まで楽譜を読み込み、指示や指摘を片っ端から頭に入れ、指が痛くなるまで運指(フィンガリング)の練習を繰り返してきた。

 結局、どんなイメージで演奏するのかを決めきることはできなかった。けれどもできないなりに、楽譜の指示に忠実な演奏をこなせるようになったつもりだ。作曲家は自らの曲を語らない。伝えたいことはすべて、細い五線譜の中に余すことなく織り込まれている。設計された音楽を正しく奏でることができれば、必然的に作曲者の意図した世界観に近い演奏が実現するはずなのだ。

 それでもやっぱり緊張してしまう。それに、心細い。独奏者(ソリスト)は常に広い舞台のもっとも目立つ場所に、たったひとりで拘束されるのである。


「あ、高松ちゃんの合図で伴奏も始めるからね」


 いざ合奏を始める段になって、菊乃が何気ない調子でそんな言葉を放ってきた。


「今回は指揮者いないし、高松ちゃんの位置からだと(コンミス)のことも見えないだろうからさ。ソロやる子に開始の合図してもらわなきゃいけないんだ」


 指揮者は演奏する音楽の表現や改善点を奏者に指示・指導し、楽団全体をまとめ上げるための役職だが、特に少人数の楽団においては必ずしも配置されるわけではない。おまけに弦国の一年や二年には学指揮経験者がいないので、人数のやりくりも考えると指揮者の配置のしようがなかった。

 ただでさえ固まっていた里緒の肩は余計に強張った。


「そんな、えっと……どんな合図をしたらいいですか……?」

「そんなの高松ちゃんの好きなようにしてくれればいいよ!」


 あまつさえ、肝心なところは里緒に丸投げである。

 不安だ。不安しかない。それでも逃げるわけにはいかないので、じゃあ──と合図の仕草を決めて楽譜をめくった。今は目の前に(たたず)む面積の小さな譜面台だけが、ひとりぼっちの里緒がしがみつくことを許してくれる。


(お願い)


 私を、支えて──。

 無機質な黒色の譜面台を撫でて、祈った。それからすぐに相棒のA管クラリネットを取り上げた。




 〈クラリネット協奏曲〉第二楽章の演奏時間はおよそ九分である。もっとも、数字はテンポ次第でいくらでも左右されるので、実際の演奏時間はもう少し短かったかもしれない。タイムを計測したわけではないが、心なしかCD音源で聴いた時よりも音符の運びが忙しなかったように思った。実際に演奏してみた感覚をもとにペース配分の確認や調整を行うのも、合奏練習の大きな意義のひとつだ。

 クラリネットパート用の楽譜には二種類の指示がある。それが“Solo(ソロ)”と“Tutti(トゥッティ)”。前者の指示がある場所では、クラリネットは他の楽器と離れてソロパートを吹き、“全合奏”を意味する後者の指示のある場所では他の楽器の演奏に合流する。クラリネット協奏曲と言えども、最初から最後までクラリネットだけが主役を張っているわけではないのである。とはいえ、曲の中枢を占める長いソロパートを担うこととなる独奏クラリネットパートが、この〈クラリネット協奏曲〉の柱となり根幹を為している事実に代わりはない。

 クラリネットが狂えばすべてが狂う。

 独奏(ソロ)の難しさは、まさにその一点にある。




 (ファ)────。

 か細く、尾を引くように続いた高めの音が、穏やかに膨らんだ弦楽器の低い響きに飲み込まれて途切れた。視線の先をよぎった二本の終止線が、里緒の息をいっとき、止める。


「ふっ」


 フルートから唇を離した菊乃が吐息をこぼした。他の面々もいっせいに楽器を下ろした。

 里緒は大きく、大きく、深呼吸をした。

 よかった、なんとか(しま)いまでたどり着くことができた。


「水分補給したら意見交換の時間を作ろっか。思い付いたこととか感じたこととか、各自いろいろあると思うから」


 菊乃の言葉に「はーい」と恵や直央が応じている。水のペットボトルを握ると、麻痺していた肌の感覚が瞬間的に戻ってきて、思わず里緒はペットボトルを取り落としそうになった。


(失敗はしなかった)


 乾ききった喉の奥へ水を流し込みつつ、自らの口と喉で(つむ)いだ響きの余韻を肩から振り払った。


(ちゃんと楽譜の通りには吹けたんだ。怒られたり呆れられるようなミスはなかった。……たぶん)


 そればかりを恐れてはいけないのだと分かってはいても、どうしてもミスの有無が気にかかる。これがトラウマというものなのかもしれない。うっすらと額ににじんだ汗を、(つか)んで引き寄せたハンカチでそっと(ぬぐ)った。

 なぜだろう。

 胸騒ぎがした。

 ミスをしなかった代わりに、もっと重大な失敗を犯したような──。そんな不吉な予感が、胸を。




 数分の休憩を挟んで意見交換の時間が始まるや、指摘は次々に上がってきた。まず、楽器のバランスがどうにも悪い。弦楽器の音に厚みが足りず、曲の雰囲気がどことなく浮わついている。それから、いくら吹き手が菊乃であってもフルートが一本しかないのはやはり痛手で、他のパートに飲まれて聞こえづらい。

 本来の楽譜には存在しないピアノの扱いも問題だった。ヴァイオリンやヴィオラの補完のつもりで組み込んだはずが、いざ合わせてみると当の弦楽器たちよりもいくぶん目立ってしまっていた。


