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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第二楽章 漆黒の魔笛は哀を歌う
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C.062 里緒の謎

 




 日産新報立川多摩支局は、『立川ドリームワールドビル』の八階に入居している。大きな横長の窓から外へ視線をやると、ちょうど建物の真下あたりに公園が見えた。猫の額ほどの広さしかない、せいぜいベンチが据えられている程度の寂しい公園──立川北口公園である。あの公園がオフィスワーカーの休憩場所以外の用途で使われているのを見かけたことは、目下のところ皆無に近かった。

 コーヒーのカップを手に、紬は眼下の公園に目をやった。

 お揃いのTシャツを羽織ったスタッフたちが、何かの準備に励んでいる。


立川北口公園(そこ)もステージになるらしいよ」

騒々(そうぞう)しくなるなぁ」

「座れなくなっちゃうじゃないか。明日の昼飯どこで食べようかな」


 と、支局所属の同僚たちが背後でのどかに語り合っていた。明日はいよいよ、立川の街全体をステージに仕立てた一大イベント『立川音楽まつり』の日である。文化芸能部に所属する雅はきっと取材で大忙しに違いない。


(いいなぁ)


 紬は無言でぼやいた。

 紬だって参加したい。出演する側に回りたい。だが、あいにくと何の練習もしていない。せめて明日は方々(ほうぼう)のステージを(たず)ね歩いて、自分以外の表現者たちの音楽に耳を傾けよう──。新聞記者らしく心持ちを整えて、自分の席に戻った。

 パソコンは休憩前に開いていたページのまま止まっていた。同業他社・産建新聞社の書いたオンライン記事である。


【日野市自動車工場過労自殺、背景には違法な就労実態と隠蔽体質】


 今年の二月以来、紬の継続的に追っていた案件だった。あと一歩のところで核心にたどり着くのが間に合わず、先に記事を出されてしまった。今さら何かを書いても後追い記事にしかできない。

 紬は嘆息した。耳敏(みみざと)く聞き付けた同僚たちが、傷心の紬に声をかけてきた。


「見たよー、神林さんも産建にやられたんだって?」

「俺もこないだネタ取られたぞ!」

「スクープ狙い始めると早いですよね、あそこ」

「落ち込むことないっすよ。下手にリーク鵜呑みにして飛ばし記事書いて叩かれるよりマシっすよ」


 調子づいた誰かが自虐めいたことを口走って、フロアいっぱいに笑い声が満ちる。ほんとですよー、と紬は情けなく笑って返した。ネタを取られて凹んでいる時、こういう言葉をかけてもらえるのは本当にありがたい。

 立川多摩支局には嫌味を言ってくるようなデスクも同僚もいないのが幸いだった。こんな展開が続くたび、つくづく、自分の未熟さを思い知らされる。本社勤務になれないのも文化芸能部に移れないのも、まだまだ紬には足りないものがたくさんあるのを神様に見通されているからだろうか。むろん実際は、自分が昇進機会を無視し続けているのが理由である。だが、神様という上位概念に責任を押し付けて一時の納得を得ることが、紬にはどうにもやめられないのだった。




 思えば、この仕事に就いてからというもの、自信や誇りといった代物からはずいぶん距離が開いてしまった気がする。

 休む間もなくあちらこちらを走り回り、人と会い、本や雑誌や資料を読み漁り、もっとも真実に近い姿をした情報へと迫る。新聞記者というのはそういう仕事だ。そして、注ぎ込んだ膨大な量の努力は、そのすべてが目論見(もくろみ)通りに(むく)われるわけではない。誤った情報を(つか)まされることだってあるし、徒労に終わることだって山のようにある。

 記事が何本書けようともいっこうに自信の醸成に繋がらないのは、いくら経験を積んでもどうしようもない部分があるというのが、段々と分かるようになってきたからかもしれない。


(自信をつけるんじゃない。(くう)(つか)んでも意に介さない、その強さが手に入るだけ)


 それこそが新聞記者の最終理想形なのではないかと、近頃の紬はとみに思う。

 今にして考えれば、中学や高校の頃は幸せだった。努力を重ねれば(おの)ずと力はついたし、比例するように自信を蓄えられた。勉強でも、人間関係でも、趣味や部活でも。努力でどうにもならないのは恋愛くらいのものだった。


(それこそ、里緒ちゃんあたりはもっと自信を持ってもいいくらいよね)


 ブラウザの右上にマウスポインタを持っていきながら、浮かべた笑みをちょっぴり、変えてみる。他社のニュースはワンクリックで画面から消え去った。オトナの世界なんて所詮(しょせん)こんなものだと思った。

 こういうことを言うときっと里緒は否定してしまうのだろうが、里緒のクラリネットは間違いなく、上手い。

 そしてそれ以上に、楽器や楽譜に向き合う目の色が、美しい。

 もっと自信を持てば幸せに生きられるだろうに──。どこからともなく湧き出した甘酸っぱいつばを、紬はコーヒーで喉の奥へ押し流した。

 さぁ。

 迎えの時間まで残り一時間。

 あと少しだけ、仕事にかかろう。

 閉じてしまったブラウザを呼び戻し、ホームボタンを押して検索エンジンにアクセスする。


 その時、ふと思い立って、【高松里緒】と入力してみた。

 里緒はどうあっても己の腕前を誇ろうとしないが、あれだけクラリネットが吹けるなら中学時代には何かを成していても不思議はない。案外、何かの演奏会にでも出た時の履歴が引っかかるかもしれない。動機なんてその程度のものだったが、とにかく名前を入力して検索をかけてみたのである。






