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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第二楽章 漆黒の魔笛は哀を歌う
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C.058 頼られたい人

 




 最近、里緒がちっともかまってくれない。

 今日も今日とて、暇さえあればスマホにイヤホンを繋いで、難しい顔で楽譜に向き合っている。

 これでは声をかけに行くことさえ(はばか)られる。もっとしゃべりたいのに! ──うずく思いをどうにも処理しきれず、花音は腰かけた椅子の上でぶらぶらと足を無為に揺らした。

 午後一時を回る少し前。空っぽになった弁当箱が、机の横で持ち主の真似をして揺れている。この三日間ほど、同じような光景を飽きるほど目にしてきた。

 里緒が目を閉じて、見開いた。

 握ったペンを楽譜に走らせた。

 脇に置いた本をめくって、(しおり)を挟んだ。あれはモーツァルトの伝記らしい。モーツァルトの何たるかを花音は知らない。せいぜい、チーズの名前みたいだなぁ、程度の失礼な印象を抱くばかりである。

 里緒の一挙手一投足に目を光らせていると、不意に視界を背の高い女子が横切った。


「何してんの」


 紅良だった。花音は目もくれずに答えた。


「別に何も」

「教卓の上の解答、まだ取りに行ってないでしょ」


 ひらり、国語総合の中間テストの解答が眼前を舞う。四限の授業の終わりに、先生が置き去りにしていったものである。

 要らないと花音は首を振った。終わったテストの答えに関心はない。たった五割しか点を取らせてくれなかったテストなどに、わざわざ興味を向けてやる義理はないのだ。


「里緒ちゃんは何点だったんだろうなぁー、あれ」


 ぼやくと、紅良の目がようやく里緒の方を向いた。


「花音よりはいいでしょうね」

「そんなの言われなくても分かってるし!」

「……何よ。機嫌、悪いな」


 “一番の友達”がこっちを見てくれないのだから悪いに決まっている。花音はフンと鼻息を発した。そんなことも分からないから、紅良は花音の中で里緒以上の存在にはなれないのである。

 今日は生徒会代表委員会の活動があるようで、昼休みが始まってから隣の席には芹香の姿がない。くたびれたように息を漏らし、紅良は芹香の席に腰を下ろした。その手にはコンビニのおにぎり弁当が収まっている。が、それを見ても花音の摂食中枢は特に刺激されなかった。


「邪魔しないの」

「別に邪魔しようとなんて……」

「高松さんが頑張ってる最中なんだってことくらい、花音だって分かってるんでしょ」


 そういうことじゃないんだもん──。花音は唇を(とが)らせた。花音なりに精一杯、抗議を示したつもりだった。

 里緒が近ごろ頑張っていることくらい花音だって知っている。それこそ、紅良などに指摘されるまでもない。演奏そのものに苦労しているわけではないことも、イメージが浮かんでこないのが彼女の悩みの種であることも、みんな里緒から聞いている。

 分かっていても何もできない自分がもどかしい。多分、それだけのことなのだ。

 紅良が弁当の包装を()き始めた。おにぎりが二つと唐揚げがひとつ、玉子焼きがひとつ。呑気(のんき)なもんだ、と思った。


「西元はなんでこんなに呑気なんだろ」

「……花音。悪口が声に出てる」

「いいもん西元が相手だし。──ね、私ってそんなに頼りないかなぁ。私だってもっと里緒ちゃんの役に立ちたいのに。『さすが親友』って思われたいのに」


 呆れたように紅良は鼻を鳴らし、頬杖をついた。


「あれ聴かされて出た感想が『お葬式みたいな曲だね』じゃ、頼りにされるわけないでしょ」


 花音はたちまち耳まで真っ赤になった。いったいどうしてそれを紅良が知っているのか。初めて〈クラリネット協奏曲〉を聴かされた時、花音が思わず口走ってしまった言葉ではないか!


