C.066 コンクール組の進み方
部活に向かう心の準備はちっとも進まなかった。
謝るべきか、そこまでしなくとも慎ましく練習に励むべきか。六時間目の授業が終わる時間になってもついぞ結論を出すことができず、放課後を迎えた里緒はクラリネットのケースを片手に、とぼとぼと音楽室へ向かった。
立川音楽まつり終了後、初めての部活である。
かつて、こんなに重たい心を抱えながら、音楽室の扉に手をかけたことはなかった。
「…………」
いやだな、と愚痴りたくなるのをこらえて、里緒はケースでふさがっていない方の手で扉を引き開けた。いやだと思う原因を作ってしまったのは、自分。言い訳の余地なんてないのだから。
そっと引き開けたつもりだったのに、地鳴りのような音が派手に廊下に反響した。
「あ」とつぶやく声が転がった。音楽室を満たしていた雑談や雑踏が、その一瞬、しんと不気味な静寂を作って里緒の細い体躯を飲み込んだ。やっぱり、思った通りだった。まだ半分ほどの部員しか出揃っていないようだが、誰もが里緒の方を一斉に振り返って眺めている。戦犯の一挙一動に注目している。
真っ先に声をあげたのは菊乃だった。
「おつかれ高松ちゃんっ。青柳ちゃんは一緒じゃないの?」
「あ、えと、青柳さんはトイレに行ってて……」
つい釣られて普段通りの受け答えをしてしまった。そっかー、と相好を崩した菊乃たちを前に、滞留していた罪悪感が一気に堰を切って、里緒は頭を下げた。勢いで首がもげたかと思った。
「あのっ」
「んー?」
「その、演奏失敗しちゃって、本当にごめんなさい……! 私の努力が足りなかったせいで、皆さんに迷惑かけてしまってっ」
がん、と膝にクラリネットケースが体当たりして、危うく膝から崩れ落ちかけた。音楽室の中から、またしても会話が消えた。突き刺さった膨大な量の視線に、ひびだらけの心は今にも打ち砕かれそうだ。
『もういい』といって許容、あるいは妥協してくれている人も、きっとどこかにはいるのだろう。だが、そうは思ってくれない人だっている。失敗を犯した自分には、彼らや彼女らの感情に真摯に向き合う責務がある──。里緒の頭を下げさせているのはそんな強迫観念だった。
「やだなぁ、顔上げてよ」
直央の声が里緒の首をつまみ上げにかかった。
「高松ちゃんに頭なんか下げさせたくないよ。ねーみんな」
「大丈夫大丈夫、みんな言うほど気にしてないから! ねっ」
さらに恵が続いた。でも、と里緒は口ごもった。恵や直央の言葉を信じる気にはとてもなれない。だって、わずかに引き上げた視線が、不機嫌そうなしわを刻んだ舞香や真綾の顔を捉えてしまったから。
顔に浮かんでいるだけではない。里緒を取り囲む空気は明らかに白々しく、痛々しい。菊乃が困ったように美琴へ視線を向けている。美琴の仏頂面だけが、普段の管弦楽部と少しも変わりなかった。
立ち尽くす里緒の背中に、不意に声が振りかかった。
「──何してんの、高松」
はじめの声だった。
声にならない叫びを上げて里緒が飛びのくと、そこにカバンを手にしたはじめが立っていた。たったいま来たばかりのようだ。だが、絶妙な居心地の悪さを覚える音楽室の空気を二、三度と嗅ぎ、はじめは事情を察したように目を細めた。
「中、入りなよ。廊下なんかに立ってないで」
「でも、その、私……」
「おいで」
有無を言わせる気のある口調ではなかった。仕方なく、里緒は身を縮めながら音楽室の中へ一歩を踏み込んだ。先にカバンを置いたはじめが、はいはい、と手を叩いて部員たちをけしかけた。
「椅子、丸く並べるよ。楽譜渡しやるから」
「応援演奏用の楽譜、もう出揃ったんですか?」
「まずは例年使い回してる楽譜を配るだけ。実際の楽譜が手元にないと、練習の意欲だってあんまり湧かないでしょ?」
それもそうだ、と部員たちは一斉に動き始める。それを見届けたはじめはきびすを返して、まだ入り口に突っ立っていた里緒を見つめた。
「高松」
「……はい」
