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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第三楽章 不協和音の波に打たれて
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C.071 潜入取材

 




 紬の他に電車を降りる客はいなかった。灰色のボタンを押して、出てきたばかりのドアを閉める。四両編成のJR仙山線愛子(あやし)行きは、紬をホームに吐き出すと間もなく発車し、草の生い茂る線路の上を瞬く間に走り去っていった。

 ここは東北地方の誇る中心都市、宮城県仙台市青葉区。紬が降り立ったのは、その都心部から電車で数十分ほど走ったところに位置する、山間(やまあい)の小さな街である。


(着いた)


 紬は深呼吸をした。嫌が上にも身が引き締まった。

 街並みを望むことのできる長い階段を一気に下り、ICカードをかざして改札を通過する。あたりはむっとするような草いきれの香りに包まれていた。だだっ広い駐車場を横目に流しながらスマホを取り出し、この先に目的地があるのを確認した。

 駅前から道を回り込んで徒歩十分ほど。佐野(さの)地区と呼ばれる盆地状の地域の北端、河岸段丘の中腹にへばりつくように、その家は東を向いて建っていた。現地からはおそらく、崖下を走る高速道路や、近隣の市立佐野中学校なんかも見えるだろう。現在は無人の家なので、近寄っても問題ない()()だった。

 ──そう、目的地は高松家。

 里緒の暮らしていた家である。

 立川音楽まつりから一週間となる六月九日、日曜日。かつて里緒の身に何が起こったのかを知るために、紬は休日を利用して日帰りで仙台を訪れたのだ。




 道すがら、ポケットにしのばせたメモ帳をめくって、道中で手に入れた情報を整理した。

 まずは里緒の母親について。日産新報所属の記者を名乗り、伝手(つて)を頼って県警本部や所轄の仙台宮城警察署で話を聞いたところでは、二年近く前にこのあたりで自殺事件があったのは事実のようだった。手段は絞首、家族による通報で発覚し、到着時にはすでに死亡していた。事件性の有無の確認のため高松家には警察の捜査も入っており、今でも当時の記録は残っていた。念のため、いじめに関する相談や刑事告訴がなかったかも尋ねた。記録はないとの返答だった。

 匿名掲示板の書き込み内容から、通学先の中学校や最寄り駅、おおまかな家の位置は特定できていた。立ち寄った市立図書館で住宅地図を閲覧し、該当する地域のなかで高松という苗字の家を探した。じきに高松家は見つかった。判明した住所をオンライン電話帳で検索、『高松大祐』というフルネームの情報も手に入れた。おそらくはこれが里緒の父、つまり亡くなった里緒の母の夫の名前なのだろう。

 ついでに日産新報仙台支局にも立ち寄り、過去の報道履歴も漁ってみた。社会部デスクにも顔を出し、念入りに調べて回ったつもりだったが、ほんの小さな記事さえ見つけられなかった。他社のアーカイブでも発見できず、すごすごと支局を後にした。

 もしもまだ誰の目にも触れていないのなら、紬のスクープである。

 そうでないのならば──。背筋が寒くなって、考えるのをやめた。


(現地の自宅がどうなっているのかなんて分からないし、新たな情報が手に入る見込みだってあるわけじゃない)


 慣れない押しボタン式のドアを開けて電車に乗り込みながら、カバンの持ち手にぐっと力を入れた。

 無意味だったとしても構わない。どのみち、決して過去を語ってくれない里緒の悲劇に少しでも迫るためには、こうしてここへ(おもむ)かなければならなかった。


(ごめんね、里緒ちゃん。お節介なのは分かってるの)


 心の中では謝りつつ、けれど虫のいい以心伝心の可能性にもわずかな期待をかけて、流れゆく未知の街の景色に身を(ゆだ)ねた。

 知的好奇心を満たすために仙台を訪れたのではない。里緒という少女の身に起こった一件は、社会問題の周知を生業(なりわい)にする一新聞記者として、どうあっても見過ごせるものではなかったのだ。




 右へカーブした下り坂の先にT字路がある。地図を表示したままスマホを何度も傾け、ここか、と道を右に折れた。乗用車がやっと行き違えるほどの幅に舗装された道が、見通しのきかない先まで続いていた。

 市中といい山間部といい、何かと勾配の厳しい街である。


(歩いて登下校するのは大変だったろうにな)


 緩やかな上り坂に足をかけて、小石を蹴った。なかなか足が進まない。行く手の空が曇っているのを見上げて、はやる気持ちを懸命に足へと流し込んだ。

 いつか、里緒もこんな風に足取りの重さを覚えた日があるのだろうか、と思った。

 紬にはいじめを受けた経験はない。だから、いじめの標的にされた人の目に映る世界を、紬が正確に忠実に知ることはきっと叶わない。けれども、目の前に淡々と続く道の上へ、ひとりぼっちで肩を落として歩く里緒の姿を重ね合わせると、何も分かっていないはずなのに胸がきつく締め付けられた。

