C.068 計略
花音はコンクールが嫌いになった。
──別に、コンクールが悪いのでも曲が気に入らないのでもない。あの忌々しいコンクールの練習が花音から里緒を奪っていったから、嫌いになった。ただそれだけのことである。言いがかりにも等しい自覚はあったのだけれど、ほかに鬱憤の晴らしようもなかったので、とりあえずコンクールを悪者にしておくことに決め込んだのだ。
今日も今日とて、里緒は解散の時間を過ぎても音楽室に居残りをさせられている。
──『またコンクール練?』
尋ねると、彼女は細い首をこくんと垂れた。
──『うん』
──『昨日も一昨日もだったじゃんー。一日くらい休みはないの?』
──『……ごめんなさい』
謝られてしまった。『毎日』という意味の返事だったのだろうと花音は解釈した。
あの練習のせいで、ここのところちっとも里緒と一緒に帰れていない。里緒とはしゃいだり話したりする機会を不当に減らされている。そんなわけで、今日の花音はとびきりの不機嫌であった。帰りがけの部長と副部長を駅前で見かけ、愚痴の相手にしようと思って呼び止めてしまうくらいには。
「高松を奪われた?」
はじめは花音の話に耳を傾けるのもそこそこに、スマホへ目を落としながら手元のペットボトルを器用に開封して飲み始めた。花音はますます憤慨した。軽んじられている!
「基本的に練習は自由参加だっていう話だったじゃないですかっ。それなのに里緒ちゃんとか、あと緋菜とか小萌ちゃんとかのこと、任意参加の練習に拘束するのっていけないことなんじゃないんですかっ」
「すごい。あの青柳さんが難しい言葉使って論理的な議論を挑んできてる」
「上福岡せんぱいまでバカにしないでくださいーっ!」
コンコースに続く数段の階段を登りきった副部長は、「ごめんごめん」と笑って花音の背中を叩いた。北口駅ビルの明るい喧騒が三人を包み込む。幼気な子どもをあやすような彼の目付きは、隣でペットボトルに蓋をするはじめの沈黙に従って次第に冷静になった。
「一応、コンクール組は自主的な活動だから、僕らはあまり介入しないようにしてるんだけど……。そんなに高松さんたち、参加したくなさそうにしてる?」
「他の二人は分かんないですけど、里緒ちゃんは絶対そうです」
花音は即座に断言した。遠慮がちな里緒のことだ、本人の口からこんなことは言えまい。この花音様が、里緒の代わりに里緒の自由や権利を守ってあげねばならない。誰がなんと言おうと、花音は里緒の利益代弁者なのである。
「いっつも練習中にコンクール組に呼ばれていくんですけど、表情ちっとも明るくないし元気ないし。音“楽”なんだから楽しくやる、っていうのが管弦楽部のモットーだって言ってましたよね? イヤイヤ参加させられてるんなら、それってやっぱり、ダメなことなんじゃないかなって思いますっ」
部長や副部長から『居残りの強制はダメ』だとはっきり伝えてもらえれば、解放された里緒はきっと花音のもとに来てくれる。そしたら、一緒に帰れるんだ──。そんな自分本位の打算も込みできっぱり言い切ると、洸は頼りなげに隣のはじめへ視線を流した。
「どう思う」
「何が?」
「高松さんがコンクール組にイヤイヤ参加させられてるのかどうか。僕は弦セクだから高松さんの日常風景を見てないし、判断しようがない」
改札が迫ってきた。ペットボトルをカバンに入れ、はじめは勢いよくファスナーを閉めた。周波数の低い音が響き渡って、そこへ彼女の低い声が重なった。
「私も、高松はコンクール組のところには行きたがってないと思う。苦手意識がありそうに見える」
「だったら──」
「だけど苦手意識を持ってるのはそれだけではないんじゃないかな。多分、部活そのものにも、コンクールに無関係な他の部員にも持ってる」
え、と花音は言葉を詰まらせた。はじめは花音の方を見ないまま尋ねた。
「立川音楽まつりの次の日、あの子が部活前に謝ろうとしたって話は、誰かから聞いた?」
その日はトイレに行っていて入室が遅れたのだ。「き、聞いてないです」と花音は首を振った。謝罪──?
