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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第三楽章 不協和音の波に打たれて
68/231

C.063 立川音楽まつり






「新しい喜びは、新しい苦痛をもたらす。」

"New delight brings new pain."





挿絵(By みてみん)

 




 視界を黒山が埋め尽くしている。見渡す限りの人、人、人、人──。指揮棒を振るう部長の姿は背景の観衆にすっかり溶け込み、今や意識の(から)の外側で完全に存在感を失っていた。

 九本の指で懸命に楽譜を追い掛けた。ふたたび戦の始まりを告げるがごとく、高らかに鳴り(わめ)くトランペットのファンファーレ。腹に響く打楽器の轟音が勇ましい。曲はなだらかな運指の中間部から、一気に終盤(フィナーレ)へとなだれ込む。ここから先は木管楽器が主役を張る場所ではない。金管に代わって主旋律(メロディ)を引き受ける弦楽器の横に並び、その謡いを時おり手伝いながら対旋律(オブリガート)(いろど)りを添えるのが役目。

 譜面が一気に煩雑になる。

 大量のメモと書き込みにあふれた楽譜が、目に入った片端から視神経を痛め付ける。

 次の音は。次の演奏記号は。次の指示は。──視線を譜面に絡めながら、必死にクラリネットにしがみついた。まるで自分の立つ場所が、クラリネットを取り囲む直径一メートルの空間だけが、宙に浮かんで周囲の音を遮断しているような不気味な感覚。“苦しい”。一瞬、不穏な感情が身体の奥で燃え上がった。

 ああ。

 どうしよう。

 あんなに指揮者を見ろと言われていたのに。

 あんなに周囲の音を聴けと言われていたのに。

 いざ本番になってみると、これほど難しい課題は他になかった。今、このクラリネットは満足に音を出せているのか。音程は合っているのか。浮ついた意識は混迷を深めるばかりで答えを出してくれない。周りの音を聴こうとすれば自分の音は聴こえないし、自分の音が聴こえていれば周りの音が聴こえないのだ。

 ティンパニの残響がうねる。金管楽器の吹き上げる音色が階段上に高まり、重なるようにけたたましいシンバルの炸裂。──フィナーレ部だ。弦楽が追従して音量を上げる。左右の美琴と花音がうなずき合った。何度も繰り返し練習して鍛えた部分だったが、里緒には意思表示のゆとりは少しもなかった。

 金管と弦楽のリズミカルな主題(テーマ)が耳を打つ。はじめの振りかざした指揮棒の光が、つ、と低い位置に戻った。持ち上げる動作は視界の外にあって見えない。タイミングが読めない。曲の勢いで判断するしかない。下から巻き上げるようにレガート、だんだん強く(クレッシェンド)()F♭(ファ)()()──。

 指が滑った。


(しまった!)


 明らかに譜面と違う音色が、ベルの先から(ほとばし)って鳴き(わめ)いた。

 里緒は(ほぞ)を噛んだ。止まっている暇はない、すぐさま立て直して正しい音階に追い付く。楽譜と指揮者とを往復していた花音の視線が、そのとき、瞬間的に里緒の方へと引き寄せられたのを頬に感じた。

 焦って吹き込んだ息が多すぎた。音量が不自然に跳ね上がる。

 だが、わずか一本のクラリネットの発した断末魔のような(いなな)きは、たちまち追い上げてきた弦楽器の合唱に跡形もなく飲み込まれ、続くティンパニと大太鼓(バスドラム)の爆轟で地に激しく叩き付けられた。






 ◆






 買い食いのアイスを頬張っていた翠が、つぶやいた。


「──今、なんか」

「変な音したよね」


 つばさが代わりに続きを口にした。楽団の姿は人だかりの向こうにあってよく見えず、演奏の終わった今は(まば)らな拍手ばかりが聴こえてきている。

 六月二日、午後二時半。

 立川音楽まつり第十三会場(ステージ)、サンサンロード映画館前。

『学生楽団演奏』の二番手として出演を果たした弦国管弦楽部は、見守っていた観衆たちからそれなりの拍手を贈られ、()()〈『天地人』オープニングテーマ〉の演奏を終えた。

 紅良も拍手を打った。もっとも、三十メートル近くも離れた場所から打っていたので、本人たちの耳に届くことはないだろうと思う。


(……クラっぽい音だったな。さっきの)


 人混みを見つめながら、耳に走った違和感の正体を考えた。

 総じて悪い演奏ではなかった。人数の少ない楽団にしてはボリュームもあったし、要所要所の迫力ある金管や打楽器の音色にはうっとりと聞き惚れることもできた。

 だが最後、明らかに“飛び出してしまった”音があったのを、紅良の耳は確かに捉えた。恐らく翠とつばさも捉えたはずである。


「ね、花音たちのとこ行ってこようよ」


 突っ立っている紅良を翠が引っ張った。


「誘ってくれたの花音なんでしょ? 感想言ってあげたら喜ぶよ」

「これから振り返りとか撤収で忙しいだろうし、今度でいいでしょ」

「えー、冷たいなぁ。その場で教えてもらうのがいちばん嬉しいもんじゃん」


 彼女は口を尖らせた。本当は、顔を見せるのがちょっぴり気恥ずかしいだけ。子供じみた本音はおくびにも出さないように、紅良は翠の手をほどいて駅の方に歩き出そうとした。

 一瞬、人混みが途切れた。

 まだ壇上に並んだままの奏者たちの顔が(うかが)えた。

 クラリネットパートの姿もあった。誰かを探すように辺りを見回す花音、満足げにフルートを握っている二年生の先輩。

 そして、傍目にもそれと分かるほどに真っ青な顔をしてうつむく、里緒。


(高松さん?)


