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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第三楽章 不協和音の波に打たれて
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C.064 弁護士訪問

 




 瑞浪(みずなみ)(ひろし)弁護士は若い人物だった。三十歳と聞いてはいたが、実際に向かい合って座ると自分の年齢を痛感させられる。ずいぶんくたびれたおっさんが話をしに来たな、とでも思われていることだろうか。

 一通りの話を終えた大祐は、調書にペンを走らせる瑞浪の表情をじっと(うかが)った。眉間に筋が浮かんでいる。(かんば)しい様子ではなさそうだった。

 果たして、瑞浪はためらいがちに口を開いた。


「ええと……主張を整理させていただきますね。つまり、奥様の自殺の理由はあくまでもママ友いじめによる精神的損害であり、ママ友いじめは中学校での娘さんのいじめに誘発されたものであるから、中学校にも責任の一端がある。そういった趣旨でお間違えはありませんか」


 大祐はうなずいた。

 現行法上“いじめ”という犯罪は存在しない。暴行などの事実があれば刑事罰に問えるが、瑠璃は身体的な暴力や脅迫といった具体的な犯罪被害に遭っていたわけではないようだ。だから、いじめの原因を作った相手を法的に追い詰めたければ、民事訴訟を起こして相手に損害賠償の請求を突きつける必要があった。今回の場合、訴訟の相手方は私人(民間人)ではなく公立中学校。公共機関である公立中学校を訴える場合には、“公権力たる公務員の不法行為によって損害を受けた”として、国家賠償法一条一項に基づく「国家賠償請求訴訟」の形式を採ることになる。

 それらの知識を胸に、こうして今日、時間を作って法律事務所を訪れたところだった。今後のことについて相談したかったし、もしも本当に裁判を起こしたいと思うならば訴状の用意も行わなければならない。亮一の言葉を借りるなら餅は餅屋、法律は弁護士である。


「本当は直接加害者である妻の知人たちを訴えてやるべきなんでしょうが、如何(いかん)せん、誰のことを訴えればいいのかがさっぱりで……。亡くなった妻も名前を書き遺さなかったんです」

「そうでしたか」

「だから、中学校をと思ったんですが」


 瑞浪は湯飲みのお茶を含んだ。大祐には、口にしかけた言葉を無理に飲み込もうとしたように見えた。机に湯飲みの底が触れ、甲高い音を立てる。

 開かれたままになっていた机上の六法全書を、瑞浪はそっと音を立てずに閉じた。


「すでにご存知かもしれませんが、国家賠償請求訴訟は民法上の訴訟、つまり一般的な損害賠償請求訴訟と同じ形態を採ることになります。そして、損害賠償請求を行う上では、相手の不法行為責任を追及する必要があります。つまり、法を(おか)して損害を与えたのだから(つぐな)いなさい、と主張するわけなんですが」

「ですが、とは?」

「学校いじめの裁判で教師や学校が訴追されるのは、教師や学校には生徒を監督する義務や、安全配慮の義務があると考えられているからです。本来果たさねばならない義務を怠ったのだから有責性がある、といって追い詰めることができるわけです。その、失礼ながら娘さんもいじめに()われていたわけですよね。娘さんの場合は、学校に対して安全配慮義務違反の責任を問うことは可能かと思います」

「……妻の場合は無理だとおっしゃるんですか」

「そうですね……。その、やはり学校には一般的に考えて、奥様に対する安全配慮の責任はありませんから」


 そんなことは分かっている。大祐は膝の上で拳を握った。瑠璃の死は里緒のいじめが波及した結果なのだから、間接的に責任がある。そんな具合に柔軟に捉えることはできないのか。


「お考えにはなっていませんか」


 上目遣いに瑞浪が尋ねてくる。娘ですか、と大祐は(うな)った。瑞浪の態度は大真面目だった。


「娘さんはいじめを受けて不登校になっていますから、客観的に見ても精神的な損害を負わされていると言える状況にあります。それに生きていらっしゃるんですから、証言台に立って、ご自身の見たままのことを話していただくこともできるわけです。審理の過程で奥様のことに言及すれば、こちらについても論点のひとつと認識してもらえる見込みがあります」

