C.069 もてあそぶ願いの姿
金曜日の四時間目は音楽である。
朝から続いてきた授業の疲労が靄のごとく立ち込める音楽室には、いま、風変わりなクラシックの演奏が流れていた。主旋律も電子音、低音も電子音、打楽器も電子音。とにかく普通の楽器の音色が聴こえない。
紅良は発表用の原稿を譜面台に置いて、一枚のCDをかざした。
一学期の成績評価の半分は音楽に関する自由発表で行われることになっている。今日は、紅良の発表の番だった。
「──というわけでホルストの死後も、遺族はホルストの作品を改編することに前向きではありませんでした。その壁を世界で初めて打ち破ったのが、お聴きいただいているこの曲です。冨田勲・プラズマシンフォニーオーケストラ演奏〈惑星〉。発表当時は大変話題を呼び、シンセサイザーの曲であるにもかかわらず、かの有名な米ビルボードのクラシックチャートで一位にランクインしてしまいました」
何人かのクラスメートたちが、興味深げに目を見開いた。相変わらず珍妙な電子音の集合体がスピーカーから放たれているが、今や、その旋律が著名なクラシック曲〈組曲惑星より『木星』〉のものであることに、疑問を持っている生徒は誰もいないはずだった。
勝利の確信が胸の奥で快感に変わった。これだけばっちり聴衆の興味を引いておけば、発表の評価は満点に違いない。しかしそれはおくびにも出さず、紅良は平然とした顔で発表を続ける。
「もう亡くなってしまわれましたが、冨田勲氏は世界的に高名なシンセサイザー奏者です。しかしお聴きいただけば分かるように、この曲はカバーとか編曲というよりも“極めてよく似た別の曲”。実際、原曲にはないストーリー性の付加がなされているなど、もはや編曲の範囲を大きく逸脱していると言われます。ホルストの遺族との間でどういった交渉が行われたのかは不明ですが、おそらく関係者は遺族を口説くのにたいへん苦労したはずです。──こことかすごくありませんか」
スピーカーを見上げた瞬間、ラジオのノイズのような音が立て続けに音楽室中に響き渡った。無論、曲の一部である。
並ぶ席の端で「雑音じゃん!」と花音が突っ込んだ。何人ものクラスメートが釣られて口の緊張を崩したが、やがて音階を無理やり整えられたノイズが主旋律に合流して、その下品な笑みは瞬く間に感心の顔に置き換わった。
音色を楽しむために作られていないはずの雑音が、音楽を成している。誰かの耳に心地よい余韻を刻んでいる。それこそがこの曲の真価であり、興味深いところだと、紅良は思う。
分かってもらえてよかった。少し、口の片隅に笑みがこぼれた。
「この曲を皮切りに、世界各地でさまざまなカバーが行われ始めました。もちろん現在ではホルストの死後五十年が経過し、著作権も失効しています。日本では遊佐未森や本多美奈子.、平原綾香などが有名ですが──」
話しながら、原稿を手に辺りを見回した。もうじき発表も終わりそうだ。
京士郎はピアノに寄り掛かったまま、しきりに指揮棒をいじくり回している。あれでも彼なりに興味を持って耳を傾けている姿勢のようだった。楽器初めから二か月以上が経った今も、彼の“変わり者”という印象は拭えていない。
いまや花音はすっかり夢中の表情で聴き入っていた。つばさと翠は小声で何事かを話しながら、しかし視線は宙に吊るされたスピーカーに釘付けになっていた。
里緒は、──眠っていた。もう十分以上も前から机に突っ伏したままだ。たしか、前の人が発表していた時も寝ていた。机から転げ落ちた筆箱とファイルが、薄暗い足元に仲良く並んでいる。
(あれじゃ、曲も聴こえてないだろうな)
ほんの少しばかり落胆しつつ、しかしわざわざ起こしたいとも思わず、紅良はそっと里緒から視線を外した。
