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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第三楽章 不協和音の波に打たれて
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C.067 孤独な練習

 




 十人ものメンバーを(よう)するとはいえ、コンクール組は管弦楽部のメインの活動とは言いがたい。日頃の練習は原則として、応援演奏の練習が優先である。

 菊乃の飛ばす(げき)に尻を叩かれる日々が、管弦楽部をふたたび飲み込んだ。


『八番のとこ、もっときちんと音を合わせないと! 特にペット! 入りのタイミング八分の一拍子くらいずれてたでしょっ。大きい音で目立つからって怯まないで!』

『うーん、〈『天地人』〉の時からそうだったけど、白石ちゃんの課題はやっぱ指使いだな。運指表は頭に入ってそうだけど、こう、フルートのキイの構造がまだ理解しきれてない感じがする。自覚ある?』

『こないだも言ったけど七十三番のクレッシェンド、ただ音をでっかくしたってダメだからね! そんなんじゃ、屋外の球場で吹いたら拡散しちゃって聴こえないよ!』

『ちょっと三原、さっき二十四番のところ適当に吹いて誤魔化したでしょ! そこ、何がなんでも暗譜しといてよ! 本番じゃ譜面台は使えないんだから!』

『本庄さん、ペットの高音大丈夫ですか? 昨日くらいからずいぶん(りき)んでるように感じるんですけど!』

『はじめ先輩、BからCまでの部分の指揮はもうちょっと緩急があるといいと思います! せっかくの金管の迫力を勢いの遅さで相殺しちゃってる気がするんで!』


 ──相変わらずの滝川節である。立川音楽まつりの時と違うのは、セクション練習を大幅に省略して合奏に練習の軸足を置いていることと、三年生も演奏に加わっていること。そしてその三年生に対しても、菊乃は臆することなく指摘を投げ掛けていた。三年生たちも文句を言わずに応じていた。菊乃(かのじょ)の目の付け所の鋭さを分かっているから、抵抗のしようがないのだろう。

 しかし過酷な練習であることに変わりはない。

 練習の合間の休憩時間はふたたび、過酷な練習への愚痴の場と化した。




「あーもー! 暑い! しんどい!」


 フルートを机上に放り出した舞香が大声で叫べば、ぐったりとした様子の真綾が隣に腰かけて息を漏らした。


「『その声量が出せるなら演奏で出して!』って言われちゃうよ、舞香」

「まいまい普段からそれなりに声大きいしねー」

「うるさい。花音には言われたくない」


 机に両腕を放り出した花音が、えへへー、と舞香の反撃に笑った。その向こうには力なくスマホや楽譜に目を落とすサックスの二人の姿がある。やっぱり一年生のなかで元気があるのは花音だけだったが、その花音にしても額に大粒の汗を光らせていた。いよいよ夏本番、吹奏楽や管弦楽にとって最も過酷な季節が到来したのを感じさせる光景だった。

 少し離れた場所の席に腰掛け、里緒は指をいじりながら一年生たちの会話に聞き入っていた。


(……私も、暑いや)


 静かに嘆息した。暑いと口にするから暑く感じるのだと聞いたことがあるけれど、どう誤魔化したって暑いものは暑いし、素直に暑いと叫びたい。だが、あの輪の中にすんなり入っていくことなどできるはずもなく、だからといって二年生や三年生に混じるわけにもいかなくて、くたびれた両手の指を無意味に揉んでみる。

 ぽきん、と骨が快い音を立てた。

 手が自然とカバンに引き寄せられた。

 手持ち無沙汰なのは嫌いだ。音楽プレーヤーを取り出そうか、それともやめるか。少し迷ったが、やめた。隙あらば〈クラリネット協奏曲〉を聴き込んでイメージを固めておきたいところなのだけれど、何もわざわざ部の仲間がいる前で聴くこともないと思った。

 楽譜もちっとも覚えらんないしー、などと真綾が(なげ)いている。だらけながらも仲良さげに集まる彼女たちの声に、


(きっと私がこういう振る舞いばっかりしてるから、白石さんたちとの距離だって余計に開いちゃうのに)


 なんて、思った。

 本当のところは知らない。もしかすると全く違うところに原因があるのかもしれない。だが、かすれた声で談笑する舞香や花音たちの姿を見つめるたび、彼女らの背中や顔は走水のように遠く、遠く、里緒の手の届かないところへ離れていってしまう。その残酷な感覚を里緒は確かに感じ取っていた。

 せめて舞台上で隣に立っていても意識しないですむくらい、仲を回復させられたらいいのに。

 そう、口には出さないけれど思うのだ。少なくとも里緒の側だけは、彼女たちに余計な苦手意識を持たないで済むようになりたいと願っていたかった。

 不意にばたばたと廊下を歩く音が耳へ届いた。どこかへ姿を消していた菊乃たち二年生が、おーい、と教室の入り口から里緒に向かって手招きをし始めた。


「高松ちゃーん」


 花音がこちらを振り向いた。嫌な予感を覚えながら立ち上がると、菊乃は楽譜の束を取り出して振りかざした。


「休憩中で悪いんだけどさ、コンクール組ちょっと集まってほしいの! 十五分で終わるからー」

「……はい」


 またか、と思った。十五分も経てば休憩も終わってしまうではないか──。心に浮かんだ不平はとうとう声にならなくて、おとなしく〈クラリネット協奏曲〉の楽譜とA管を手にして扉へ向かった。行ってらっしゃーい、と花音が控えめな声を投げてくれた。


