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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第一楽章 春への憧れ、明日への焦がれ
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C.006 失望の昼、失意の朝

 




 東京都立川市は、都心からJR中央線に乗って四十分ほどのところにある、都内西郊一帯──いわゆる“多摩地域”の中核を占める都市である。

 人口は十八万人を数え、現在も増加中。市内には多くの鉄道路線が集まる立川駅や自衛隊の広域防災基地、広大な面積を誇る国営昭和記念公園、再開発で誕生したオフィス街、そして多摩地域でも有数の巨大繁華街があり、周辺地域を束ねる都市としての風格を充分に備えている。駅前地区には大小のデパートやファッションビル、ショッピングモールが軒を連ね、いつ訪れても多数の買い物客であふれ返っている。

 その立川駅から、市を南北に縦断する新交通・多摩都市モノレールに乗って一駅。さらにそこから歩いて数分。広大な河川敷を持つ多摩川の土手沿いに立つ都営団地の三階に、里緒は父と二人で住んでいた。




 吐き出されるようにして電車を降り、改札に向かった。

 平日の真っ昼間だというのに、立川駅の構内はデパート巡りの買い物客でごった返していた。ICカードを押し当てると、くたびれた音を響かせて自動改札が開いた。

 どこを見回しても人、人、人。これだけ人がいるのに誰も自分を見ていないことが、かえって今は救いだった。極力目立たないように立ち居振る舞うのは、里緒の得意中の得意芸でもあった。

 ICカードを突っ込んだカバンを再び肩に()げて、里緒は大きな吐息をついた。


(結局、ここまで帰ってきちゃったな……)


 教室を飛び出し、出会い頭にぶつかった先輩にも平謝りしか残すことができず、そのまま学校を出て駅までまっしぐら。ちょうど良いタイミングでホームに現れた特別快速の電車に乗り込んだものの、混雑した車内では一息をつくこともできなくて、さらにたどり着いた立川駅ではこの人だかりである。

 校門前には我が子の出てくるのを待ち受ける親の姿が幾人も見受けられた。当然ながら、その中に里緒の父の姿はなかった。入学式終わりの里緒を出迎え、その日の話に耳を傾けてくれるような人は、いない。さりとて学校の近隣に何があるのかも知らないし、昼食の時間には早すぎる。だから当たり前だもん、学校から脇目も振らずに駅まで戻るのなんか──。組み立てた言い訳がひどく下卑(げび)たものに見えて、里緒は息を吹き掛けて崩してしまった。

 左手にぽっかりと開いた南口の方が目映(まばゆ)い。雑踏の合間、床に反射して差し込む白い昼の陽射しが、“まだ帰宅する時間帯じゃないよ”といって苦笑いしているようで、里緒は目を伏せた。どうせ、この身体を照らすのなら、もっと早く──過呼吸になりかかったあの時にこそ、照らしてほしかった。

 逃げてしまってからでは、遅いのだ。

 友達を作るタイミングを逸してしまっただけではない。“せっかく話しかけても逃げ出してしまう子”という、(くつがえ)しがたい負の印象を、あの騒ぎで里緒は作り出してしまったはずだった。明日、どんな顔をして登校しよう。話しかけてきてくれた少女たちは、明日、里緒の前でどんな顔をするのだろう。

 分からない。

 ただただ、何も分からなかった。


「……帰ろう」


 里緒はうなだれて、南口の方に向かって歩き出した。とぼとぼと踏み出す二本の足が、どうしようもなく重たかった。





 ◆





 クラリネットという楽器は、吹奏楽や管弦楽を演奏する上では欠かすことのできない、広い音域と柔らかく独特な音色を持つ木管楽器である。


 通常六十~七十センチメートルほどの長さを有する黒い管体には、複雑に絡み合った無数の金具・キイが取り付けられ、それらが管に空いた音孔(トーンホール)(ふさ)ぐことで音程が変化する。

 一枚のリードの振動によって音を出すシングルリード楽器の一種であり、リードは口を付ける部位であるマウスピースに金具(リガチャー)を使って装着される。同族の楽器全体で見れば、奏でることのできる音域は極めて多岐にわたり、その汎用性の高さや暖かな音色が愛好され、今日では最も活躍の機会の多い楽器のひとつにのし上がっている。

