C.061 変わりゆく未来
放ったらかしにしていたスマホの画面をつけると、花音からのメッセージが届いていた。
(明日は第十三会場で午後二時から、か)
プッシュ通知を見て内容を確認した紅良は、再びスマホをカバンに放り込んで、ケースを放置してあった練習室の隅に向かった。時刻は午後九時半になろうとしている。練習が終わったばかりの練習室には、まだ国立WOのメンバーが何十人もひしめいている。
ケースの脇には翠とつばさの姿があった。花音から誘いの声がかかっているのを伝えようかと思ったが、すでに二人とも、解体しかけの楽器をいじくりながら楽しげに言葉を交わしている。紅良は黙って傍らに腰かけた。
「だからー、あたしの位置からだと指揮棒がよく見えなかったんだって! あたしの背が低いんじゃなくて恵庭さんの背が低いの! あと、前にずらっと並んでるクラパートが邪魔なの!」
「いや、要するに翠の座高が低いってことでしょ、それ」
「ちーがーうー! チビ呼ばわりすんな!」
「なに? そんなにチビ呼ばわりされたいの?」
「そんなこと言ってないしっ」
「分かった分かった。あー、いま思い出したけどうちのパートの立国の子もおんなじこと言ってたなー。『津久井さんってなんであんなに身長低いの?』って」
「西元さん助けてよ、つばさが虐めてくるぅ!」
しまいには紅良にまで飛び火してくる。すがりついてきた翠を、紅良は手先で追い払った。鬱陶しい。
「ひどい……。みんな寄ってたかってあたしを邪険にする……」
翠が嘆いた。つい、良心が歪んで、クラリネットのケースを取りながら言ってしまった。
「津久井さんの背が低いのは今に始まったことじゃないでしょ」
「うわ最低! 自分は背高くてスタイルいいからってバカにして──っ!」
いよいよ怒り心頭の翠が、今度はつばさのもとに逃げ込もうとして彼女にも追い払われている。興味をなくした紅良はマウスピースを俵管から取り外して、ケースの中の定められた位置に押し込んだ。
事の発端は今日の練習で、翠が指揮者の指の動きを無視してしまい注意を受けたことだった。以来、団員たちから口々にいじられ続けて今に至っている。こんな些細な話題で騒げるだなんて、この二人は何かの天才なのではないかと紅良には思えた。深刻な悩みなんて何もないかのようで、心底、羨ましい。里緒ともども弟子入りしたいところである。
紅良がクラリネットの解体を終える頃には、周りの団員たちもおおむね撤収準備を終了していた。お早めに退出をお願いしまーす、などとルームマネージャーの女性が叫んでいたが、みんな各々の雑談に興じるばかりでいっこうに帰ろうとしない。このまとまりのなさが国立WOの当たり前だった。軍隊よろしく統率の取れている中高の部活動などとは比べるべくもないが、それで十分、紅良にとっては居心地がいいのだ。
翠はまだつばさに今日の練習での失敗をバカにされている。どうしようもなく空虚な彼女たちのやり取りを耳に挟みながら、ぼうっとケースの持ち手を握っていると、不意に右の肩へ誰かの手が置かれた。
「練習後なのに元気だねー、あの子たち」
振り返ると、同じクラリネットパートの女性たちが押し掛けてきていた。紅良は苦笑いとも呆れ笑いともつかない何かを口元に描いた。
「すみません。うるさくしちゃって」
いいのいいの、と彼女たちは笑った。近所の国立大学の学生から、定年に達して市役所勤めから解放されたという還暦の女性まで、人数の多いクラリネットパートの顔ぶれは実に豊かである。
「指揮の恵庭さんとも話してたんだけど、西元さんも順調に国立WOの空気に馴染んできたね」
「ほんとねぇ。〈G線上のアリア〉なんか、まだ一ヶ月くらいなのにしっかりモノにしちゃうし!」
「やっぱり最近の若い子は物覚えが早いのねぇ」
「中学でも経験してますから」
謙遜しないでよー、と彼女たちはまた笑った。謙遜したつもりのなかった紅良は、形ばかりの笑みで応答しながら嘆息した。当たり前のことをやって褒められるというのは、あまり心地のいいものではないと思う。こういうところは里緒の価値観と似ているか。
先頭に立っていたスーツ姿の女性が、「そうだ」と封筒を差し出してきた。
「招待状……?」
受け取って、そこにあった三文字を読み上げた。彼女はうなずいて微笑んだ。須坂令子、主旋律を担当する1stクラリネットパートの首席奏者である。合奏では紅良の斜め前に座っているので、対旋律を担う2ndパートの紅良にとっても一番の顔馴染みでもあった。