 紅良は里緒から目を離せなくなった。

 里緒だけが笑っていない。大なり小なり、音を出し切った快感に頭のてっぺんまで浸かっている管弦楽部の部員たちの中で、里緒だけが悄然と突っ立っているのだ。


 まさか、あの音を外したのは──。


「どうしたのさ」


 つばさが(いぶか)る声をあげた。「何でもない」と曖昧に誤魔化して、紅良は視線を逸らしてしまった。

 本当にそうだという確証もなかったし、できれば間違っていてほしかった。






 ◆






 演奏が終われば部員たちは速やかに楽器を撤収し、次の楽団のためにスペースを空ける。それから、三年生の待つ舞台裏の空き地へと集合した。


「西元いないなー……。来るって言ってたのになぁ」


 隣で花音がそんなことをつぶやいていた気がする。観客席の方をまともに見ることもできなかった里緒は、冷えたクラリネットを握りしめながら黙って口を結び、立ち尽くしていた。

 最悪だ。

 あんなに練習してきたのに。

 緊張してしまって実力を発揮できない、なんて事態だけは避けたかった。避けようという努力はしていたはずだったのに。


「──成功でいいんじゃない?」


 開口一番、指揮を執ったはじめの発した評価に、固唾(かたず)を飲んで見守る部員たちの間から微かな吐息が漏れ出した。はじめは小さく笑って、「緊張してたでしょ」と声をかける。至近に立っていたトランペットの真綾が(うめ)いた。


「思ったより人、多くて……めっちゃ緊張しました」

「でも結構うまくいったんじゃない? 特に一年の子たちは初めての晴れ舞台だったと思うけど、人前に出て演奏することの難しさ、楽しさ、得意不得意、それぞれ感じてもらえたことと思う。そして、もしも今回の自分の演奏に問題があると感じたら、それが今後、みんなが日常的な練習の過程で向き合っていくべき課題になります」


 “課題”の二文字が、ずんと質量を伴って肩にのし掛かる。里緒はうなだれた。いま、この姿を誰かに見つかったら、きっと叱責から逃れられないと思った。

 しかし部長(はじめ)は特に個別のパートについて批評を加えることもなく、副部長の洸にスピーチの番を譲ってしまった。


「えー……。弦セク二年の二人、演奏中はもう少しおとなしくしてください」


 始終ノリノリで身体を左右に揺らしながら演奏していた直央と恵が、うちら? とばかりに顔を指差した。部員たちが肩を静かに震わせ始めた。「だって楽しかったんですよー!」などと恵が弁明して、さらに笑い声に火をつけた。

 素直に談笑に混じることのできない自分がつくづく恨めしい。否応なしに噴き出しかかった下賤(げせん)な笑みを、里緒はどうにか()し殺して耐えた。私には笑う資格なんてない、と思った。次々と三年生たちが所感を述べ、そのたびに誰かしらが笑い声を上げるのを、はらはらとしながら見守り続けた。

 いつ、誰が、終盤のクラリネットの話に触れるだろう。恐れは時間の経過とともに(かさ)を増してゆき、そしてついに現実のものとなった。ひとしきり感想が述べられたところで、菊乃が(じか)に尋ねてしまったのである。


「あの」

「うん?」

「正直な感想を聞かせてほしいんですけど。さっきの演奏の出来、指揮者としてどうだったと思いますか」


 うーん、とはじめは宙を振り(あお)いだ。


「明確な失敗ってなかったからね。迫力が足りないのは人数が少ないからだし、この人数と楽器でやれるせいいっぱいの演奏(こと)はやれたんじゃないかって思うよ。……ただ、」

「ただ?」

「クラの誰かが終盤でもつれちゃってたよね。あれはちょっと気になったかもしれない」


 その台詞は、演奏を乗り切って浮き足立っていた部員たちの胸に冷静さを取り戻すには、いささか以上に十分なものだったことだろう。

 しん、と場が静まり返った。視線が一斉にクラリネットパートの方を向いたのを感じて、里緒の喉は閉塞寸前にまで追い込まれた。


「あー。そういえば音を外してる人いたような気がしてきた」

「マジ? 気付かなかったんだけど」

「音外したのもそうだけどさ、『ピッ!』ってなってる人もいなかったっけ」


 きょとんと所在なげに突っ立っていた花音が、疑いの目にさらされているのに気付いたのか、困惑げに手中のクラリネットとはじめとを見比べている。私、ミスしてないよ──。少し見開かれた瞳が困り顔で訴えている。無表情の美琴にも落ち着きがない。数秒ほど続いた気まずい沈黙の中で、里緒の肩は浅い息のためにひどく痛んだ。