「まー、そもそも音色の違う楽器だしな。補完って言っても限度はあるよね」


 (ボウ)をしならせて(もてあそ)びながら、直央は魚の小骨を喉に引っ掛けたような顔をした。


「でもさー。なんかそれ以前に、うちらの目指してる音と美琴の目指してる音がまるっきり食い違ってた気がしたんだよね。気のせいかな」

「私も、同じく」


 ヴァイオリンパート仲間の小萌が口数少なく続いた。美琴を伺うと、彼女は無言でピアノパートの楽譜をつまみ上げた。見慣れたいつもの仏頂面よりも、いくらか顔の(ほり)が深く見えた。


「私のセリフでもあるんだけど、それ」

「えー、そういうこと言っちゃう?」

「食い違うのなんか当たり前でしょ。演奏のイメージとか強調して表現する部分とか、演奏前に何も()り合わせてなかったんだから」

「……それもそうだけどさ」


 直央の表情は苦々しかった。演奏のテクニック指導はともかく、確かにそれまでの練習では演奏イメージの擦り合わせは行われていなかったのだ。

 美琴は鍵盤に手を置いた。ポーン、と控えめに音が鳴った。


「弦楽器だけじゃないと思うよ。描こうとしてる音の方向性が違うな、って感じたパートは他にもあった。合奏やる前にさ、そのへんのことも多少やっておくべきだったんじゃないの」


 拡散した美琴の声は、ピアノの躯体に反射して大きく響く。すかさず、菊乃が反論を口にした。


「あたしはそれ、演奏の腕がある程度まで上がってきてからでいいと思ってたけどな。下手なうちからそんなことばっかり考えても仕方ないかなって。だから、今までの練習中もあんまり触れないようにしてきたつもりだったんだけど」

「それにしたって限度があるでしょ。極端な話、同じ楽団のなかにうんと明るく演奏しようとしてる人と、悲壮感たっぷりに演奏しようとしてる人がいたら、その曲いったいどうなると思う?」

「…………」

「そういう意味でいちばん違和感を覚えたのは、クラだった」


 里緒は飛び上がりそうな勢いで顔を上げた。──今、美琴は“クラ”と言った。確かに言った。


「高松のクラは最後まで何が吹きたいのか分からなかった。四十番のあたりとか、クレッシェンドのところでうんと明るく音を飛ばしてくるかと思えば、次の音が下がるところはいきなり音量と響きまで下げて暗くなるし。あのさ、高松」

「は、はいっ」

「どういう曲のつもりで吹こうとしてるの」


 里緒には返せる言葉がなかった。

 美琴には見抜かれている。曲のイメージを定められず、ただ楽譜の通りに演奏することだけを心掛けていたのを、美琴にはしっかり見抜かれていたのだ。底冷えのする寒気に身体が揺れた。


(私は…………)


 胸の奥にぽつんと浮かんだ思いが続くことはなかった。無言のままうなだれる里緒に、キイの押し込まれた鍵盤たちに体重を預けながら美琴はさらに言葉を重ねる。ぼーん、と鍵盤が間抜けな音を立てて笑った。


「しっかりしてよね。〈クラリネット協奏曲〉なんだから自分の楽器がいちばん肝心なんだってこと、分かってるんでしょ。まがりなりにも楽譜渡しから一ヶ月経ってるんだし、せめて曲調に一貫性くらい持たせてもいいんじゃない」


 里緒に反論の余地はなかった。

 ああ、そうか。これが胸騒ぎの正体だったんだ──。

 噛んだ唇に悔しさはすべてにじみ出して、隙間だらけの心には得体の知れない暗い感情ばかりが残って、里緒は結局、頭を下げてしまった。


「ごめんなさい……」


 自分のせいだ。何べん曲を聴き込んでも、いくら参考の本を読み比べても、どれだけ人に尋ねて回っても曲のイメージを固められなかった、里緒自身のせいだった。他の誰の責任でもない。

 ちょっと、と菊乃が割り込んできた。


「そこまで言うことないじゃん。曲調はともかく高松ちゃんの演奏は基礎がしっかり仕上がってるんだし、それこそイメージなんてゆっくり仕上げていけばいいんだよ。まだ何か月もあるんだから」

「大事なことだってのは分かるけど、そこまで焦る必要ねーと思うけどな。俺も」


 さらに智秋の擁護が続く。美琴からの返答はなかった。少しの隙間もなく閉じられた二枚の唇は、意見を(ひるがえ)すつもりはないという頑固な意思の表れにも思えた。

 恵がいきなり「そういえばわたし演奏中トイレ行きたくて仕方なくてさー」などと全く関係のない話を始めて周囲の失笑を買い、剣呑な空気がようやく少し和らいで、話し合いはだんだんと個人個人のテクニックの指摘や指導の話に移っていった。里緒に声がかかることはなかった。これならいっそ『下手くそ!』とでも糾弾される方がマシだ。怖くて、悲しくて、悔しくて、とうとう里緒は最後まで楽譜とクラリネットから視線を上げることができなかった。




 これだけ曲を聴き込んでも、吹き込んでも、まだ足りない。


(もっと、)


 噛み締めた唇から痛みが(ほとばし)った。


(もっと頑張らなきゃ──)









「たぶん……もっと違う理由があるんだ。菊乃や私たちには分かんないようなところにある理由」


▶▶▶次回 『C.073 届かない懸念』

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