「…………」


 伺い知れることのないように大祐は嘆息した。

 どうあっても瑠璃の死を第一の論点にするのは不可能らしい。

 確かに、直接の責任が学校にない以上、その学校を相手方に()えるのには無理がある。普通に考えればそうなる。それでもと一縷(いちる)の望みを抱いて、今日、ここを訪れたつもりだったのだが。


(法律の専門家と、法律の何たるかも知らない俺じゃ、認識が食い違うのも当たり前か……)


 やるかたない思いでいっぱいの胸に視線を落としていると、瑞浪は控えめな声で畳み掛けてきた。


「娘さんに関する訴えであれば、勝訴を勝ち取れる公算も大きいです。奥様の無念を晴らす最短ルートでもあるかと思いますが」

「……分かりました」


 他に彼らへ制裁を与えるすべは思いつかない。しぶしぶ、大祐は妥協案を飲み込むことにした。






 二年前から去年にかけて、里緒は間違いなくいじめの被害者だった。身体暴力も受けていたし、部活にも通えないようになっていた。当時の担任の名前はもう忘れてしまったが、大祐や瑠璃がいくら電話をかけて対応を求めても、三者面談の場で被害を訴えても、まるでまともな対処を打ち出してはくれなかった。里緒いじめの主犯の名前が挙がってくることも、その全貌が明かされることもなかった。もしも判明していたなら、もっと早くに法的措置に出られただろうと思う。

 通学中の学校を訴えるというのは簡単なことではない。

 それはすなわち、我が子の身を預けている相手を法廷に引きずり出し、非難し、制裁を加えること。逆恨みの形で学校側が里緒への認識を悪化させれば、肝心の里緒にどんな影響が及ぶかも分からない。

 だが、いじめに荷担していた生徒や保護者たちの顔ぶれが不明である以上、高松家として取ることのできる対抗措置は学校を訴えることだけだった。そしてそれは、里緒が中学を卒業して無縁の人間となるまでは、手をつけることの厳しい手段でもあったのである。──少なくとも大祐はそう考えた。

 自分なりに里緒のことを思った結果だったと自負している。


 弁護士事務所を出た時には、天高くそびえていた夏前の太陽も傾き始めていた。【さくら立川法律事務所】の文字を見上げ、大祐は凝った首筋に手を添えた。

 訴状の作成に手をつけられたのはよかったけれど、結果的には不本意な展開になった。可能な限り、里緒のことは裁判に巻き込みたくなかったのだ。


(法廷に立って証言とか、簡単に言ってくれるもんだ)


 吐き出した生ぬるい息が人波に揉まれ、たくさんの足に踏んづけられて形を失ってゆくのを、大祐はぼうっと見つめた。

 そんなこと、きっと里緒にはできない。証人として出廷すれば、嫌でも被告である学校側の関係者や代理人から尋問を受けることになるのである。そんなものに里緒が堪えられるわけがない。この自分自身にだって、向こうからの反論に上手く切り返せる自信はないのに。

 それに──。そもそも今回の裁判は、里緒の尊厳を守るために起こすものではない。


(……里緒のいじめがなければ、瑠璃が痛め付けられることも、失うこともなかった)


 握り固めていた拳が悲鳴を上げた。慌てて、力を緩める。溜まった血が一斉に腕を流れ出して、にわかに身体が熱を帯び始めた。

 法的に適切であることと、裁判で有利な側に立つことしか頭にない。法律家なんて所詮、そんなものなのかもしれないと思った。

 濁った心を誤魔化せないまま、駅の方に向かって歩き出した。立川は今日、音楽イベントの真っ最中のようだった。そこかしこにステージが設けられ、観客の作った黒山の向こうで音符が賑やかに弾けている。平時の日曜日よりも数割増になった人出の間を縫うように進みながら、自分が何か後ろめたいことをしているような気分にさせられて、大祐は足早に喧騒の出口を目指した。


(俺は間違ってない)


 誰にともなく、訴えた。


(何がなんでも謝罪か賠償に持ち込んで、()()()無念を晴らすんだ。……里緒は、関係ない)


 当の里緒がちょうど立川にいて、するはずのなかった失敗を犯して悔恨の海に沈んでいたことなど、その時、大祐は少しも知り得なかった。








「私は高松さんに自信を持ち直してほしいんだろうか」


▶▶▶次回 『C.065 ひそかな葛藤』

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