よほど部活が忙しいのか、近頃の里緒は授業中の睡眠が格段に多くなっていた。コンクールに向けての練習が本格始動して、きっと睡眠時間も削られているのだろう。少なくとも花音からはそう聞かされた。今日も今日とて、二時間目の倫理の授業では最初から最後まで寝息を立てていたし、昨日は六時間目の体育さえ、二重のまぶたをこじ開けながらふらふらと球を追い掛けていた。
原稿の終わりまで読み上げ終えると、都合よく曲の再生も終わった。機器のスイッチを押して再生を止め、紅良は一礼した。
「──これで『“木星”に見る、楽曲の著作権管理とカバーについて』の発表を終わります」
たちまち紅良は拍手に包まれた。京士郎が寄り掛かっていたピアノから身を起こし、小さく首肯した。
「うん、面白い発表だった。非常によくまとまっていた」
「ありがとうございます」
「著作権の問題は音楽文化には常に付き物だからね。君たちも他人事と思わずに知っておくといい。……さて、せっかくだから誰かに感想を聞きたいんだけども」
途端、生徒たちはいっせいに顔を強張らせた。いつもの流れなら、ここで強制的に当てられた誰かが感想を言わされる。発表が終わった後の恒例イベントの到来である。
京士郎は獲物を見定めるように目を細め、居並ぶ生徒たちの姿を眺め回す。発表者の紅良にとってはあまり気分のいい時間ではなかった。嫌々な感想を聞かされるくらいなら、何も聞かなくていいと思ってしまうのだけれど。
京士郎の目が留まった。
「ずいぶん変わった姿勢で発表を嗜んでいたみたいだな、高松くん」
「んぅ……?」
名前を呼ばれたのは里緒だった。寝ぼけ眼の少女がふらふらと顔を持ち上げるさまに、周囲の子たちが耐えきれなくなったように噴き出した。自分が笑い者になっていることに、ものの数秒で里緒自身も勘づいた。
「うわわっ! ご、ごめんなさい! 私てっきりっ」
「西元くんの発表は?」
「……聞いてなかったです」
せっかく面白い曲だったのになー、などと聞こえよがしに隣の子たちが騒ぐ。青色にも赤色にもなりきれない顔を両手に埋め、里緒はいよいよ肩を狭めて小さくなる。
今、あの心のなかでは、どれほどの自己嫌悪と自罰感情が渦を巻いていることだろう。
(ま……、私も高松さんの寝姿を拝ませてもらってたわけだし)
紅良には不思議と悪い気はしなかった。これが花音の仕業だったら、もう少し普通に腹を立てていた気がした。
「西元さん、私──」
「聴きたかったらあとで聴かせてあげる」
CDを振りかざして笑顔を作ると、ほっとしたように里緒は首をすくめた。あの仕草も、この仕草も、実に普段の里緒らしさにあふれて見えた。
「ほう。そんなに面白かったなら感想が言えるな。君と君とそこの君、立ち上がって」
「えーっ! ずるいです! 誘導尋問です!」
「君たちが勝手に『面白い曲だったのに』と言ったんだ。はい、立った立った」
里緒を茶化した数人が、京士郎の思わぬ手管に巻かれている。落としてしまっていた筆箱やファイルを拾ってもらい、里緒も困ったように笑っている。ひとまずリラックスしたその横顔に、紅良は深呼吸をひとつして、丸めた原稿をほんの軽く握りしめた。
結局、里緒には立川音楽まつりのことを話せなかった。フォローを入れるやり方が分からなくて、そっとしておく道を選んでしまった。
管弦楽部員でない紅良にとって、里緒と関わることができるのはほんのわずかな授業の時間だけ。せめてその間くらいは、里緒にも気を安らかにしていてほしいものだと思う。
休む時は休んで、練習の時間はちゃんと練習に励めるように。もう、するはずのないミスで心を痛めずとも済むように。
(高松さんには潰れてもらっちゃ困るんだから)
里緒の目には決して触れることのない場所で、紅良は今日も淡色の願いをもてあそぶ。
それは決して、里緒が優れたクラリネット奏者だからではない。──彼女がたったひとり、誰とも相容れなかった紅良の価値観に触れようとしてくれた人だったからだ。
「……私にはクラリネットしかないから、クラリネットの居場所を分けてくれてるだけ」
▶▶▶次回 『C.070 夏を見上げて』