 もしも別人のことだというなら、それはそれでいい。

 紬の無様な勘違いということにしてくれていい。


(本当にそうであってくれたらいいのにな)


 繰り返し地図を睨み、山肌を縫って進む静かな道を歩きながら、紬は嘆息した。無理を通して拓斗を預け、私費で往復の新幹線きっぷを買ってまでして、貴重な日曜日をムダにした──。そういって明日の自分が後悔していればいいのに。

 左手の景色が開けた。木々の向こうに、盆地状の景色が伺える。豆粒のようなサイズの車が往来しているのは東北自動車道か。

 景色は一致した。この近くのはずである。


(どの家だろう)


 見回した視線が、右手にそびえる山の中腹で止まる。一軒の家が見えた。あれか、と思った。

 木造二階建て、二階には小さなバルコニーが付随している。急な斜面の中腹に建つその家は、伸び放題の草や木に姿を隠され、およそ人の現住している様子には見えなかった。

 目的の家だ。地図アプリの航空写真で見たものと同じ姿をしている。

 確信が胸を(つらぬ)いて、紬は急いだ。途中でT字路を右に折れ、滑りやすそうな坂道を駆け上がる。表札に【高松】の文字が見え、確信は確定に変わった。


「……ここね」


 額を走る汗を(ぬぐ)い、紬は開いた口を結んだ。

 ひとまず玄関を伺ってみる。道をふさぐ草木を振り払い、数段上のところにある玄関扉を見やるが、やはり人の気配は感じられなかった。しかし【空室】などの看板もない。里緒が立川で暮らしていることを考えると、この家は売りに出されることもなく放棄されているらしい。

 税金だって余計にかかるだろうに、なぜ手放さなかったのだろう。──そんな素朴な疑問さえもが、ここでは不気味な異臭を放つ。

 玄関の手前に郵便受けがある。引っ掛かっている封筒を見つけて、何とはなしに引っ張り出してみた。

 紬は声にならない悲鳴を上げた。


【お前も死ねよ】


 封筒にはその六文字が躍っていた。まだ何枚もある。どれを引っ張り出しても、さまざまな語彙の罵詈雑言が赤いペンで派手に書き散らかされている。


【どこ行ったのー。逃げたのー。ウケる】

【二度と佐野に戻ってくんな笑】

【笛吹き妖怪!!!】

【ママに続けばいいのに】


 言語を絶する悪口雑言の数々であった。証拠になるかもしれない──。地面に並べてスマホをかざし、写真を撮った。鳥肌が立ち、撮影ボタンを押す指がひどく震えた。

 いじめの現場や証拠を見るのはこれが初めてではなかった。足掛け十年以上のキャリアの中で、もっと凄惨な現場に出くわしたこともある。なのに、動揺をうまく隠せなかった。湧き上がる寒気をやり過ごすことができなかった。被害者のことを中途半端に見知っているせいかもしれない。


(……落ち着け、私。まだ序盤でしょ)


 すう、と肩で大きく息をした。かびたほこりの臭いが、たちまち鼻腔をぎっしりと満たした。

 玄関から脇にそれて庭に立ち入ると、そこにも目を疑う光景が広がっていた。狭い庭に散らばる壊れたテレビや電子レンジ、錆びた自転車、折れた木刀、リコーダー、ぐしゃぐしゃに落書きのされた教科書、ノート、ゴミ、ゴミ、ゴミ。


(窓ガラスも割られてる)


 ゴミの山を踏まないようにして、庭に出る窓のそばへ立ち寄った。当然のように真っ赤な塗装用スプレーで落書きがされていた。【お化け屋敷www】──鮮血のようにガラスをのた打つ文字の向こうでは、窓の破壊に使われたのであろう石や金属バットが、大破したガラスの欠片(かけら)と一緒に我が物顔で床に寝転がっていた。

 部屋には生活の跡が残っていた。小さなソファや棚、テーブルといった家具類はそのままで、うっすらと白いほこりのベールをまといながら無言で(たたず)んでいる。

 どこを向いても見当たる、この家が持ち主に見放されたことを物語る無残な痕跡。

 そしてそれ以上に見当たる、どこまでも無慈悲な、累々(るいるい)たる暴力の痕跡。

 ここまで状況証拠が揃えば疑いの余地はなかった。里緒は確かに数年前、この地域の子どもたちにいじめられていたのである。しかもこの光景からして、地域の大人たちは彼らの悪行を止めることをしていない。親ぐるみ、いや、下手をしたら地域ぐるみのいじめが行われていた可能性すらある。


(写真……撮らなきゃ)