「練習、多いね」

「うん」


 里緒には曖昧に笑い返すことしかできなかった。他の一年生たちからの(ねぎら)いの言葉は、もちろん、なかった。






 クラリネット、フルート、ファゴット、ホルン、それに弦楽器とピアノ。せいぜい八種類ほどの楽器しか参加しない今回の〈クラリネット協奏曲〉は、練習の管理という面ではそれほど困難を抱えてはいなかった。セクションごとの練習を行う必要がないからだ。各楽器パートごとの練習で演奏技能を上げ、それらを全体練習で周囲のパートや曲全体に合わせて調整する。里緒たちはただ、本番に向けてその二つを無数に反復すればよいのである。


 ──『うん、楽譜通りに吹くのは問題ないね。みんなきちんと譜読みして来てくれててよかった!』


 初回の練習で全員に自身のパートを演奏させ、その出来を確認した菊乃は微笑んだ。及第点に達していたらしい。当たり前でしょ、と恵が胸を張っていた。


 ──『だってそんなに難しい曲じゃないしっ』


 そう。〈クラリネット協奏曲〉、とりわけ第二楽章は、独奏(ソロ)のクラリネットにとっても伴奏を務める他の楽器にしても、スローテンポで音符や指示記号の少ない簡単な曲なのである。

 菊乃は里緒のこともしっかり褒めてくれた。


 ──『やっぱ高松ちゃん上手いよね! 音量はイマイチだけど、音程は文句のつけようがないくらい正確! 抜擢して正解だった!』

 ──『なんなら音量ないくらいの方がいいかもよ、この曲。音量なんて最悪マイクで拾えばどうとでもなるでしょ』

 ──『マイ楽器のA(クラ)なんだし、本領発揮って感じ?』


 立川音楽まつりの時とは真逆の待遇である。褒められすぎて気味が悪いくらいだった。入部したばかりの頃もこうしてベタ褒めに(あずか)っていたのを思い返しつつ、ほどほどに返事も返しながら、里緒は全長九十センチの相棒を(ひそ)かに握りしめた。

 楽観視する気にはなれなかった。()()()()()簡単だからって、()()()簡単なわけではないから。


(むしろ簡単であればあるほど、(ソロ)の表現力が問われることになる)


 協奏曲の味をつけるのは独奏者(ソリスト)の役目。里緒の失敗やミスは、今度こそ全体の出来に波及する。手探りで進められる日々の練習のなかでも、そのことだけは忘れないようにしなければならない。独奏(ソロ)パートを引き受ける者の覚悟を深く刻むつもりで、毎日、毎日、イヤホンの中の〈クラリネット協奏曲〉と向き合った。

 曲のイメージが決められないでいることも、その日のうちに菊乃に白状してしまった。それってそんなに重要なのかとでも言わんばかりの顔をされたので、説明した。里緒の練習スタイルにとっては大事なことなのだと。


 ──『んー、でもそういうのってさ、ゆっくり時間かけて見つけていけばいいことだと思うな。合奏やってみて曲作りが噛み合わなかったらその時に悩めばいいし、焦る必要はないよ』

 ──『そ、そうでしょうか……』

 ──『あたしだってまだ、この曲のイメージがはっきりしてるわけじゃないもん。めっちゃ優しい曲だなー、くらい』


 なんとも言えず危機感のないリーダーを前にして、里緒は暗澹(あんたん)とした気持ちになった。曲のイメージを明確に持つのは大切なことのはず。特に指揮者や独奏(ソロ)楽器の奏者には、その努力は欠かせない。

 最後には菊乃も理解を示してくれた。


 ──『ま、高松ちゃんが必要だっていうなら早めに探していかないとね。なる早で解決すべき、課題のひとつってことにしようか』


 はい、と里緒はうつむいた。

 そうでなくても山積みの課題が、()()増えた。






 初めての音合わせ、つまり合奏は六月十一日に行うことに決まっていた。それまでの間の練習はもっぱら、各パート内で音を合わせることに捧げられた。ソロパートのクラリネットはともかく、ヴァイオリンやファゴットには複数の奏者がいる。各自がてんでばらばらに演奏しては、まともに音の粒が揃ってくれない。なので当然、この段階から菊乃の指摘や助言が容赦なく突っ込まれる。