「多少の失敗くらいで凹まないようになろうね。高松にはまだまだこれからも活躍してもらわなくちゃいけないんだから。野球部の応援にしても、他の演奏会にしてもね」
里緒は唇を噛んだ。
分かっている。分かっているのである。
あがり症なのが問題なのではなくて、その程度ですぐに演奏を乱してしまう心の弱さこそが、真の問題なのだということは。
「高松は誰よりも基礎ができてる。あと少し、周りが見えるようになりさえすれば、高松のクラリネットに怖いものなんてない。それと、周りが見えるようにならないってのは誰にとっても共通の壁だから、自分だけの欠点だなんて思わないこと」
はじめは静かに口の端を持ち上げた。
「自信を持ちなよ」
里緒はうなずけなかった。うなずけば、部長の優しさにだらしなく甘えることになるから。とうとう嗄れた声で「はい」と答えるのがせいいっぱいで、その返答も背後で部員たちが椅子を引きずる音に呆気なく掻き消された。
◆
夏の甲子園、全国高校野球選手権大会。高校野球を代表する一大イベントの始まりは、七月八日に幕を開ける東京都の予選大会である。すでに試合の日程も決められていて、よほどのことがない限りは変動しない。弦国野球部の初戦は、一学期終業式の一週間前に当たる七月十二日、水曜日。およそ一ヶ月後に設定されていた。
弦国管弦楽部はこの日までに応援のブラスバンドを組み、演奏曲を仕上げていかねばならないことになる。多くの高校の吹奏楽部では同時期開催の吹奏楽コンクールが優先され、応援演奏の練習にはそれほど力が入らないのが一般的だったが、かりそめにも弦国野球部は地域最強格の名門。そこに随伴する管弦楽部も、半端な演奏を披露するわけにはいかないのである。
野球部のほか、チアリーダーを擁する応援部とも調整を重ね、演奏される曲目や楽器、メンバーの構成などがすみやかに決められた。──というより、二年生以下が立川音楽まつりの練習に躍起になっていた合間に、三年生たちの間で調整が行われていたようだった。試合中、管弦楽部は演奏する曲を野球部のマネージャーたちに指示されながら、味方の打順が回っているあいだ楽器を握り、対岸の敵陣めがけて音楽を叩きつけ続ける。
特に屋根のない野外球場では、奏者は強い日差しと吹き付ける砂に悩まされる。それは楽器についても同じで、ことに弦楽器の受ける被害は大きい。そこでヴァイオリンの小萌と直央、ヴィオラの恵、副部長の洸は演奏メンバーを外れ、荷物の管理や水出しといった雑用に回ることが決まった。同じく弦楽器の宗輔はチェロを手放し、不足している金管楽器を補佐するため臨時でトロンボーンを引き受けた。こうした采配は例年行われているものだ。
木管楽器のなかでも特に砂のダメージを受けやすいファゴットは演奏から外され、代わりに緋菜と智秋には低音金管楽器のスーザフォンが与えられた。本来、チューバの担当である三年の本庄詩は、臨時異動で低音の楽器が増えたことを理由に、「金管なら何でも吹けるから」といってトランペットを掛け持ちすることになった。
さらに、打楽器の二人はほとんどの会場でスティックやバチを手放すことが決まった。日本最大の人口密集地である東京の球場はどこも住宅街に近接していて、騒音被害防止のために多くの球場が“鳴り物禁止”のルールを定めているのだ。「こんなの楽器じゃないっす!」と嘆く元晴を無視して、打楽器の二人には“静かな打楽器”ことペットボトルが支給され、花音や舞香たちの笑いを誘っていた。
総じて見れば、とびきり変則的な部員の運用である。しかしそれ以外の部員については、原則として担当楽器のまま。指揮は春季定演と同様、部長のはじめが学指揮として担当する。
かくして里緒は、野球応援でもクラリネットを吹く見込みになった。
膝に置いたクラリネットのケースは二つ。ひとつはマイ楽器のA管で、もうひとつは備品のB♭管である。ささやかな冷涼感と表面の凹凸に心地よさを覚えながら、里緒は内心、生温かな嘆息を隠すことができなかった。
