C.059 壮行会
国分寺駅前のファミレス『カラフル』はひどく混雑していた。土曜日の夜ともなれば当たり前で、周りには自分たちと同じくらいの中高生の集団がいくつもコロニーを作り、笑いあっている。こんなところで芸文附属に会ったら嫌だね、なんて冗談めかして言いながら席について、メニューを決めにかかった。
真っ先に運ばれてきたのは舞香の注文である。
「わー、美味しそう! わたしここ来たの初めてなんだ!」
「いいなぁ! ね、それって何だっけ?」
「『大葉おろしのハンバーグ』ってやつ! 見てよこれ、盛り付けまでお洒落っ」
箸もつけないうちから舞香は大喜びしている。つい今しがた、額に汗をにじませながらフルートを握っていた人のテンションには見えない。私もそうなのかな──。舞香のプレートに身を乗り出して温かな匂いにうっとりとしながら、ふと、花音は冷めた感覚が身体の中を駆け抜けるのを覚えた。
今はこうして満足げに舌鼓を打っている舞香も、羨ましそうに隣から視線を送っている緋菜も、光貴も、忍も、そのほかの一年も、いざ練習が始まれば性格を変える。菊乃のスパルタ気味な指導に顔をしかめ、汗を拭きながら、それでも文句も言わずに楽器にかじりつく。そこにあるのはもはや、何も知らずに先輩たちの一挙一動に感心するばかりだった一年生の姿ではない。
おーい、と向こうから声がかかった。
「『チキンと焼き野菜のキーマカレー』頼んだの誰ー?」
「はいはいっ! 私!」
花音は威勢よく手を挙げた。彩り豊かな三色の野菜が、香ばしい匂いの立つチキンカレーに美しいアクセントを加えている。美味しそう、とばかりにつばを飲み込む周囲を見回してちっぽけな優越感を満たしながら、口に出せなかった灰色の吐息を花音は“丹田”の底へ落とし込んだ。
やっぱり里緒と来たかった。
でも、今の花音がいくら何を言って誘っても、里緒はファミレスではなくクラリネットを選んでしまうだろうと思った。
唐突に里緒の話題が飛び出したのは、誰もが一通りメインディッシュを平らげて、みんなで盛り合わせのポテトをつまみながら雑談に興じていた時のことだった。
「──そういや、高松さんとこうやって外食したこと、一度もないよね」
トランペットの浪江真綾がつぶやき、すぐに舞香が食い付いた。
「わたしもない」
「え、そうなの? だって同じ係じゃん」
「やることが終わると一目散に帰っちゃうんだよ。そうでなきゃ花音に捕まってるか、最近は一人で居残り練習してるか……」
「あー。なんとなく情景がまぶたに浮かぶ」
納得の顔で真綾は唸った。一年の真綾と二年の丈だけで構成されるトランペットパートは、よく二人だけで外食に出向くことがあるのだという。
「クラパートはそういうのってないの?」
尋ねられた花音は苦笑いした。とっさに脳裏をよぎったのは美琴の仏頂面だった。
「ないなー。茨木せんぱいはあんまりそういうの好きそうじゃないもん」
「高松さんとも?」
「うん。里緒ちゃんってお昼は必ずお弁当だし、夜も急いで帰ってっちゃうから」
本当は行ってみたくてたまらないし、何とかチャンスを掴みたい一心で毎日のように声をかけてはいる。だが、目下のところ里緒は一度も応じてくれていなかった。
「えー、ほんとに一度もないわけ?」
「高松さんとご飯行くような経験がありそうなのって花音だけだよ?」
舞香たちに急かされ、花音は虚空に指を折ってカウントを試みた。ここ一週間、ここ一ヶ月、ここ二ヶ月、入学式から今日まで──。どんなに範囲を広げても、親指以外の指が折れ曲がることはない。
「定演終わりに先輩たちとお昼行った時だけだと思う」
うっそー! と舞香が叫んだ。さすがは元合唱部員、ここが音楽室だったら隅々まで反響しているような声量だった。
「あの子、花音とでもダメなんだ」
「むしろ誰とだったらご飯食べたり遊びに行ったりするんだろ」
「そもそもそういうの苦手なんじゃないの、高松って。だから誘いにも乗らないのかも」
「風邪って言って『にっさんランド』にも来なかったしなぁ」
納得の感嘆が一斉に漏れている。手持ち無沙汰になってつまんだポテトを、ぽいと花音は口の中へ放り込んだ。ずいぶん塩辛い味がした。
苦手、なんだろうか。
花音には慣れていないだけのように見える。
「誘われたり一緒に何かをすることに不慣れなだけなんじゃないかなぁ」
奥歯でポテトをすりつぶして、飲み込んで、花音はわずかに身を乗り出した。
「それにすっごく恥ずかしがり屋さんなんだよ、里緒ちゃんって。だから遠慮しちゃうのかなーって私は思ってたんだけど」
「不慣れってレベルじゃないように見えるけどな、あれ」
パーカスの元晴が半月形のポテトを二本指でつまみ上げた。
「入学から二ヶ月も経ってんだぞ。二ヶ月間、花音みたいなのにずーっと誘われ続けてもまだ慣れないって、それかなりの重症なんじゃないの? そうでなきゃ俺らのことが好きじゃないのか、何かトラウマでもあるのか……」
スティックを振り回す元晴の指はがっしりとして太い。その太い指が無意味にポテトを空中に泳がせているのを眺めながら、もっともな見立てだと花音は思った。重症か、好かれていないか、トラウマか──。決して気持ちのいい賛同ではなかった。
