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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第三楽章 不協和音の波に打たれて
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C.065 ひそかな葛藤

 




 新着メッセージの過半数は花音からのものだった。


【ぜったい言わないでよ!】

【里緒ちゃんけっこうショックみたいだからっ】

【傷口に粉塗っちゃダメなんだからね!!!!】


 ()って何だ、()だろうが──。反射的に浮かんだ突っ込みをこらえて一言、【分かってる】とだけ返した。こちとら腐っても現役奏者である。里緒には失敗の自覚があるだろうし、そこにわざわざ指摘までされたらショックが二倍増しになることくらい、紅良にだって想像がついた。

 それよりも今は、しくじったのが本当に里緒だったという事実の方が、心に大きな衝撃を生んでいた。

 なぜ。どうして、よりによって里緒が。

 尋ねたい気持ちは山々だったけれど、ついぞ尋ねる勇気が出ることはなくて、そのまま花音とのやり取りを終えてスマホを放り出してしまった。






 翌朝一番の教室に、里緒の姿はまだ見えていなかった。心の準備の済んでいなかった紅良は、猶予が与えられたのを知ってほっと胸をなでおろした。

 どんな顔をして、どんな言葉を選んで、『聴いていた』と伝えようか。交互に出入りする足の先へ疑問を蹴り出しながら、カバンから引きずり出した中間テストの結果を抱え、廊下を歩いた。六月三日、月曜日。今日は立川音楽まつりの翌日である。

『職員室』の看板が見えた。ドアの取っ手に手をかけ、開いた。

 さすがに早すぎたか、人影は少なかった。窓際に()えられた会議用の机で雑談にふけっていた教師たちが、一斉に振り向いて紅良の姿を捉えた。


「あ……、失礼します」


 忘れかけていたあいさつを付け加えると、すぐ左から聞き慣れた声がかかった。


「西元くんじゃないか。どうした、朝から」


 音楽の京士郎だった。コーヒーを片手に、自席の椅子を回してこちらを向いている。ちょうどいい。紅良は歩み寄った。


「保体の富田林(とんだばやし)先生、まだいらしてませんか」

「富田林先生なら……」


 京士郎の目が壁のホワイトボードへ向かう。ああ、と彼はつぶやいた。


「今日は十時以降にならないといらっしゃらない日みたいだな」

「……そうですか」

「用件があったら伝えておくけども」

「中間の答案で採点ミスがあったんです。合っているところをバツにされたので、点数を修正していただこうかと」

「ああ。富田林先生の採点はスピード重視で有名だからな」


 持ってきた答案を広げてみせると、京士郎は納得の苦笑を浮かべた。

 目当ての先生がいないのでは仕方がない、出直すとしようか。ちょっぴり(はし)(しな)びた心を答案用紙に押し付けた紅良は、何気なく、目の前でコーヒーを啜るクラス担任の男を見下ろした。この人は何のためにこんなに早く来ているのだろう。富田林先生と入れ替わってくれればいいのに。


「お早いんですね、先生」


 無言のまま突っ立っているのもと思って、尋ねてみた。一抹の嫌味を込めた自覚はあった。

 京士郎はマグカップを机に置いた。


「片付けなきゃならない仕事があってね。きみたち生徒からすれば、音楽教師なんて暇人に見えるだろ」

「そういうわけではないですけど。授業外では管弦楽部の顧問もされてると聞きましたし」

「ああ、あれね……」


 京士郎が不自然に言い(よど)む。続く言葉を待とうとした紅良は、ふと、昨日の立川音楽まつりのことを思い返した。

 里緒や花音に悟られないように少し離れた場所で聴いていたので、聴衆の顔は一通り眺めていたつもりだが、そういえばこの教師を見かけた記憶はない。


「昨日のはご覧になってたんですか」


 尋ねると、京士郎の顔付きは脇腹に肘鉄を食らったように歪んだ。笑みは崩れなかった。


「どうしてそんなことを?」

「私も聴きに行ってたんです。クラスメートが出ていたので」


 そうか、と彼は独り()ちた。泳いだ視線が徐々に高度を下げて、失速して、机の端に並んだ本の前で止まる。背表紙からして、音楽の教本や指導用の本のようだった。

 京士郎の声は低かった。


「……行っていないよ。僕は」

「顧問なのにですか」

「顧問、なぁ。肩書き上は顧問でも、生徒たちからは顧問とは認識されてないさ。もっぱらハンコの捺印やサインの記入のためにいる存在だよ。お飾り同然の顧問、よくいるだろう」


 ()()()()ようには紅良には思えなかった。世間一般の吹奏楽部では、顧問教諭はむしろ生徒たちを指導で引っ張る中核的存在である。たとえ弦国管弦楽部のように生徒に指揮を任せていたって、部活への関与を(おろそ)かにすることは少ない。そうでなければ信頼関係だって築けない。