(またB♭管か。この楽器、できればもう握りたくなかったんだけどな……)
結果的に弦楽器が排されてしまったことで、応援楽団は完全に吹奏楽の編成になっていた。ということは、使うクラリネットも立川音楽まつりの時と同じB♭管。しかも曲目も多く、観客も多い上に、会場は日射を遮るもののない炎天下である。
立川音楽まつりよりも過酷な状況での演奏になるのは間違いなかった。
いったい今度は、どんな失敗のリスクが里緒を待ち受けているのだろう。
「もえちゃん、当日はどうするの?」
慣れない手つきで巨大な白色の楽器を抱えた緋菜が、ひそひそ声で尋ねていた。長い髪をさらりと横へ払いのけ、えっと、と彼女は手元のスケジュールに目を通した。
一年部員唯一の弦楽器奏者、出水小萌。無口でおとなしいながらも、洒落た雰囲気をまとった不思議な子である。里緒の目には、緋菜と小萌とはいつも一緒に行動している印象があった。
「当日は場所取りと荷物番と、あと必要に応じて給水だって。運動部みたいなサイズのドリンク入れを持ってくって聞いた」
「いいなぁ、私もそっちがよかった……。慣れないバズィングやりすぎて唇が痛いよ」
「スーザフォンでも吹かせてもらえるんだから感謝しなきゃ」
分かってるよー、と緋菜は嘆いた。彼女の愚痴や不平が里緒に飛んでくることはない。里緒も真似をして、ケースの中に収まっているはずの愛器を抱きしめるふりをした。ちっぽけな胸が急に虚しくなって、すぐにやめてしまった。
二人の目に里緒はどんな風に見えているのだろう。
緋菜とも小萌ともクラスが違うし、セクションだって違う。コンクール練習も本格始動していない現状、里緒には彼女たちと関わったことや言葉を交わした経験は皆無である。何の印象も持たれていないというのが実情だろうか。それでも里緒は、どうしても頑固な疑念を手放すことができずにいた。
(きっと私のこと、肝心な時にしくじるダメな奏者、くらいに思ってるんだろうな)
舞香や真綾みたいに直接的に口に出すことはなくとも、深い心の奥底では何を考えているのか分からない。分からないなら、疑っておいた方がマシだった。その方が傷付かなくて済むから。
「ごめーん遅くなったー」
やかましく声を上げながら、紙の束を手にした菊乃が駆け込んできた。小萌と緋菜が姿勢を正す。里緒も慌てて、膝の上に積もり積もった汚い感情を払い落とした。
今はまだ練習開始前の時間である。音楽室に集まったのは二年生が七人、一年は里緒たち三人。全員、コンクール参加組だ。
細かい日程や注意事項の書き込まれた表を、菊乃は手早く配って回る。里緒が紙に目を落とすと、菊乃が視界の外で宣言した。
「打ち合わせ、始めるよ!」
弦国管弦楽部は少なくとも過去数年以上にわたって、音楽のコンクールに出場したことがない。つまり、練習の進め方やペース配分のノウハウが何もない。そんな不利な条件の下、甲子園応援のブラスバンドの練習と同時並行でコンクール参加組が参加曲の練習を進めるためには、それなりの準備と段取りが必要になるわけで。
「立川音楽まつりも終わり、昨日からいよいよブラバンの練習が始まったということで、あたしたちもそろそろ動き始めたいと思います。当面、ブラバンの合間を縫っての練習になるけどね」
菊乃は表を頭上へ振りかざした。
「本番は九月二十三日。つまりまだ四ヶ月近くはあるので、ぶっちゃけそんなに焦る必要はないと思う。ただ、そのうち一ヶ月はブラバンの練習と並行になるし、野球部の進撃の調子如何では長いこと野球場に通わなきゃいけなくなるから、そんなに余裕をかましてもいられない」
「だから多忙を見越して早めに始めるってわけだよね」
直央が応じる。うん、と首肯した菊乃は、練習日程の欄を指差した。四日に一回、定期的に全体練習を行い、あいだの三日間で各パートごとの技量を上げていくとあった。
「一週間後の六月十一日に最初の合奏をやってみようと思う。そっから先は、ブラバンの合奏と交互に全体練習を進めていくつもり」
「ずいぶん早いな、最初の合奏」
