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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第二楽章 漆黒の魔笛は哀を歌う
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C.060 ひとりじめの想い

 




 席を立った時には午後八時を回っていた。

 こんな時間になっても、路上には高校生の姿が数多く見当たる。『カラフル』の面している商店街の路面に出て、一年生九人だけで丸い形をつくった。


「頑張ろうね、明日」


 学年代表らしく緋菜が声をかけた。先刻までの喧騒はどこへやら、ぐるりとマンホールを取り巻く少年少女の顔には、一様に不器用な緊張感と自信の(つや)が輝いていた。

 花音の自信だけ、どこか光量が足りていなかった気もする。


「俺、めっちゃ楽しみになってきた」

「うん。いける。絶対いけるよ」

「ばっちり成功させようね!」


 なんて、しばらく励まし合うように言霊(ことだま)を交わして、それからやっと解散した。

 明日は朝八時に学校に集合する。重量のあるティンパニやチェロといった大型楽器を搬出してから、全員でまとまって電車に乗り、立川の会場を目指す手はずになっていた。里緒や花音を含め、立川方面に家のある人は弦国との間を余分に往復することになるのだけれど、とかく集団行動に手間は付き物である。


(明日もちゃんと起きなくちゃ)


 無言で誓いを立てた。早起きには自信がある。

 去っていく仲間たちに手を振りながら、とん、と胸に拳を押し当てる。たまっていた苦い息が一斉に肺をあふれ出して、なにも言わずに虚空へ溶けた。



 “バトンちゃん”と出会ってから早くも一月が経った。この手に握った楽器で、明日、ついに花音は初めて人前で曲を奏でる。

 明日という日を無事に乗りきれたら、こんな初心者でも少しは里緒に近付けるような気がする。その一心で美琴に師事し、汗のにじんだクラリネットを握りしめ続けた。いつまでも高嶺の花のように思っていては本当の意味で“友達”になれない。せめて背伸びをしなくとも見上げられるくらい、近くへ行きたい。この二か月、そのことだけを念頭にクラリネットと向き合ってきた。


(みんなには分かんないよね)


 天に突き上げた両の手が、口にすることのできなかった複雑な感情を熱に換え、()かしてゆく。──そうだ、分かるはずがない。里緒が花音の中で人並み以上に大きな役割を果たしていることなんて、彼らには理解できるはずがないのだ。

 無意味な期待を振り切ってしまうと、ようやく前に踏み出る元気が湧いてきた。伸ばしていた腕を両脇に収め、花音は商店街の先に建つ国分寺駅のビルを見上げた。

 空に染み渡る夜の色が深くて遠い。賑わいに背中を押され、さぁ、と踏み出そうとした一歩の先に、どこか見覚えのある後ろ姿が見当たった。

 黒いセミロングの髪。膝丈のスカート。窮屈そうに片手にぶら下げられた、大小ふたつの箱。


「……里緒ちゃん?」

「ひぁっ!?」


 声をかけに行くと、彼女は地面から浮きそうな勢いで声を跳ね上げた。この声、この反応、この姿。間違いなく里緒である。

 無性に明るい気持ちが喉元へ込み上げてきた。恐る恐るといった風体で振り向いた里緒の肩を、花音は後ろから思いっきり両手で掴んで引き寄せた。スキンシップを取ったのさえ久しぶりのように思えた。「青柳さん」と里緒が耳元で(あえ)いだ。


「こんな時間まで何してたのー」

「れ、練習……。守衛さんに許可もらって」

「練習!」


 午後八時にもなって、まだ!

 花音は肩を握ったまま絶句した。花音たちが愉快にファミレスに押し掛けて壮行会を開いていた二時間もの間、里緒は本当にクラリネットの研鑽(けんさん)に励み続けていたのか。

 ()()()()()()()()どころの経過時間ではない。今さらながらに心が洗われる思いがした。天才の努力量は、やっぱり凡人のそれよりも多いのである。

 心なしか足早になりながら、申し訳なさそうに里緒はうつむく。


「その、青柳さんたちの方は、どうだった? 楽しかった?」


 花音は一瞬、答えるのをためらってしまった。


「……うん。楽しかった」

「よかった」

「みんな、里緒ちゃんも来たらよかったのにーって言ってたよ? 一緒に晩ご飯とか食べてみたいって!」


 わざと声のトーンを上げて、里緒に負けない笑みを浮かべてみる。胸の奥でくすぶる灰色の感情を、これで少しは誤魔化すことができたかと思った。

 駅ビルの入り口が見えてきた。肩に()げたカバンに手を突っ込み、ICカードを取り出した里緒は、印字された定期の情報をじっと見つめる。まぶたを半分閉じて、首を振った。


「……だといいなぁ」


 今、里緒は何かを言いかけて、やめた。

 とっさに気づいたが、()き消された言葉をどうすれば聞き出せるのか、花音には分からなかった。

 改札口は混み合っている。里緒の通過した自動改札機を、花音も後ろに続いてくぐり抜けた。入学したての頃など、里緒はゲートを通るたびにあたふたとして周囲の顰蹙(ひんしゅく)を買っていたものだった。里緒ちゃん、慣れたなぁ──。感慨深い思いでブレザーの背中を眺めていたら、不意に、その背中が向こうを向いてしまった。