 この先生は管弦楽部のことが好きではないのだろうか。


「例年通り参加するとは説明されていたんだけどね。結局、あまり気が向かなくて、行かなかった」


 京士郎は苦笑を噛み潰した。


「ま、顧問がいない方が部員たちも気楽だろう。部内イベントの企画も外部との調整も、練習の指導や生活管理にしても、どれをとっても自力でやれる子たちだ。そこへ顧問が下手に介入して、自律性を妨げてしまうわけにもいかない」

「……そうですか」


 紅良に思い付いた返事といえば、そのくらい当たり障りのないものだけだった。

 京士郎の説明はどこか言い訳じみていた。きっと、それは本人の自覚するところでもあって、あえて京士郎は言い訳を口にすることを選んでいるのだろうと思った。

 この人は何か、もっと真実に近いカタチの答えを隠し持っている。直感がそう囁いている。

 けれどもその答えを紅良が知るすべはないのだ。


「あー……すまんな。あることないことしゃべりすぎてしまった」


 頭を()いた京士郎が、そうだ、とばかりにスマホを手に取り、メッセージアプリのトーク画面を開いた。


「国立WO(ウインドオケ)に入っているんだって?」

「……どこで聞いたんですか」

「コンミスの須坂ってのがいるだろう。彼女、大学時代の器楽科の同期なんだよ。それでこないだ尋ねられたんだ。弦国(おたく)の生徒が今年も入ってきたが担任の子たちか、って」


 コンサートミストレス。男性であればコンサートマスターと呼ばれる。オーケストラ全体の取りまとめを行う、指揮者の次に重要な立場の奏者である。管弦楽であればヴァイオリン、吹奏楽であればクラリネットの首席奏者が引き受けるのが一般的だ。


(……あの人か)


 つい昨日、時季外れのパート内歓迎パーティーへ誘いをかけてきてくれた彼女の笑顔を、紅良はため息混じりに思い出した。さすがは天下の芸文大学、国立WOにもしっかり卒業生交流の根を下ろしているということか。


「先生は市民吹奏楽団には興味を示されなかったんですね」


 尋ねると、京士郎はふたたび苦笑を浮かべた。


「自己紹介で言っただろう、僕の専攻はピアノだ。国立WOに行っても居場所はないよ」

「吹奏楽でもピアノは使うじゃないですか」

「打楽器の中に弾ける人がいれば使うけどね。ピアノだけ弾ける人間なんて、ふつうは楽団には入らない」


 それはそうなのだけれど。

 少しむきになっている自分に気付いて、紅良は口にしそこなった反論を喉の奥へ押し込んだ。……だって、“ピアノ”を“クラリネット”に置き換えたら、まるで紅良や里緒のことを言っているように聞こえたから。

 京士郎の視線はまた机上の本に戻されている。

 何気なく紅良も、その行方を追った。本の背表紙にふと【指揮】の文字を見つけたとき。


「僕の居場所は、ここだけだ」


 京士郎が念を押すように言葉を重ねた。






 教室に戻ると、ちょうど里緒が席についたところだった。

 引き戸の開く音に反応したのだろう。振り返った里緒と視線が美しく交差して、しまったと紅良は息を呑んだ。──演奏を聴いていたことや演奏の出来のことをどんな言葉で伝えるのか、すっかり考え忘れていた。

 里緒の瞳孔が怯えたように小さくなった。


「……おはよう」

「お、おはょぅ……」


 結局、いつも通りのあいさつを小声で告げてから、足早に里緒の隣を抜けてしまった。里緒の返事は見事な尻すぼみだった。開きかけていた喉に何かが詰まって、否応なしに口を閉じたように見えた。

 難しい。

 どんな順序で話せば、里緒を傷付けることなく『聴いたよ』と伝えることができるのだろう。

 引いた椅子に腰掛け、紅良はカバンの口を開いた。採点直しのできなかった保健体育の答案を闇雲に突っ込むと、底の方に立川音楽まつりのプログラムが沈んでいるのが目に入った。里緒に見えないように拾い上げて、しわを伸ばし、並ぶアーティストたちの名前に目をやる。サムネイルの写真には誇らしげな顔がいくつも輝いていたが、『学生楽団演奏』だけは複数の楽団が登場するためか、そもそもサムネイルの表示が見当たらない。

 濁った息を転がして、天井を振り仰いだ。

 ──分からない。


(私は高松さんに自信を持ち直してほしいんだろうか。それとも見当たった改善点を教えて、高松さんがよりよい演奏者になれるように支えてあげたいんだろうか)


 その答え次第で、これから紅良の取るべき行動は変わる。だけど自信だって持ってほしいし、実力だってもっと上げていってほしい。二兎を追って二兎を得られるような言い回しはないものか。きっと、昨日以来ずっとそんな便利な言葉を探して、自分は頭を(ひね)っているのだと思った。