「まだやってなかったなーって思ってね、うちのパートの歓迎会! 私たちもばたばたしててなかなか都合がつかなかったから」
紅良は目を白黒させた。六月上旬にもなって、今さらか。
「必須イベントなんですか、これ」
「そうそう、毎年恒例のね。八月の夏季演奏会まで三ヶ月を切ったじゃない? パート内の親睦を深める機会、うちのパートはこの時期に設けることにしてるの。ほんとは五月中がよかったんだけど」
国立WOの定期演奏会は年に三回、八月と十二月と三月に行われる。ほかの時期は定演までの間が短いので、確かに望ましいタイミングではあるのかもしれない。
なになにー、と翠たちが身を乗り出してきた。諦めて招待状を開封してみた。会場や時間も明記されていた。
「六月三十日ですか。……ずいぶん先なんですね」
「ごめんね、学生さんだと試験が忙しい時期だろうっていうのは分かってるんだけど、そこしか都合がつかないの」
六月三十日といえば、ちょうど一週間後には期末試験が始まる。
紅良は一瞬、逡巡した。断りを入れるべきか、入れないべきか。
以前の自分ならそんなことで悩みはしないはずだった。別に誰かと馴れ合うために国立WOに入ったのではない。きっぱり断ろうと、特にためらう余地もなく判断したはずだ。
「少し考える時間、いただけませんか。試験勉強との兼ね合いも考えなければならないので」
結局、そんな答えでお茶を濁した。しかし希望を丸ごと捨てられたわけではないと思ってくれたのか、彼女たちは表情を和らげた。
「連絡、待ってるね」
頑として素直にうなずかない紅良に焦れたように、翠とつばさは揃って灰色の息を漏らす。いいじゃない、これでも私、変わってきたんだから──。ささやかな言い訳を組み立てながら、ふたたび雑談に戻り始めた同パートの先輩たちの話し声に、紅良は黙って聞き耳を立てた。
曖昧な答えで誤魔化してしまったわりに、案外、悪い気分ではなかった。
入学から二ヶ月と半分。
自分は変わったと、紅良は思う。
何が、というわけではない。ただ何となく、変わった。自分でもうまく言葉に表すことのできない、紅良の人格の根っこを形成する部分が、たぶん、ほんのちょっぴり姿を変えたのだと理解していた。
そうでなければ今、こうして翠やつばさと普通に団員らしく会話をしているはずがない。登校するたび、宿題が解けないと泣きついてくる花音の相手をしてやるはずがない。里緒のことを気にかけるはずもないのだ。
(中三の頃の私なら、きっとそんなものには目もくれなかった。関わりたいとも思わなかった)
誰かと言葉を交わしていて、あるいは触れ合っていて、ふっと時おり我に返ることがある。そんなとき、紅良は以前までの自分を思い出す。吹奏楽部での人間関係が上手くいかずに、孤立していた頃のこと。誰かを理解したり、誰かに理解されるのを、少しも期待していなかったあの頃のことを。
尖っていた当時の面影も、高校に入ってからはずいぶん薄まった。変貌の原因には思い当たる節がある。
(……高松さん、どうしてるだろ)
こそばゆい感覚に背中を押されて、天井を見上げた。時刻は午後九時である。管弦楽部の練習はとっくに終わっているはず。里緒は明日の本番に向けて、イメージトレーニングにでも励んでいる頃合いだろうか。
カバンに放り込んだままのスマホを見やってから、改めて胸に確認を立てる。立川音楽まつりは見に行ってあげよう。誘いをかけてくれた花音のためにも、弱気ながらに頑張っているのであろう里緒のためにも。
──それから。
(八月のサマーコンサートには、あの二人のこと、誘ってあげよう)
紅良は天井から目線を剥がした。
厳しい練習の続く最中だろうし、少しでも気晴らしになったらいい。そのためにも紅良は人一倍の努力は積まねばならない。日頃あれだけ管弦楽部の腕前を蔑視していた手前、半端な演奏を披露してしまっては立場がなくなる。そんな後ろ向きな理由でも、頑張る理由がありさえすればそれでよかった。
「どこ見てんの?」
「翠には見えない場所を見てるんだよ」
横から尋ねてきた翠が、つばさの挟んだ余計な一言で三たび憤慨し始めた。相も変わらず能天気な二人の姿を横目に流し、紅良は温もった脈を打つ胸をそっと労った。──願わくは、こんな長閑な時間がいつまでも続くように。
この胸が失望のために痛む未来が、どうかいつまでも訪れないようにと。
「……あなたはいったい、向こうで何を見てきたの」
▶▶▶次回 『C.062 里緒の謎』