 しかし、その一方でクラリネットは、他の楽器と比べると音を操るのが難しいという一面も持ち合わせていた。ただでさえ構造の複雑なキイを自在に扱わねばならないうえ、リードを震わせて音にするというのは簡単なことではなく、正しい呼吸法を身に付け、一定以上の肺活量を鍛えておかなければならないのである。

 クラリネットに手を出す子どもたちの多くが、この問題を前に苦戦を強いられる。小学生の時、初めてクラリネットに触れた里緒も同じだった。音色にするどころか、まともに音を出すことさえ叶わず、ちっとも音が出ないといって持ち主の母にしょっちゅう泣き付いたものだった。

 二十一歳年上の里緒の母・高松(たかまつ)瑠璃(るり)は、口の形の作り方は教えてくれたけれど、正しい呼吸法までも教授してはくれなかった。中学入学後、入部した吹奏楽部でようやく“腹式呼吸”なるものの存在を知り、それでやっと思い通りの音色を奏でられるようになった。里緒が『なんで教えてくれなかったの』といって(なじ)ると、瑠璃は困ったように眉を下げ、笑っていた。


『お母さんもね、よく分からなくなっちゃって。息の仕方』


 ──そんなことを口にしていたような気もする。


 日の当たる夕方のリビングで、そっと静かに童謡やポップソングを奏でるのが、瑠璃の数少ない日々の(たしな)みのひとつだった。

 クラリネットはソロで演奏されることもあるが、楽団のオーケストラやブラスバンドに交じって複数人数で演奏される機会の方が遥かに多い。それは、他の楽器と比べてクラリネットの音量が小さいためで、たった一本では金管楽器や打楽器の音にあっけなく埋もれてしまうのだ。

 ひるがえって瑠璃はどこの楽団にも属さず、ただ、黙々と家にこもってクラリネットをくわえ続けていた。

 あの頃、母は何を思い、何を願い、クラリネットと向き合っていたのだろう。

 とうとう一度もその答えを聞き出すチャンスを掴めないまま、気付けばこうして数年の月日が経って。


 瑠璃のクラリネットは今、里緒の手元にある。





 ◆





 ──『お父さん! 起きてっ! お父さんっ……!』

 ──『……何だ、うるさいな。こんな夜中に』

 ──『お母さんが……お母さんがぁ……!』

 ──『おい待て、引っ張るな。母さんがどうしただって? ……る、瑠璃っ! お前なにやってるんだ!』

 ──『うぅ……お母さん……お母さぁん……っ』

 ──『里緒、そこの箱を取れ! 父さんがその上に乗るから、しっかり押さえてるんだ!』

 ──『お父さんお願い……お母さんを、お母さんを……っ』

 ──『くそっ、こんなに固く結びやがってっ! ……すまん、里緒。母さんはもう、どうしようもないかもしれない……』

 ──『うっ……あ……ひぐっ……』

 ──『泣くな里緒。泣くにはまだ、早いだろ……っ。──ああ、何とか、ほどけた』

 ──『冷たい……! お父さん、お母さん、冷たい……!』

 ──『ああ……冷たい……』

 ──『お母さん、しっかりしてよぉ! ねぇ、なんで!? なんでぇ……!』

 ──『ちくしょう……。俺にも教えろよ瑠璃、どうして……。やっと手を回し始めたところだっただろ……っ』

 ──『うぁ……あぁあぁあ……ぁ……!』




 ──びっしょりと全身にかいた汗の不快感で、里緒は目を()ました。

 目覚まし時計の設定時刻よりも一時間も前だった。外の空はまだ白み始めたばかりで、網戸から入ってくる音といえば鳥たちの(かす)かなさえずりと、多摩川を渡ってゆく自動車の走行音だけ。

 肋骨を破る勢いで高まっていた胸の鼓動が、緩やかに冷静さを取り戻してゆく。刹那、(さわ)やかに吹き寄せた春の朝の風に、ぞっとするほどの寒さを感じて、里緒は再び布団の中にくるまった。

 くるまりながら、うなだれた。


「……また、見ちゃったな」


 つぶやけば、押し出されたようにして目尻に(しずく)が浮かぶ。赤い跡が残ってしまうのを承知で、ぐいと布団の端で力強く(ぬぐ)った。


 今日もまた、遠い海の向こうから、何食わぬ顔をして春の一日がやってきた。









「中学の時、吹奏楽部(ああいうの)にいたことがあるの。もっと言うと、高松さんと同じ楽器(クラリネット)を吹いてた」


▶▶▶次回 『C.007 二人の提案』

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