『高松りおマジで消えたんだけど。笑』






 引っ掛かったのはサイトの一ページだった。

 匿名でコメントの書き込みの行えるページのようだった。タイトルは【仙台のヤバい学校事情に首を突っ込む場所 7】──。いじめ事件の報告や悪名高い教師・モンスターペアレントの告発、発生した事件や事故の解説、さらには何の裏付けもない特定の教員や生徒の中傷までもが行われていた形跡があった。少し目を通してみた限りでは、生徒たちや近隣住民の()さ晴らし目的で運用されているページのようだった。

 紬は眉を潜めた。

『高松りお』とある。これは、もしかしなくても里緒のことなのか。少なくとも里緒の本名とは一致する。

 しばらくスレッドを調べ回した。『まって何の話? 何組?w』『あれは佐野中の闇』『親も死んでるって噂あるよなー』『黒松は自業自得笑 アイツが目立ちすぎただけ笑笑笑』──。関連するとみられる発言が山のようにヒットした。

 “佐野中の闇”。

 “親も死んでる”。

 “目立ちすぎただけ”。

 里緒は中学の時に母を失い、吹奏楽部を一年で辞めている。──もしや。


(これは……)


 マウスを握る手に汗がにじんだ。手を口元に宛がい、紬は総毛立つ肩を深呼吸でどうにか落ち着けにかかった。漏れた吐息は氷のように凍てついていた。

 地方支局所属の記者として何年も様々な事件を追っていると、背景にどれほどの事件性があるのかが体感的に分かるようになってくる。そして今、瞬間的に膨れ上がった冷たい予感が、寒気となって全身を激しく駆け抜けつつあった。

 里緒の名前こそ出ていないものの、その後も不穏な書き込みはおよそ数十に渡って続いている。検索エンジンを別タブで開き、【佐野中】と入れて検索をかけた。仙台市青葉区に同名の公立中学校が実在しているようで、公式ホームページには部活の紹介ページへのリンクが並んでいた。そこには吹奏楽部の名前もあったが、見つけたリンク先のページは二年前から更新が止まっていた。

 二年前当時、里緒は二年生のはずである。何の気なしに二年部員の紹介ページを覗いてしまった紬は明確に後悔を覚えた。……『高松里緒』の紹介欄は名前こそ従前のままになっていたが、顔写真のあるべき場所には真っ黒な画像が映し出され、自己紹介文には無数の『■■■■』が既存の文字列を置き換えるように並んでいた。

 消えたのではない。()()()()のである。そう理解しなければ説明がつかなかった。


【佐野中 高松りお】

【佐野中 黒松】

【佐野中 クラリネット】

【佐野中 吹奏楽部】


 思い付く限りのキーワードを片っ端から検索にかけていった。キーボードが不愉快に甲高い操作音を立てるたび、画面にはありとあらゆる出所の情報が乱れ飛び交った。学校裏サイト、匿名掲示板、ブログ、SNS、個人のホームページ……。


『駅の方に救急車とパトカー来てんじゃん笑笑 あれ黒松のとこだよね?? マジうるせぇw』

『息子の中学の卒業式の写真。誰かさんの顔がなくて清々しますね』

『【朗報】佐野中吹部、邪魔者を消した勢いで吹コン県大会金賞!』


 血の気が引いてゆくのをこんなにもありありと感じたのは、いったい何年ぶりのことになるだろう。マウスホイールから指を放し、ぐったりと背もたれにもたれかかった紬は、それからもしばらく茫然と、無機質なパソコンの画面に目をやっていた。




 里緒は何か、人には言えない壮絶な過去を抱えている。……思えば家庭の事情を聞き付けた時から、薄々とそんな予感を抱いてはいた。

 そして、これらの証拠がすべて真なら、彼女は恐らく極めて悪辣(あくらつ)()()()を経験していたことになる。


(あなたは……)


 鋭く、重たい問いかけが、紬の細い身体もろとも心を貫いて地面に刺さった。


(あなたはいったい、向こうで何を見てきたの)


 分からない。

 自分のこととなると途端に、里緒は黙して語ってくれなくなるから。

 分からないけれど知りたい。分からないからこそ知りたい。その欲望は新聞屋としての矜持(きょうじ)ゆえか、それとも情報を漁って金に換えてきた半生の賜物か。その答えが紬の前に姿を表す前に、気づけば、(かたわ)らの手帳にペンと手が伸びていた。






 適切な機器をもってレコードを引っ掻き回せば、いくら盤が古くとも音は鳴る。ひとたび、意思を持ってどこかに刻み込まれた音や声は、年月が経っても決して消えはしない。

 音は、声は、刻んだ者の意思など関係なく、波に乗って世界中を回り続ける。




 立川音楽まつりは十数時間後に迫っていた。











第二楽章はここまでです。


登場人物紹介を挟み、

【Interlude ──〈凶音〉】に続きます。

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