C.057 悲しくて、切なくて、前向きな
時に天国的とも称される、優美ながらも儚い旋律の特徴的な、晩年のモーツァルトの作品。とりわけ、コンクールで扱うこととなった〈クラリネット協奏曲〉の第二楽章では、そうした傾向が顕著だった。全体を通して雰囲気が明るくなく、盛り上げを欠き、速度も遅い。“速く”などという名称の与えられた前後の楽章と比べ、見せ場になるような場面が極端に少ない。
ソロパートを務めるのは一本のA管クラリネット。およそ九分近くの曲でありながら演奏記号による指示はほとんどなく、合計百十七か所ものスラーで滑らかに繋がれた、柔らかでスローテンポな音符運びを要求される。フルートや金管や弦楽は基本的に独奏の邪魔をせず、せいぜい三ヶ所程度の“全合奏”の箇所で多少の盛り上がりを描くばかり。時に底から大きく膨れて輝き、時にはそっと独奏の下に潜って、独奏の音色を優しく支え続ける。
しんとして舞い降りた静寂の中を、あるいは抱き締められたように確かな底を感じさせる弦の響きの中を、時に強く、高らかに、そしてまろやかにクラリネットは主題を歌い上げる。少しも心を痛める事柄のない、平和な天上の極楽のソファの上で、誰かの温もりに溺れながら聴かされる子守唄のような、確かな優しさ。耳心地のよさ。
この曲は、この楽器でしか紡げない。
クラリネット奏者でない人間が聴けば、きっと曲に耳を沈めるたびにそんなことを思うのだろうが。
「はぁ…………」
盛大なため息を床に落とし、里緒は耳からイヤホンを引き剥がした。それからスマホの画面をつけて、〈クラリネット協奏曲〉の再生を止めた。
紅良と会った日に買ったCDを、パソコンに取り込んでスマホへ転送したものだった。すでにかれこれ数十回は繰り返し聴き込んでいる。おかげで楽譜を見ずとも、演奏記号の場所が分かるようになってしまった。どこからが独奏でどこまでが全合奏か、どこに強弱記号がかかっているか、どこが即興的独奏か。
(そんなことだけ分かってもな……)
頭を抱えて机に突っ伏すと、こつん、と額に書き込みだらけの楽譜が当たった。当たった場所から楽譜の情報が自動でインプットされればいいのに、と思った。楽譜の暗記なんか機械的に済ませられればいいのだ。
知りたいのは技術的なことではない。
徹頭徹尾、“天国的に”穏やかなこの曲を、どんなイメージのもとに吹けばいいのかが知りたいのである。
いいかげん額が痛くなってきた。頭を横倒しにして、今度は右の頬で楽譜に触れてみる。まぶしく差し込む昼下がりの陽光が、沈み込んだ里緒の顔を真正面から煌々と輝かせる。暖かい、と思った。
(この暖かさじゃない)
里緒は唇を噛んだ。
(こんなに甘ったるい優しさじゃない。もっと哀しくて、切なくて、だけどもっともっと前向きな……)
童謡でも、クラシック音楽でも、はたまたポップソングでも、里緒は演奏する時には必ず曲のイメージを脳内で作り上げてから息を吹き込むようにしている。演奏者の感情と聴き手に伝わる感情は、長さ九十センチのクラリネットの管体を通して密接に繋がっている。悲しみを知らない人間に、音楽で悲しみを表現することはできない。たとえ本物の感情には手が届かなくとも、込められる限りの心の動きを笛の音に込めて吹きたいのだ。
守り抜いてきたその原則が今、楽譜と向き合う里緒を苦しめていた。〈クラリネット協奏曲第二楽章〉は底知れないほどに優しさの満ちた曲なのだけれど、そのように仕立てたイメージに従っていくら吹いてみても、ちっとも元の曲のようにならないのである。
何かが、足りない。
感情のピースが決定的に足りない。
おそらく『優しさ』という言葉だけでは、この曲を表現しきれていないのだ。京士郎の言葉を借りるなら、真摯な心で聴き入る努力が足りないのか。
「…………」
里緒はぼんやりと視線を外に送った。銀色に輝く金属の格子の向こうを、小鳥たちが仲良さげに連れ立って羽ばたいている。賑やかな校庭の歓声も聴こえている。窓の外の平和な世界から引き離されて悩み続ける今の境遇が、いっそう、際立つ。
次の授業まではもう少し時間がありそうだった。
(もっかい聴こう)
水の染み込んだように重たい頭をどうにか持ち上げて、つまんだイヤホンを耳に押し込んだ。
すでに譜面の読み込みは終わっていた。無論、まだまだ楽譜は手放せないのだけれど、表現力に過度の依存がある反面、音符の運びはそれほど複雑なものではなく、練習を始めて三日も経つとノーミスで通せるまでになった。
昼休みや放課後、それから往復の通学時間。手の空いた時間が生じるたび、里緒はイヤホンを耳に入れて〈クラリネット協奏曲〉を聴き続けた。何度も、何度も。モーツァルトの織り込んだメッセージを読み取ることができる日まで、いつまでも、いつまでも。
おかげで夕食時も寂しくなくなった。スマホは防水なので、入浴しながらでも外部スピーカーで聴き入った。その気になりさえすれば時間はいくらでも確保できる。挙げ句の果てには全体練習の合間にさえイヤホンを手にするようになった。ついに昨日、はじめに肩を叩かれて『休みなよ高松……』と諭された。
木管セクション内の一年生の仲間たちにも感想を求めてみた。スピーカーモードに切り替えたスマホから曲を流すと、彼らは眉間にしわの寄った顔を見合わせ、口々に所感を言い合った。
──『なんか、“いい感じの雰囲気”ってことしか分かんないや』
──『吹くの自体は簡単そうに感じるけどなー。実際やってみたら、きっとそうでもないんだろうな』
──『眠くなるね、この曲』
参考になるようなコメントは一つも集まらなかった。冷静に考えると当たり前だったのかもしれない。モーツァルトの半生をそれなりに学んだ里緒でさえ見当のつかなかったものが、初見の同期生たちにすんなりと掴める道理はないのだ。
むしろ、
──『こんなお洒落な曲やるんだね、コンクール参加組の人たちって』
などと言われたことの方が、いまの里緒には心苦しかった。『立川音楽まつり』の演奏だって万全ではないというのに──。
とは言え、はじめての全体練習の時までに吹けていなければ大問題なので、いくら忙しくとも里緒は二足のわらじを履き続けねばならない。
全体練習やパート練では〈『天地人』〉の指摘を受け、それらを噛み砕いて消化する間もなく〈クラリネット協奏曲〉に耳を移し、休憩が終われば譜面に乱雑に貼り付けた付箋を見て指摘を思い出し、ふたたび合奏に戻ってゆく。
そんな日々が、しばらく続いた。
「いまの高松さんは半月前の花音と同じ。そっとしてあげなよ。頑張ってる最中なんだから」
▶▶▶次回 『C.058 頼られたい人』