「誰! それを西元なんかにしゃべったの誰──ッ!」

「私、花音が思ってるよりも顔広いから」


 すました顔で紅良はおにぎりを頬張る。腹いせのつもりで、隅っこに転がっていた唐揚げを抜き取ってやった。紅良が怒りの形相で目を見開いたが、無視して口に放り込んだ。

 むろん、食欲が湧いていたわけではない。足りないのは食べ物でもクラリネットの演奏技術でもないのだ。里緒からの気持ち。アプローチ。──信頼。

 諦めたように紅良は食べかけのおにぎりを飲み込んだ。それから、憮然(ぶぜん)とする花音の前に身を乗り出して、(さと)しにかかった。


「花音だって最近、ちょっとずつ練習の成果が出てきたんでしょ。音程(ピッチ)も安定してきたみたいじゃない」

「……うん、まぁ。練習したし」

「いまの高松さんは半月前の花音と同じ。そっとしてあげなよ。頑張ってる最中なんだから」

「分かってるもん」


 机を睨んで、吐き捨てた。やっぱり素直にはなれなかった。

 かまってもらえなくて寂しい。こっち、見てよ。私の話に付き合ってよ。私たちの輪に入ってきてよ──。

 普段の自分なら、きっと素直にそんな言葉をかけられた。

 あのイヤホンが、あの長ったらしい退屈なチーズ男の曲が、いつもいつも花音の邪魔ばかりをする。






 ◆






「一年だけで壮行会やろう!」


 と、誰からともなく声が上がったのは、立川音楽まつりを前日に控えた六月一日のことだった。

 やっとの思いで指導者の菊乃から『これで大丈夫』の一声を勝ち取った直後である。楽器を仕舞うのも早々に、一年生たちは諸手を挙げて賛成した。もちろん、花音もその場で参加表明を済ませた。この何週間かだけでも数多の課題を乗り越え、弦国管弦楽部の〈天地人〉はどうにか完成に近づいてきている。景気づけには最適のタイミングに違いなかった。


「里緒ちゃんも行くよね?」


 まだクラリネットを片付けていなかった里緒に、花音は何気なく声を投げかけた。参加前提の聞き方をしたことに深い意味があったわけではない。ただ単純に、当然にうなずいてくれるものと思って。

 A管とB♭管、二本のクラリネットをそっと机に並べ、里緒は眉を傾けた。


「私は、いいかな……」

「え」

「その、もうちょっとだけ、練習しておきたいから」


 不意打ちの答えだった。花音が引き留めの声を上げるよりも前に、ごめんなさい、と里緒は頭を下げてしまった。その小さく丸まった肩には、しかし有無を言わせぬ確かな抵抗の意思が存在していた。

 背後の机には書き込みで真っ黒になった楽譜が、一枚、二枚、三枚、四枚──。

 その時、いつかの紅良の言葉が鮮烈に脳裏をよぎって。


「……うん。分かった」


 花音は頑張って笑顔を繕った。


「来たくなったら途中で来てもいいんだよ!」


 それは今まで浮かべたことのあるどんな笑顔とも違っていた。ニセモノの笑顔は(みにく)くて、汚くて、美しさの欠片(かけら)も見つからない。美しくないはずである。だって、自然なものではないのだから。

 居残りと言ってもせいぜい数十分だろう。きっと一時間も経たずに練習を切り上げ、途中で合流してくれるはず。そうに決まっている──。手間をかけて自分に暗示をかけると、得も言われぬ不快感が喉を這い上がってきた。

 さっそく緋菜の周囲に群がった一年生たちが、どこ行こうかー、と盛り上がり始めている。後ろ髪を引かれる思いで、花音もみんなの輪へと戻っていった。一瞬、淡い期待に胸を()かれて振り向いてしまったが、里緒の視線はとうの昔に花音を離れ、細い指で(つか)んだ楽譜の上に落とされていた。








「あんなに里緒ちゃんのクラ、すごい、すごいって言ってたじゃん……」


▶▶▶次回 『C.059 壮行会』

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