C.070 夏を見上げて
花音はいつになく上機嫌だった。
分解したクラリネットをケースに押し込む間も、先輩たちに頭を下げながら一足先に音楽室を出ても、廊下を歩きながらも、軽やかに鼻唄を奏でながら雛のような足取りで里緒の後ろをついてきた。半そでワイシャツの上に灰色のスクールベストを羽織った夏服姿の彼女は、里緒の目にはずいぶん眩しく映った。
「その、」
「んー?」
「ずっと聞きたかったんだけど……。どうして急にコンクールの練習なんか見学しようと思ったの?」
校舎を出たところで里緒は思いきって尋ねた。コンクール組の練習終わりは、午後七時。すでに真上の空は隅から隅まで藍色に染まり、駅前に立つ超高層マンションの屋上には航空障害灯の赤い灯火が燃えている。
花音は頭の後ろにカバンを提げた。
「里緒ちゃんがどんな練習してるのかなーって気になって!」
「わ、私が?」
「そうだよ?」
「見学をお願いする時、『滝川せんぱいの指導風景が見たいんです!』って言ってたような……」
「ウソに決まってるじゃん! そう言ったら見学させてもらえるかもよって、部長に教えてもらったんだー」
里緒は言葉を失った。
はじめ直々の入れ知恵とは恐れ入った。それで今日、滝川先輩のテンションも高かったのか──。気味が悪いほどニコニコしながら饒舌に褒めて回っていた今日の菊乃を思い返し、何とも言えない失意の感情を里緒はぐっと喉の奥へ落とし込んだ。なんだ、別に里緒たちが上達したからではなかったのだ。
「なんかさ、〈『天地人』〉とか野球の応援の練習やってる時とは、ずいぶん雰囲気が違うんだね」
追い付いてきた花音が隣に並んだ。
「五十九小節目のとこばっかり何度も何度も繰り返し吹いてたけど、あれ、何だったの?」
「ああ……。えっと、あれ、cad.だから」
「あー! なんかイタリア料理みたいな名前のやつ! それって何だっけ」
「日本語だと即興的独奏っていうのかな。音符は指定されてるんだけど、テンポとか吹き方とかは奏者がある程度、自由に決めていいの」
「へぇー……。なんか簡単そう」
「そ、そんなことないよ。奏者がそれまでの部分の雰囲気とか流れをちゃんと読み取れてないと、その、曲を台無しにしちゃうから」
「だから何度も吹いてたんだ。……そっかー、やっぱ独奏を務めるのって難しいんだなぁ」
うん、とうなずいて、また少し歩を進めた。
里緒の静かな靴音に、花音の賑やかな靴音が重なる。テンポの違う二つの音、二つの鼓動、だけど歩く早さはどちらも同じ。里緒にはその小さな差異が、自分と花音の間に横たわる静かな距離感の暗示のように感じられた。
国分寺駅行きのバスが目の前を通過していった。吹き付けた風が生暖かくて、慌てて反対のほうを向いて呼吸に励む。「あとさー」と愉快そうに自分の話を再開した花音の制服の腕には、うっすらとにじむ汗で肌色がわずかに透けていた。夏服。遅い日没。それと、厳しい日射の熱を蒸気でくるんでなだめたような、穏やかな暑さの残り香。
もうじき季節が替わるのだ。
あの高くて暗い空の向こうから、里緒にとって十六度目の夏が訪れようとしている。
(今年こそは、もう悲しい思いで夏を迎えるようなことにはなりたくない)
花音には見えない方の手で握ったクラリネットのケースを、里緒はスカート越しの足にそっと押し当てて、祈った。もちろん祈ったところで、すべては里緒の今後しだい。涙の夏になるか、笑顔の夏になるかは、誰でもない自分自身の生き方にかかっている。そのこともわきまえているつもりだった。
駅へと続く商店街は帰宅客で混んでいた。うっかりしていると、向こうから来た人にぶつかってしまいそうだ。こんな近くで見失うはずはないと思いつつ、うきうきと勝手に歩いていってしまう花音の背中を、見失わないように追いかけて歩いた。
と──。花音の歩が、止まった。
「わわ!」
びっくりした、追突するところだった。無様な悲鳴を上げて里緒が立ち止まったのと、「ねぇ」と花音が問いかけの言葉を放ってきたのは、ほとんど同時のことだった。
「里緒ちゃん」
「……う、うん」
「管弦楽部、楽しい?」