だいたいさぁ、と舞香が不満げに眉を傾ける。
「ご飯に限らないじゃん。練習の合間だってひとりでパート譜やら総譜やら読んでるか、最近はイヤホンで音楽聴いてばっかりだし。声かけても聞こえてないし。なんか、自主的に独りの環境に身を置こうとしてる感じがしなくもないよね」
「あんまり私たちにも関心なさそうだしね」
真綾も続けた。ふたたび暇になってしまった指を、花音は例にならってポテトの山に伸ばした。心なしか塩味が一段と濃くなった。
そんなことないよ。
里緒ちゃんは勇気が足りないだけ。
私みたいに勇気を持てば、きっと、すぐにでも──。
「意外とあれでかっこいいって思ってたりして」
「まさかぁ!」
「あの高松さんがそんなこと思うわけない!」
仲間たちの笑い声が虚しく耳元で響き渡る。花音の無言の反論はまるで届いていない。口に出していないのだから当たり前だった。
なすすべのないまま、話はどんどん暗い方向にエスカレートしてゆく。
「いや、独りでいることが悪いってわけじゃないし、実力相応ならなんか孤高って感じするし……。でもぶっちゃけさ、高松さんって割としょっちゅう滝川先輩からダメ出し受けてるよね」
「それ、私も思った」
「初心者の俺たちがダメ出し食らうのはまだしも、経験者の高松があんなに注意されてると目立つんだよな」
「てか、下手したら今いちばんクラパートの足引っ張ってたりしない? ──ねぇ花音」
「へっ?」
びっくりした、誰に向けられた言葉なのか分かっていなかった。目を真ん丸にしてしまった花音の胸に、鋭利な質問の言葉が何本も飛んできて突き刺さった。
「花音だってクラ上手くなってきたじゃん。音程で怒られることもあんまりないでしょ、最近」
「花音的には高松さんの演奏、どうなのよ?」
そんな、いかにも忖度を求めていると言わんばかりの質問をされたって。
花音はぐっと痰を飲んだ。『今でも里緒ちゃんの音色は憧れだよ』──。それが紛れもない本心だったし、それは同時にこの場に求められている答えではなかった。
おかしい。
いつからこんなにストレスフルな会になってしまったのだろう。
「い、茨木せんぱいも里緒ちゃんも、まだまだ私じゃ追い付けないくらいクラ上手いし。息の使い方だって分かってるし。だから──」
「花音の目は真っ直ぐすぎるんだよ」
口を尖らせた舞香が花音の言葉を遮った。息を飲み、花音は彼女の不服げな眼差しを見つめ返した。
彼女の表情を作ったのはいったい誰なのだろう。里緒か、花音か、それとも全体か。とりあえず曖昧に笑って、最後のひとつになろうとしていたポテトをつまみ上げた。萎びたポテトは冷えていて、今までで一番、濃い塩の味がした。
この数日間、里緒は〈『天地人』〉と〈クラリネット協奏曲〉の練習をどうにか両立させようと躍起になっている。花音は、それでいいと思う。さっきから緋菜やヴァイオリンの小萌が微妙な表情を浮かべて黙っているのを見ると、里緒同様にコンクールメンバーである彼女たちも同感なのだろうと思われた。もちろん花音には経験のないことだけれど、独奏パートの演奏が生半可な練習量では成功させられないことなど、想像するのはそう難しくはない。
でも、それはきっと花音の立ち位置が里緒に近いから。
普通の感覚で言えば、今は目の前に迫りつつある課題曲に一心不乱に取り組むべき時期に他ならないのだ。
ましてや、その曲は花音を含めた大半の新入部員にとって、初めて経験するハレの舞台での演奏になる。せっかくのデビュー戦を華々しい成功で飾りたい気持ちなど、花音だって人一倍は持っている。
そうだとしても──。
花音は外向きの笑顔の下で、そっと黙って眉を押し下げた。みんなは忘れてしまったのだろうか。
(あんなに里緒ちゃんのクラ、すごい、すごいって言ってたじゃん……)
初心者の花音にだって分かる。あの透き通った音色が、儚げな唄が、ちょっとやそっとの練習で手に入るものではないことなんて。それが、ほんの数ヶ所ほど周りとテンポがずれたくらいで、少しばかり指揮を見逃したくらいで、音量が足りないくらいで、そんな無下な言い方をされなければならないのか。
里緒の悪口にも飽きたのか、やがて話題は菊乃の厳しい指導への愚痴や文句に移っていった。これなら安心して加われる。罪滅ぼしのような心持ちを抱え、花音も積極的に首を突っ込んで話に混ざった。里緒や美琴への文句がない代わりに、菊乃に言いたいことなら山のようにあった。初心者にハイレベルを求めすぎだとか、いっぺんに下される指摘が多すぎて消化しきれないとか。
でも。
「──あーっ、それ私も! 滝川先輩がこっち見るとつい背筋伸びちゃう!」
「──だよねだよね! もー、かまってくれるのは休み時間だけがいいー」
なんて、勢いにまみれて誰かへの不平を吐き出すたび、喉の奥へ小骨が刺さるような感覚が走って、どうにも逃れられなかった。
「他の人にはどうしても頼みづらくて。青柳さんなら……大丈夫」
▶▶▶次回 『C.060 ひとりじめの想い』