「音を外したって言ってたのは覚えてるでしょ」
「そっちは覚えてますけど……」
「立川音楽まつりの件、あの様子だとまだけっこう引きずってると思うよ。大したミスじゃないって何度言っても、ちっとも受け入れてくれない。そうとう周りの反応を気にしてる。顔に出るレベルで居心地の悪さを感じていてもおかしくないと思うし、たぶん、本当にあの子はそれを感じてる」
「言えてるかもな」
洸が呼応してうつむいた。
「えらく凹んでたもんな、高松さん。私のミスで台無しにした……って」
予想外の急所を突かれた気分だった。花音自身はすっかり否定した気になっていたのだ。里緒はミスなんてしていない、していたとしたって気に病む必要性のあるようなミスではないと。
「じゃ、じゃあ私がもっと言います! あんなのミスのうちに入らないよって!」
「青柳がそれを言って、高松は聞き耳を持ってくれるの?」
「……たぶん」
「何にせよ、もう少し適当に肩の力抜いていた方が、高松は奏者として伸びる気がするけどね」
嘆息したはじめが、これで解決したか、とばかりに花音を見下ろす。花音はすっかり返事に困って立ち尽くした。
コンクールの練習を嫌がっているから暗い顔ばかり見せているのかと思っていたのに、これでは議論の前提がまるっきり変わってしまう。
「……で、でも、コンクール組の練習で大変な思いをしてるのは、たぶん本当なんです」
結局、花音は食い下がることを選んだ。里緒のためにも自分のためにも、ここで折れるわけにはいかないと思った。
「前に何度か相談されました。演奏する曲のイメージが分からない、一緒に考えてって。部長と副部長なら知ってますよね。里緒ちゃん、ソロやるんですよ。入ったばっかりの一年生なのに独りで演奏するんですよ」
思いつくままに違和感を並べ立てていくと、はじめと洸の顔付きは今度こそ暗くなった。洸が、言葉を濁しながら口を挟んだ。
「あー……。いや、青柳さんの言いたいことも分かるよ。三年の間でもさ、そのへんの見解は分かれてるんだ。人選とか練習計画が強引じゃないかとか、」
「ちょっと」
はじめの制止が入った。何やら一年が聞いてはいけないことを口にしてしまったらしい。
悪い、と小声で洸が詫びを入れる。それを聞き届けてから、はじめは次に花音を見た。
「コンクール組の内情、そんなに気になる?」
「気になります!」
花音は即答した。里緒がどんな具合に練習しているのか、雰囲気はどうなのか、里緒の第一の理解者でいるためにも知っておきたいから。
「でも私、コンクール組じゃないから、練習には加われないし……」
「見学させてもらえばいいでしょ。別にアレ、関係者以外には非公開ってわけじゃないよ」
「できるんですか?」
「簡単だよ。滝川をおだてればいいの。『先輩の素晴らしい練習が見たいんです!』とか何とか。きっとすぐに喜んで練習を見せてくれる」
なるほど、名案であった。菊乃はそういう称賛には弱そうだ。
「策士ですね、部長」
笑うと、はじめも不敵に笑い返した。
「後輩の扱い方くらい知ってなきゃね」
「えへへ、頼りになりますー」
甘えた口調で応じながら、頭の隅で決行の日取りを考えた。明日、さっそく実行に移してやろう。里緒が過負荷に晒されていないか、この目で確と見極めてやるのだ。事と次第によってはコンクールのことも嫌いにならないでやってもいい。
(そしたらついでに里緒ちゃんとも一緒に帰れるし、一石二鳥だ!)
にやにや笑いを抑えきれなくなった花音の隣で、蚊帳の外に取り残された洸が気まずそうに咳払いをした。
「高松さんには潰れてもらっちゃ困るんだから」
▶▶▶次回 『C.069 もてあそぶ願いの姿』