里緒は言葉に詰まった。問いに対する答えもさることながら、花音が突然そんなことを尋ねた意図に見当がつかなかった。
「最近、音楽室にいるときの里緒ちゃんが、あんまり楽しそうに見えなくて」
振り向いた花音が、一歩ばかり里緒に歩み寄る。鼻唄を歌っていた頃の明るさはどこへやら、その面持ちは隅々まで神妙だった。
「その、居づらさっていうのかな、そういうの感じてたらどうしようって思って。私でもなんとかできることがあるなら、力になってあげたいから」
「…………」
里緒にはすぐには答えず、いつもの癖で視線をそらした。花音が急に練習の見学を申し出てきた理由に、なんとなく察しがついた気がしたから。
美琴や舞香や真綾や、ほかにもたくさんの見知った顔が、瞬間的に脳裏をよぎってゆく。そうか、青柳さんの目に私はそんな風に見えているんだ──。おかげでいくらか自分を客観視できたような気分になった。
それから改めて、首を振った。
「楽しくないなんてこと、ないよ」
「ほんと?」
「うん」
だって、里緒の得意なことなんてクラリネットくらいしかない。それ以外の楽しみなんて、何もないから。
花音の目付きは不安げだった。それが花音の不安を拭う言葉ではないのを分かっていながら、里緒は「ただ」と続けた。
「最近、前よりも練習がきついなって感じる機会が多くって、だから勘違いさせちゃったのかな」
「え、それじゃやっぱり……!」
「きついのは当たり前なの。私、応援練習もうまく行ってないのにコンクール組にも選ばれちゃったし、独奏だし、そのくせ立川音楽まつりの演奏は台無しにしちゃったし……。だから今、周りの信頼を取り戻す気で頑張ってるつもりではいるんだけど」
この感慨を一言で表すなら、そう──“焦燥感”。その三字熟語があれば、いまの里緒が管弦楽部に向き合う姿勢はすべて説明し尽くせるように思えた。
実際は花音の言う通りなのだ。正直に言って居づらいし、本当は美琴や舞香のことが怖い。自分を疎んでいる人、触れてはいけない人のように思えて、近付くことをためらってしまう。けれどもそれが事実だとしても、花音には知られなくていい。むしろ知らないままでいてほしいとさえ思った。
スカートの裾を握りしめた花音が叫ぶように訴えかけた。
「台無しなんて、そんな悲しいこと言わないでよ。私は立川音楽まつり成功だったって思ってるし、はじめ先輩もそう言ってたし、みんなだってミスだなんて……」
「ミスだよ」
「み、ミスだとしたって里緒ちゃんは信頼を失ってなんかいないもん。だから独奏を任されてるんだし、それは滝川せんぱいたちが里緒ちゃんを評価してることの裏返しだしっ」
「そうじゃないよ。……私にはクラリネットしかないから、クラリネットの居場所を分けてくれてるだけ」
現に、ピアノの弾ける美琴は独奏クラリネットから外れている。うつむきながら里緒は言い切った。口を開きかけた花音だったが、ついに反論を口にすることなく、ふたたび唇を縫い合わせてしまった。
買い物客や帰宅する人々の往来する賑わいの狭間に、気まずい沈黙で結ばれた夏服の女子高生が二人、取り残されている。さして暑くもないのに汗ばんで、里緒はシャツの中で身を縮めた。こういう沈黙に陥るたび、続けるべき話題が見つからなくて困る。
焦るあまりに身体が浮き上がりそうになった瞬間、ようやく花音が唇を解放した。
「ね、里緒ちゃん」
「……うん」
「私は里緒ちゃんの味方だからね。何があっても、演奏うまくいかなくても、味方でいる。だって、一番の友達を名乗ってる花音様だもん」
──だから、信じてよ。
そう続けたわけではなかったが、代わりに花音は手を差し出した。年相応の小さな、しかし里緒よりも心なしか肉付きのよい手。指。里緒の手に触れ合うのを、今か今かと待ち受けている。
ね、と花音は畳み掛けた。
「クラリネットはひとりぼっちの楽器なんかじゃないよ」
その一言が里緒の中でどんな化学変化を起こしたのかは、里緒自身にも分からない。
ただ、それからいくら時間が無駄に過ぎようとも、里緒にはとうとう花音の手を握り返すことができなかった。
「どうなってんの……」
▶▶▶次回 『C.071 潜入取材』