Interlude ──〈凶音〉
病院の待合室は痛々しいほどの静寂に包まれていた。
肌に刺さる痛みに耐えきれなくなるかと焦った矢先、自動扉の開く音が沈黙を破った。ばたばたと誰かの靴が床を踏み鳴らして、紬は顔を上げた。
息を切らせて駆け付けてきたのは雅だった。
「容態は!?」
ベンチに腰かけた姿勢のまま、紬は首を横へ振った。憔悴しすぎて返答を口にするほどの力も残っていないほどだったのだけれど、そのままでは雅にいらぬ誤解を与えてしまうと思って、紫色の唇をどうにか抉じ開けた。
「……命は、取り止めました」
「ってことは、意識は……」
それ以上の言葉を口には出せなかった。
無言を返事と認識したのだろう。「そう」とだけ静かに応答を発して、雅は紬の隣に腰かけた。仕事終わりのオフィスから駆け付けてもらったためか、服装は取材をして回る時のそれのまま。ベージュ色の長いコートの端が、冷ややかな陽の光をわずかに浴びて眩しい輝きを放っている。
うすら寒いエントランスの片隅に座り続けていると、雅のまとった穏やかな熱は鮮明な人型の輪郭を描いて、くたびれた紬の肌を優しく刺激する。自分はここに独りで座っているのではないのだと、身に染みて感じられる。たったそれだけの卑小な事実に、今、紬はどれほど救われているか分からなかった。
「……脳梗塞か」
雅がつぶやいた。
「ほんと、突然だったね。市街地なんかで発症してたら手遅れだったかもしれない。命が助かっただけでも、幸運だったんだろうな」
紬はうつむいて、スーツの裾を握りしめた。不幸中の幸いには違いないが、今の自分ではとてもそれを喜べる心境にはなれそうもない。命が助かったって、心臓が正常だって、目を覚ましてくれないのなら大差ない──。つい感情的になって、そんな後ろ向きの考えばかりが脳裏を過ぎる。
「私、分からないです。拓斗にこのこと、どう説明してあげればいいのか」
まぶたを忙しなく瞬かせて、訴えた。病人かと見紛うほどにかすれた声だった。
「脳梗塞のこと?」
雅が尋ねる。
そうではない。紬は首を振った。難しい病気だから伝え方が分からないというのではないのだ。
「担当医の方から言われました。脳梗塞って、ストレスの負荷で血圧が上がることで引き起こされることもあるみたいなんです。あの人は鬱だったから、ずっと高いストレスのなかで生きていた。断定はできないけれど、おそらくそれが最も有力な原因だろう……って。だとしたら、あの人がこんなことになったのは、きっと、私のせいなんです」
「…………」
「どうしてこんなことになっちゃったのか、これからあの人がどうなるのか……。説明するのは簡単でも、勇気が要るんです。そんなことする勇気、私には、どこにも……」
雅は答えてくれない。
「私、拓斗に謝ったらいいんでしょうか……。お父さんを奪っちゃってごめんね、って。守れなくてごめんね、って……」
意気地のない言い訳を並べ立てていたら、性懲りもなく泣けてきた。震える喉をどうにか強引に押さえつけ、息をする。濁った色の息は錘のような勢いで床に落ち、あっという間に砕けて消えた。
私もあんな風に砕けてしまいたい。──際限のない悔恨の狭間で、そんなことを思った。願った。
雅が肩に手を置いた。そうして、紬の身体を優しく揺さぶった。ぐらついた視界が病院の玄関のあたりを横切る。救急車が到着したのか、甲高いサイレン音と真紅の光がガラス戸を激しく叩いている。
「神林がぜんぶ責任をかぶる必要はない」
雅は言った。いやに落ち着き払った声色をしていた。
「誰だって、いつだって、すべての努力が報われるわけじゃない。苦しんでいる人がいたら可能な限り気づいてあげたいけど、私たちはすべての人の苦しみに気づけるわけじゃない。だから、ね。そんなに自分を責めないで」
「でも……っ」
「今回、神林は気づけなかったかもしれないけど、代わりに病院の人がちゃんと気づいてくれた。だから神林の旦那さんは今、どうにか命を繋いでるんでしょ。それに、まだ鬱病の件が原因だって、確定した診断が下されたわけじゃないんだから」
「…………」
「大丈夫、きっとなんとかなる。だから気をしっかり持って」
雅の選ぶ言葉はどこまでいっても柔らかい。混乱のあまり他の手段が思い付かなかったとはいえ、雅を呼びつけたことを紬は半分だけ後悔した。この人はいつもいつも、紬に優しすぎるのだ。大事な後輩記者だからといって、ことあるごとに甘やかそうとする。甘やかしは真実や現実を見落とす契機になる、自発的に戒めねばならないものだというのに。
だが、紬はどこまで行っても結局、雅の優しさからは逃れられない。
「ごめんなさい」
鼻を啜り上げて、眉を押し下げた。
「もうちょっとだけ、ここでめそめそさせてください……」
雅の前では年下になれる。母親の重圧からも、妻の役務からも、新聞記者の地位からも解き放たれて、分厚い皮の下に隠れた本物の自分のままでいられる。弱気な自分を許してくれるのは、今、この場所だけなのだ。
「いいよ。付き合う」
雅は微笑んでくれた。
ヒグラシの歌声がやけに大きかった、茹だるような暑さの残る秋の夕方。
何もかもが間に合わなかった悲嘆に暮れ、絶望と失望に打ちのめされながら先輩の腕のなかで流した涙の熱さを、紬はまだ、克明に覚えている。
雅以外の人には真実を白状していない。自分の実家にも、彼の実家にも、意識不明であることだけを伝えた。白状したら最後、元のような日々が二度と戻ってきてくれないように思われて、保身に走ってしまったのだと思う。
紬は臆病だった。
そして、あの日を境に、臆病ではいられなくなった。
あれから三年。
紬を一人親に追い込んだ秋の日付が、もうじき立川の街を再訪しようとしている。
目前に迫った『立川音楽まつり』本番。
懸命に演奏を繰り広げる里緒だったが、その最中、誰も予想していなかった事態が生じる。
初めての演奏はいったいどうなる?
里緒は演奏の腕に自信をつけられるのか?
管弦楽部は無事、コンクールの練習に着手することができるのか?
無数の思惑が混ざり合い、ぶつかり合い、物語は波乱の第三楽章にもつれ込む。
そして。
もうひとつの重大な“危機”が自分の身に迫っているのを、このときの里緒は知る由もなかった──。
──【第三楽章 不協和音の波に打たれて】に続きます。