 今日はファゴットの二人が指摘を食らっていた。


「ヤッシーと藤枝ちゃんはどうも息が合ってないなぁ」


 どきりとして里緒が振り返ると、声の主は菊乃だった。一抱え以上もある巨大な二本の木管楽器のあいだに首を突っ込み、彼女は譜面の一角を指差していた。


「ここの盛り上がるところ、藤枝ちゃんがちょっと遅いんじゃないかな。あと音量もアンバランス過ぎるかも」

「あー、それ俺たちの方でもちょっと話してたんだけどさ、音量に関しては勘弁してくれないか。緋菜っちと俺じゃ、流せる息の量が違いすぎるから」

「うーん、そういうもんかな……。藤枝ちゃん、直前に息継ぎ(ブレス)してるのってどこ?」

「あ、えっと……ここです」


 指をキイから離した里緒は、伺い知れないようにそっと目線を持ち上げた。ちょうど、緋菜が示した場所を残りの二人が覗き込んだところだった。肩が近い。今にも触れ合いそうなファゴットたちの距離感に、普段の彼らの間柄がありありと見て取れる。

 二年の八代智秋と、それから一年の緋菜。ともに普段は低音セクション所属のメンバーである。木管セクションにこもりきりの里緒にとっては、なんとも新鮮な練習風景だった。


(仲良さそう)


 心の奥が、ぽっと熱くなった。それが羨望だったのかどうかは定かではない。

 楽譜をめくるふりをして、一年生や三年生の姿の減った音楽室を見渡してみる。弦楽セクションのヴァイオリンやヴィオラ、チェロ、金管セクションのホルンなんかの姿が伺えた。打楽器(パーカッション)を欠いてはいるが、まさに複数セクション横断の練習風景である。

 私の知らない光景とか関係が、この部にはまだ、こんなにあったんだな──。

 ぼんやりと目線を(ほう)っていると、急に菊乃の顔が視界に飛び込んできた。たまらず里緒はのけ()った。


「うひゃあ!」

「心ここにあらずになってるー」

「ふぁ、ファゴットパートの方は、大丈夫だったんですか」

「音量の件は妥協した。けど、盛り上がりのずれは直してもらうつもり」


 鋭く笑った菊乃のフルートが、こつん、と里緒の譜面台に当たって音を立てた。以前の練習で菊乃に貼られた付箋が、その衝撃で軽く揺れた。


「イメージ、そろそろ決められた?」


 里緒は言葉に詰まった。


「それが、その……。モーツァルトの楽曲解説とかも読んでるんですけど……」

「うーん。やっぱり難しいか」


 菊乃の声色は明るくない。とりたてて暗いわけでもないのだが、里緒は本能的に椅子の上で小さくなった。


「読んだ本には何て書いてあったの?」

「“優美な曲調でありながら、耐えがたい悲しみが満ちている”とか。悲しいのか悲しくないのか、その、よく分からなくて」

「評論家って遠回しな表現するよなぁー。あたし、その手の解説本あんまり好きじゃない」


 不快そうに肩を回した菊乃が、何気ないそぶりでピアノの方を見やった。


「なんか、あの子はもう見つけてるみたいだけどね。そういうの」


 ピアノ台に腰掛けているのは美琴であった。クラリネットを手にしている時とは違い、うねるように、のめり込むように、ピアノに半身を沈めながら両手で鍵盤を弾いている。音量こそ弱音(シフト)ペダルに抑えられているものの、きっと本気を出せば、里緒のクラリネットなど簡単に上回る音量でステージを圧倒することができるだろう。

 手元の動きに迷いは見られない。それはつまり、自分の紡ぐメロディの方向性を、美琴自身がきちんと把握しているということ。

 里緒はちょっぴり視線を下げた。


「……私も、あんな風に迷いなく吹けたらいいんですけど」

「あの子のピアノ、ちゃんと聴いたことある?」

「あの、確か弾いてましたよね。前の定期演奏会のとき」

「〈ルート66〉でしょ? そうそう! もうね、めっちゃカッコいいんだよ美琴のピアノ。むかしピアノ教室に通ってたこともあったんだって。クラリネットも似合うけどピアノも似合うんだよなー」


 いつになく菊乃の瞳は無邪気にきらめいている。躍動する美琴の腕はほっそりとして長く、美しい。並ぶ鍵盤に指を繰り出す姿は、確かに(さま)になっていた。

 見とれていると、菊乃の笑顔がいたずらっぽく歪んだ。


「美琴に振ってみたら? 曲のイメージの話」


 美琴と里緒の間に横たわる峡谷の深さを知っているうえで言っているのだとしたら、この先輩は相当な意地悪だ。とっさに返事を返せなかった里緒の耳に、菊乃は「焦んなくていいからね」とだけ囁いて、フルートを手に自分の譜面台の方へ戻っていってしまった。

 やっぱり菊乃には自分の苦悶は伝わっていない気がした。


(でも、茨木先輩が怖くて聞きに行けないですって伝えるのも、なんか違う気がするし……)


 そんなことよりも自分のパートだ。白金(プラチナ)色の輝きをちらつかせるフルートを目で追うのをやめ、里緒は眼前の譜面台を握って角度を整えた。

【しっかり合わせてこう!】

 丸っこい字の書かれた付箋が、今にも剥がれ落ちそうに揺れた。








「後輩の扱い方くらい知ってなきゃね」


▶▶▶次回 『C.068 計略』

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