「楽譜を早めに渡しておいたでしょ? 読譜は済ませてくれてあると思うし、その時点での自分たちの実力のほどが知れればいいから」
ホルン二年の郁斗がぼやくと、すぐさま菊乃が応答を下す。「それもそうか」と郁斗は引き下がってしまった。とんでもない、早すぎる──。里緒の脳内は膨れ上がった抗議の声で隙間なく満たされたが、臆病な里緒がそんな反抗的な言葉を口にできるはずはなかった。
菊乃の説明はさらに続いた。練習の進め方は基本的に、知り合いを通して練習を見学させてもらった芸文附属のやり方に準拠する。四日に一度の全体練習を繰り返すなかで曲のイメージや演奏の方向性を固め、残り三日の個人練やパート練では、それらを実現するための実力向上、調整を進める。
問題は、練習の監督をしてくれるコーチ的な存在が弦国にはいないということだった。芸文附属の吹奏楽部には顧問が三人もいて、細かく練習を見ては部員ひとりひとりに的確な指導を下してくれるらしいのだが、それができる人材は弦国にはいない。
「もちろん、〈『天地人』〉の時みたいにあたしが各セクションを回って練習を見るつもりだけど、あたしだってすべての楽器に詳しいわけじゃない。特に弦楽とかはさっぱり分かんない」
そこで、と菊乃はスマホの画面にひとりの女性の姿を映し出した。五十代前半くらいであろうか、頬にしわの筋の入った柔和な風情の女性が、画面の向こうでにこやかに微笑している。
「この人を練習に呼ぶことにしました。みんな知ってる?」
「いや……」
「芸文附属吹奏楽部の第二顧問、矢巾千鶴先生。芸文大で教鞭も取ってる人だよ」
校名を耳にした瞬間、メンバーたちの間に静かな動揺が走った。まあまあ、とそれをなだめ、菊乃は自信満々の笑みで皆を見回す。すぐさま恵がスマホに指を走らせた。
「うわ、すごいね。『芸文大の擁するピアノ演奏の第一人者、吹奏楽や管弦楽の指揮歴も豊富』だって」
「そりゃ芸文附属が吹コンで上位に行くわけだな……。こんな指導者がゴロゴロいるんなら納得だ」
「すごいでしょ、ちょっとした伝手があってねー」
はにかんだ菊乃は、すぐに頬を凛々しく引き締めた。
「もちろん、無償でのお願いだし、忙しい人だからいつも来られるってわけじゃないけど、何度か来てもらって練習についてのアドバイスをいただこうと思うの。最初に呼ぶのは六月十五日、二週間後くらいかな」
六月十五日にはブラバンの方の合奏が予定されている。せっかくなのでブラバンの方の指導もお願いすることにしているそうで、まさに一石二鳥というわけなのだった。
練習日程、練習方針、そして実力のある顧問。
すべての条件が揃ってこそ、価値のある練習を行うことができる。
「今まで通りの練習のままじゃ、あたしたちは東京都大会突破どころか銀賞も取れない。そうとう頭を使って練習しないといけないと思う」
配った表に視線を落とした菊乃は、でも、と顔を上げた。前髪の奥で瞳が強く輝いた。
「逆に言えばまだまだ山ほど伸びしろがあるし、工夫のしがいもあるってこと。ちゃんと頑張れば、正しい努力を積み上げれば、あたしたちなら金賞や全国大会への進出だって夢じゃないはずなんだ。まずは、地道な練習をしていこう。基礎を固めて、思い通りの音楽を作れるようになろう」
それは発案者として、リーダーとして、コンクール参加組の長い挑戦の始まりを告げる言葉でもある。顔を固くしながらも、部員たちは一斉にうなずいて賛意を示した。里緒も急かされるままにうなずいた。凝った肩が、はずみで痛んだ。
自信がなくたって、自らの意思で参加したわけではなくたって、里緒はこの小さな楽団の一員なのである。
(後戻りはできない)
明日からの練習漬けの日々を思いながら、日程の表をカバンに仕舞い込んだ。仲良く並んだ二つのクラリネットケースが、素知らぬ顔で足元に転がっていた。
「きっと私がこういう振る舞いばっかりしてるから、白石さんたちとの距離だって余計に開いちゃうのに」
▶▶▶次回 『C.067 孤独な練習』