「青柳さん」


 首からかけていたイヤホンを、里緒は花音の方へと差し出した。


「あのね。……また、感想、お願いできないかな」


 一瞬、求められているものの意味に花音は思い当たらなかった。


「〈クラリネット協奏曲〉?」

「うん」

「私でいいの?」


 不安になって尋ね返した。花音にはあの曲を『お葬式』呼ばわりしてしまった前科があるというのに。……だって、あまりにも眠たくて、退屈な曲だったものだから。

 里緒は控えめにうつむいた。


「他の人にはどうしても頼みづらくて……。青柳さんなら、大丈夫」


 ……青柳さんなら大丈夫。青柳さんなら大丈夫。青柳さんなら大丈夫。

 たちまち頭のなかを跳ね回った九文字の台詞が、他の思案をぜんぶ頭から弾き飛ばした。次の電車は何分発だろう。降りるホームはどこだっただろう。物事の判別がつかなくなって呆然と立ち尽くした花音だったが、不安げに里緒が視線を落としていくのを目にして、慌ててイヤホンを奪い取った。


「聴く!」

「えっ、でも」

「私だって里緒ちゃんの役に立てる! 立ちたいもん!」


 里緒は目を丸くした。

 ついに言ってしまった。言ってしまったが、後悔なんて欠片(かけら)も存在しなかった。それが初めから、自称“一番の友達”たる花音の本心。嘘なんて少しも口にしていないのだ。


「……いいの?」


 里緒はまだためらっている。「いいよ」と花音は胸を張った。


「花音様だから!」


 下り線のホームは混んでいたが、ベンチにいくらか空きがあるのを発見して二人で腰掛けた。里緒が右耳に、花音が左耳に、それぞれイヤホンを装着して〈クラリネット協奏曲〉を再生する。構内放送や電車の走行音、それに行き交う乗客たちの足音や声で汚らしくあふれ返った世界の左側に、あのスローテンポな音楽がまったりと流れ出した。弱く()柔らかに(dolce)、そしてゆるやかに(adagio)

 外の世界との雰囲気のズレは大きい。“1/fのゆらぎ”とか言ったか、モーツァルトの曲には聴く者の落ち着きを促す何かがあるそうで、それが強い眠気を引き起こしてしまうのかもしれない。よく分からない科学的根拠など花音にはどうでもよかった。それどころか、こうして里緒と隣り合って耳を澄ませる二度目の演奏は、以前ほど退屈なものにも、つまらないものにも感じられなくて、むしろそれとは真逆の感情を花音の胸に惹起した。

 こっそりと、花音は里緒の横顔を(うかが)った。

 里緒は膝の上に楽譜を広げ、握ったペンの先を押し当てながら、じっと黙って目をつぶっていた。




 嬉しかった。

『青柳さんなら大丈夫』──。そう言ってもらえて、本当に、本当に、嬉しかった。

 花音はまだ里緒の特別でいられているのだ。あんなにちやほやされていても、素敵なクラリネットの音色で誰かを魅了していても、花音が里緒に特別の信頼を置かれている事実は揺らいではいなかった。里緒の言葉は何よりも確実に、着実に、それを証明してくれた。

 花音が里緒を手放さなければ、里緒は花音を手放さないでくれる。

 胸をいっぱいに満たした確信の匂いは甘くて、温かくて。このままいつまでも里緒と一緒にこうしていたいと思った。いつまでも、いつまでも、隣に座って同じ曲を聴いて、里緒の好意を独り占めしていたい。余裕ができたら紅良のことを誘ってやってもいい。

 誰が何と言おうと、里緒の魅力は花音が一番に知っている。

 里緒の努力だって知っている。

 里緒の苦悶に、こうして誰よりも近い場所で寄り添っている。

 その自負が胸から剥がれることはない。このまま誰にも触れさせたくない。


(ねぇ、里緒ちゃん)


 ()れたイヤホンのコードを、花音は小振りな手で(つか)んで、握りしめた。


(ここにいていいんだよね。甘えていいんだよね。里緒ちゃんのこと、大切だって感じてもいいんだよね)


 もう二度と、つらい別れなんて経験しなくてもいい。置いていかれる痛みなんて経験しなくてもいい。そうだよね、里緒ちゃん──。

 第二楽章の演奏時間はおよそ八分間。花音はひたすらに、そんな静かな祈りと期待の海の中に浸かっていた。相変わらず曲の感想めいたものはちっとも浮かばなかった。けれども、今、この胸を満たしている安心感は、〈クラリネット協奏曲〉の描き出す穏やかな世界がもたらしてくれたもの。それだけは自信を持って言えそうだった。




 それぞれにカタチの違う思惑を抱え、口を(つぐ)んで隣り合う二人の少女を、夏前の夜風は優しく撫でて立ち去ってゆく。

 午後八時。

 国分寺の街はまだ、清濁(せいだく)の入り交じった音の世界に肩の上まで沈んでいた。









「中三の私なら、きっとそんなものには目もくれなかった。関わりたいとも思わなかった」


▶▶▶次回 『C.061 変わりゆく未来』

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