 そのまま黙り通そうと思えばできたのかもしれない。

 だが、良心の呵責が黙秘を許してくれなかった。


「……私、です」


 耐えられなくなって、里緒は(かす)れきった声で訴え出た。

 取り囲む仲間たちの口から、無言の驚嘆が弾けて消えた。はじめは何も言わなかったが、たとえ何も言わずとも、細められた目が『やっぱり』と雄弁に語っていた。


「里緒ちゃん──」

「ごめんなさい……。終盤の七十二小節目、運指(フィンガリング)がうまくいかなくて……その……」

「合奏で何度も指摘受けてた場所じゃん、それ」


 遮ったのは舞香のつぶやきだった。小さな、聞き逃してもおかしくなかったはずの言葉に、里緒の声帯は瞬時に凍り付いた。続けるべき弁解の台詞が、一瞬にして頭から弾け飛んでしまった。

 菊乃が、真綾が、ほかの一年生たちが、立ちすくんだ里緒を凝視している。やっぱ、あそこか。にしてもまさか高松さんが──。上級生たちの囁きが耳を打って痛みを刺す。

 舞香は大袈裟に嘆息した。


「あー。そこのミスさえなけりゃ割と完璧だったのにな、わたしたち」

「…………」

「コンクールのことで頭一杯で気も(そぞ)ろだった、とかじゃないの?」

「……そ、そんなっ」


 とんでもない話だ。里緒は慌てて首を横に振ったが、一年生たちの瞳に(にご)る疑念の色が揺らぐことはなかった。

 特別なことなど何もしていない。いつも通りに吹いたはずだった。

 ()()()()()()()()()指揮が見えず、周りの音が聴こえなかったのである。

 やめなよ、と花音が割り込んできた。


「里緒ちゃんはそんな半端なことする人じゃないよ! 〈『天地人』〉の練習だって、少しも手、抜いてなかったじゃん。居残り練してまで頑張ってたこと、まいまいだって知ってるくせに!」

「でもミスったのは事実だし……」

「真綾ちゃんまでそんなこと言わなくてもっ」


 何も言えず立ち尽くすばかりの里緒になりかわって、花音は懸命に里緒のことをかばおうとする。──やめて、いいの。私が失敗したのがいけないの──。引き留めようとした言葉はまたしても声にならなかった。ただ、睨み合う花音たちの横顔を、呆然と無力に眺めていることしかできない。


「はいはい。ストップ、ストップ」


 はじめが声を大きくした。


「反省なら普段の活動でいくらでもやれるでしょ。目くじら立てるのはおしまい」

「でも……」

「今回は練習の演奏みたいなもんなんだから」


 はじめは腰に手を当て、畳みかけた。

 不満げに頬を膨らませた舞香や真綾が黙り込み、汚濁した沈黙が場を支配する。しかしそれも数秒ほどのことだった。沈黙を嫌ったように「んじゃー撤収するぞ!」と徳利が声を上げ、ようやく部員たちは行き先を思い出したように動き出した。バチを指揮棒よろしく振りかざす彼の指示のもと、楽器運搬係の面々はバスドラムやティンパニといった大型楽器を搬出する準備に取りかかる。

 素早く近寄ってきた花音が、蝋人形と化した里緒に耳打ちした。


「里緒ちゃんは気にすることないんだからね」

「ないなんて──」

「ないの!」


 強い口ぶりで否定された。そのまま、花音は打楽器に群がる楽器運搬係たちの輪の中に入っていってしまった。その背中が普段よりもいくばくか強張っているのを、里緒はぼんやりと見送った彼女のシルエットに見出だした。

 花音は、間違っている。

 気にしなければならないのである。


(経験者のはずなんだもん。……もう、失敗は許してもらえない。ほんとだったら今回だって許されなかった)


 うつむいて噛んだ唇に薄い痛みが走った。

 こうして握りしめるB管クラリネットの重さは、質感は、里緒の愛器のそれとはまるで違う。変わらないのは首から提げた藍色のネックストラップだけ。慣れていない楽器だというのは分かっていたし、それが聴き手の前では何の言い訳にもならないことだって分かっているつもりだった。


(足りないんだ)


 結んでいた唇を解いて、うなだれた。


(“私”を克服する努力が、私には、足りない)


 里緒ちゃーん、と呼ぶ声が聞こえた。香織が手を振っている。美化係も楽器運搬に招集されるのだろう。急いで駆け寄ろうとした足が、香織の隣に立つ舞香の姿を目にして一瞬、前に出るのをためらった。




 たとえ部長や三年生たちの間で、今度の演奏が“成功”の評価に値したとしても、里緒にとっては失敗だった。

 自信をつけるために挑んだはずの初陣で、里緒はいきなり、つまずいた。










「……妻の場合は無理だとおっしゃるんですか」


▶▶▶次回 『C.064 弁護士訪問』

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