 すると背後でクラスメートの声がした。


「あ、高松さんいるじゃん! おはよー」

「ねね、昨日の街中コンサート的なやつ? うちら花音に誘われて聴きに行ってたんだけどさ、高松さんも出てたよね?」


 すぐさま耳が反応した。城島(じょうしま)久美子(くみこ)と、小倉(こくら)莉華(りか)。記憶が正しければ野球部のマネージャーをしている子たちのはずだった。昨日は見かけなかったが、ずいぶん離れた場所で聴いていたのか。

 読書にふけっているふりを決め込む紅良の背の向こうで、あ、はい、と里緒が蚊の羽音のような返事をした。


「やっぱりー! え、ってか真ん中のちょっと奥のあたりで吹いてたでしょ? 見えてた見えてた!」

「ねー、めっちゃ緊張してなかった? 肩すっごい高く上がってたけど」

「だよねだよね! うちもそれ思ってたっ」

「高松さんでもあんなに緊張すんだねー」


 里緒からの返答は聞こえてこなかった。不気味な静けさが肌に刺さるのを紅良は敏感に覚えたが、あの能天気な二人は同じものを感じてはいないようだ。今にも彼女たちが不用意な言葉を発してしまわないか、不安で仕方がない。


「でもアレだよねー、曲はかっこよかった」

「何て曲だっけ?」

「……て、〈『天地人』〉」

「そーそーそれ! 昔の大河ドラマのやつだよね?」

「曲がいいと演奏もかっこよく感じる気がするよね。なんかこう、胸にぐっと来たっていうか、圧を感じたっていうかさ」

「ねっ、うちらの応援も管弦楽部がやってくれるんでしょ? うち昨日の聴いてたらめっちゃ楽しみになってきちゃった」

「あの、」


 里緒の声が遮った。いまにも裏返る寸前の、高い、かすれた声だった。


「その、せっかく聴きに来てくれたのに、失敗しちゃってごめんなさい……。最後の最後でヘマしちゃって、その……」


 紅良の心は圧壊の一歩手前にまで追い込まれた。こともあろうに、里緒は自分から失敗を暴露する道を選んだのだ。「え」と久美子も莉華も言葉を失い、冷たい沈黙が瞬間的に流れ込んだ。


「ミスったの?」

「うち気付かなかった」

「だよねぇ。え、他の子じゃなくて高松さんが?」

「いやいやそんなわけないじゃん! 高松さんあんなに上級者なんだからぁ」


 いささかの悪気も感じられないその声に、ひっ、と里緒が息を詰まらせた。すぐに沸き上がった二人の笑い声は、(またた)く間にその音を飲み込む。

 ダメだ。

 その言葉は、その前提は、里緒のことを傷付ける。追い詰めてしまう──。

 紅良は最悪の展開を予想した。

 息を飲んだ、その直後。彼女たちの無邪気な批評がさらに続いた。


「んー、ってかさ、別にミスくらいあったっていいんじゃん?」


 紅良の予想は弾けた。


「プロじゃあるまいしさー、ミスのひとつやふたつで責められるなんてうざいよね」

「そーそー! ほどほどに適当にやるのがいちばん楽しいじゃんね、何事も」


 里緒は言葉を返さなかった。そっと背後を伺うと、呆けたように眼前のクラスメートたちを見つめていた。おそらく紅良も同じ表情をしていたことだろう。

 久美子と莉華は朗らかに笑った。


「いやー、何て言うの? うちら無知だし、どのへんミスったのかとかはさっぱり分かんなかったけどさ。聴き手にバレなかったんだから成功ってことでいいっしょ」

「自分に厳しく考えてると疲れるし、いいことないよー」

「で、でも、」


 何かを叫びかけた里緒が、自信なさげに眉を落としていく。その肩を二、三度と叩き、


「楽しかったよっ」


 二人の救世主は立ち去っていった。


 紅良の身体はむず(がゆ)い感覚に包まれた。確かに、鍛えられた耳を持たない、ただ純粋に耳から入ってきた音を楽しむだけの人にとって、細かい部分のミスなどはあってないのと同じだ。紅良や里緒は、確かに追求の度合いが厳しすぎるのかもしれない。そんな当たり前のことに今さら気付かされた思いがして。

 ──いや、違う。

 これは(かゆ)いのではない。

 自分の身体に重なる自分の心が、当たり前のことだと素直に納得できないでいることへの、不快感だ。

 音楽は芸術なのである。芸術の世界では、上手いものは上手い。下手なものは下手。だから演奏者たちは苦労している。思い通りにならない音を必死に押さえつけて、血のにじむような思いをしながら理想のかたちに整えてゆくのだ。里緒だって、紅良だって、あるいはあの楽天家の花音だって。


(あの人たちには理解できないんだろうな。高松さんがどうして謝ろうとしたのか、どうして細かい演奏の出来に一喜一憂してるのか……)


 言いようのない諦念が胸に膨らんだ。

 二人が去っても里緒は椅子から動かなかった。うろたえたように迷う眉の形を前にして、とうとう紅良は里緒にフォローの言葉をかけてやることができなかった。









「自信を持ちなよ」


▶▶▶次回 『C.066 コンクール組の進み方』

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