 紬は震える手でスマホを構えた。一枚、一枚、刻まれた痕跡を写真に収めていった。

 怒りに震えているのではなかった。この家の住人に向けられている底の知れない敵意が恐ろしくて、震えがしばらく治まらなかった。




 草や土の臭いにまみれながら、家を出た。

 人影はない。ひとまず、高松家を漁っているのを見咎められる事態だけは避けられたようだ。吹き下ろした風が汗のにじむ背を叩いて、ぞく、と鳥肌が立ちかけた。

 このまま帰ることはできる。

 しかしこのまま帰ってしまいたくはなかった。


(聞き込み取材、やるだけやってみるか)


 カバンからいつもの取材用メモ帳を取り出して、ポケットに忍ばせた。付近の住民なら、嫌でも何らかの情報を握っているはず。それを聞き出さないことには、現地まで来た意味が半減してしまう。

 急坂を下って車道に出た。都合よく、右カーブの向こうの方から自転車で走ってきている人影があった。


「あのっ」


 通過される前に呼び止めた。作業服姿の男は、上下スーツの紬を胡散臭げに眺め回して、目を細めた。


「なんだ、お前」

「道に迷ってしまって。人に会いに来たんですけど」


 紬はあくまで一般人のふりに徹した。経験上、こちらの身分を明かしたのでは、話題に入る前に逃げられてしまいやすい。もしも正体を疑われたら名刺を出せばいいのだ。発行部数四百万部を誇る大手全国紙の記者というのは、これでもそれなりに公共性が高くて信用の置かれる身分だと自負している。


「それで」

「あ、道はさっき分かったので大丈夫なんです。……ただ、その、迷った時にこの坂道に入ってしまって。中腹に家が一軒あったんですが」

「…………」

「あの家、どうかしたんですか? ずいぶん荒れ放題だったので気に──」

「マスコミか、お前」


 男の目がぎょろっと大きくなった。


「え…………」

「帰れ。二度と来るな」


 そんな。

 あまりにも発覚が早い。

 紬が返す言葉を思い付く前に、男は立ち漕ぎで急加速して走り去ってしまった。それこそ逃げるように、あるいは誰かに危険を(しら)せるかのように。


(……なんて警戒心が強いわけ)


 あれではまるで、あの男が加害当事者のようではないか。紬はしばらく呆然と突っ立っていたが、早々に気を取り直した。社会部記者たるもの、取材対象者一人に振り切られたくらいで凹んではいられない。

 次の相手はすぐに見つかった。少し先に、崖下へと続く細い下り道が別れていて、折しも二人の子どもが仲良さげに話しながら坂を登ってくる。

 服装からして中学生のようだ。しめたと思った。


「ねぇ、君たち」


 近寄って声をかけると、中学生たちの顔には途端に警戒の色が走った。

 見知らぬ大人に話しかけられたのだから無理もない。「ごめんね」と微笑を顔に貼り付けて、名刺を取り出した。


「大丈夫、怪しい者じゃないの。ちょっと話を──」

「行こ!」


 中学生たちはやにわに駆け出した。呼び止める間もなかった。あっ、と放った声が虚しく地面に落ちて転がり、紬は名刺を手にしたまま道の真ん中に立ち尽くした。

 名刺を渡すどころか、一瞥しただけであの反応である。男の過敏な反応とどこか重なっている。

 ──何かが、おかしい。


(まさか)


 思わず見回した視線が、すぐそばのアパートの前に立てられていた掲示板にぶつかって止まった。行きに通った時には気付かなかったが、このあたりの自治会の掲示板のようだ。一枚の紙が貼ってある。何気なく近寄って、その文面に目を通した。




【このところ、報道関係者とみられる者の往来が、複数回確認されています。

 今後、記者等が皆様のお宅を訪問する可能性もあります。不審な人物に話を聞かれても、分からないことには決して答えないでください。

 引き取るように伝えても立ち去らない場合は、すみやかに警察へ通報してください。

 市立佐野中学校長 成瀬(なるせ)(いさむ)

 佐野町会会長 鹿沼(かぬま)悟郎(ごろう)




 紬は息を呑んだ。──これだ。このお触書があったから、自転車の男も中学生も逃げたのである。

 悪い予感は当たっていた。この一帯には、どうやら住民の手によって厳格な報道管制が敷かれている。しかもそこには自治会や学校までもが関与している。仙台支局に取材の履歴が残っていなかったのはそのためか。

 この地を覆っている闇は、紬の想像していた以上に暗く、深いのだ。


(どうなってんの……)


 思わず紬は後ずさった。今、この瞬間、()()()()()()強い敵意が向けられているのを悟ってしまった。舗装の粗末なアスファルトが紬の靴に踏まれ、じゃり、と何かの砕ける音が響いた。




 憎しみの刻み込まれた(あと)を塗りつぶすように、包み隠すように、山間(やまあい)の町は静まり返っていた。

 かつて起きたことのすべてに、頑固に口をつぐんだまま。








「もっと、もっと頑張らなきゃ──」


▶▶▶次回 『C.072 合奏一回目』

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