C.005 伝わらない不満
「あー、もう、疲れた。やっぱ楽器って重いわ……」
「なに腑抜けたこと言ってんの、私より軽いもの運んでるくせに」
「分かってないなぁ、こういうのは比較論じゃ語れないの。だいたいフルートだからって舐めないでよね、ケース含めたらそこそこ重いんだからね」
「はいはい。その愚痴は聞き飽きた」
「ひどっ!」
跳ね上がった不平の声は、しかし続けるべき語彙が思いつかなかったのか尻切れとんぼになってしまった。さざなみのように賑わいの漂う校舎の廊下に、淡々と二人分の足音ばかりが交互に響いた。
茨木美琴は隣を歩く少女の顔を覗き見た。うーん、と伸びをしながら、滝川菊乃は気持ち良さそうに深呼吸をしていた。突き上げた手の先で、提げられた取っ手付きの箱が大きく揺れた。頭、ぶつかりそう──。そう思ったが特に指摘はしないでおいた。
「新学期が始まったばっかりのフロアってさ、なんかいい匂いがしない? あたし、この匂い好きだなー」
「変なこと言ってないで、早く音楽室行かなきゃでしょ」
菊乃とは対照的にせかせかと歩きながら、美琴は苦言を呈した。腕時計の針が示す時刻は十時の五分前。二人はこのあと十時に、音楽室でのミーティングを控えているのだ。
美琴と菊乃はともに、ここ弦国の管弦楽部に所属する二年生だった。つい一時間半前、入学式の会場で校歌や入場曲を演奏してみせたメンバーの一員であり、菊乃の楽器はフルート、美琴はクラリネットとピアノを担っていた。
肩の凝りを訴えていたのはなにも菊乃ばかりではない。入学式という晴れの場である以上、怠惰な振る舞いは決して許されない。式の間ずっと楽器を手に持ち、ぴしりとした姿勢を維持することを要求されていたのである。あまつさえ、そこに残っていたからという理由で会場撤収の手伝いをさせられ、二人は痛んだ身体の違和感をやり過ごしながらミーティングのある音楽室へと急ぐところなのであった。
痛いのは私だって同じなんだからね──。
菊乃からは見えないように腕を小さく回し、美琴はため息をついた。せっかく他のことを考えて痛みを忘れようとしていたのに、わざわざ菊乃が言葉に出してしまったせいで台無しだ。
「ね、さっきのさ」
隣を行く菊乃が、頬を膨らませながらつぶやいた。
「美琴は気に入った?」
「何が?」
「入場曲の演奏の出来。なーんかバラバラっていうか、音にまとまりがなかったっていうか」
美琴の胸に自分たちの演奏の記憶が去来した。曲目は久石譲作曲の〈Oriental Wind〉。飲料メーカーの広告に採用され、一躍有名になった曲である。一般にはピアノアレンジの方が著名だが、原曲では荒ぶ波や風を思わせる流体のように力強い伴奏の音色をバックに、ピアノや弦楽器の主旋律が高らかに、鮮やかに躍動し、主題を歌い上げる。吹奏楽アレンジの楽譜も発売されていて、今回はそれらの楽譜を元に、編曲を菊乃が担当した。
編曲を引き受けた者だからこそ分かる部分もあるのだろう。菊乃の評はあながち外れてはいないように思った。何と言うべきか、お世辞にも耳触りの良い演奏ではなかった。低音の主張が弱すぎて軽たかったし、トランペットは音程をわずかに上へ外していたし、何よりも──。
「各パートの音量がバラバラだったのが大きいんじゃないの」
指摘すると、すかさず菊乃はうなずいた。
「部長の指揮には忠実だけどさ、全体でバランスを取ろうとしてなかったよね。合奏っていうか、パートごとの音をただ合わせただけって感じ。ガタガタだった」
「仕方ないでしょ。定演の発表曲の練習でそれどころじゃなかったんだから」
腕の先で揺れるフルートの箱からそっと目を背け、美琴はぼやいた。だーかーらー、と菊乃がついに不満を声色にも表した。
「いくら何でもパー練セク練だけで本番を乗り切るなんて無茶だったんだよー。せめて本番前くらい合わせた方がいいんじゃないかって、あたし何回も言ったのに!」
「分かった、分かった。その文句は私じゃなくて部長に言うこと」
反応が面倒になってきて、美琴は投げやりに話を断ち切った。「分かってるよ」と、視界の外から不服げな声が返ってきた。
管弦楽部や吹奏楽部が抱えるそれぞれの楽器ごとのグループのことを、“パート”と呼ぶ。さらにその上には、同質の楽器群だけをまとめた“セクション”と呼ばれるパート群があって、たとえば弦国管弦楽部では『低音セクション』や『弦楽セクション』といったセクション分けがなされている。各パートのメンバーだけで担当部分の鍛練を重ねるのが、パー練、すなわちパート練習。そして各セクションごとに集まって行う練習が、セク練、つまりセクション練習である。
美琴たち管弦楽部は毎年四月の半ばに、市内のホールを借りきって春季の定期演奏会を行っている。新入生に対するアピールの場でもある春季定期演奏会は、管弦楽部の面々にとっては校歌や入場曲の演奏などと比較にならないほど大切なものなのだ。だから、その余波を受けて入学式の演奏がなおざりになるのは、毎年恒例と言っても差し支えのない事情なのであった。
しかし菊乃は、どうしても納得がいかないようだった。
「美琴はすぐに部長、部長って言うけどさ」
廊下を足早に歩きながら、菊乃は口を尖らせた。
「部長とか副部長とか、ああいう目上の人たちに意見して、一度でも通ったことってある?」
「まぁ、ないね」
「どうせすぐに言い返されるんだよ。『優先順位ってものがあるでしょ、どのみち入場曲なんて適当に演奏ればいいの、緊張してる新入生に細かいメロディの差異なんか分かりゃしないんだから』──ってさ」
言葉に出すつもりはないが、美琴の意見も部長と同じだった。
そして同時に、菊乃の大切にしている視点がそれとは違うものであることも、理解しているつもりだった。
「せっかくやればできる腕があるのに、手を抜いて雑な演奏に甘んじるなんてバカみたい。他人に聴かせる演奏なんだから、どれも同じくらい大事な機会のはずじゃん……」
ぶつぶつと独り言のように文句を垂れながら、菊乃は次第に歩く速度を早めていく。
追いかける美琴の心の中では、今、ふたつの気持ちが背中を合わせて同居していた。菊乃に共感する気持ちと、共感しない気持ちのふたつだった。
(そりゃ、せっかくやるんだから完璧にしたいっていう思いも、分からなくはないけど)
足元を見つめながら美琴はぼやいた。すたすたと視界に出入りする足先が、二律背反に迷う心の有り様を分かりやすく可視化してくれていた。
実際問題、いまの管弦楽部には入場曲ごときに割ける練習時間の余裕はないのだった。『完璧』と『不完全燃焼』を切り分けるボーダーラインの位置にしても、それこそ人によって違う。……それに、少なくとも自分は完璧に吹いている自信があるから、他がどうだろうが知ったことではないし。
──ふと我に返ると、菊乃との距離が空いていた。急ぎなさいと言った側がこれでは立場がない。美琴は慌てて、追い付こうと駆け足になった。
その時だった。
すぐ脇の教室から飛び出してきた生徒が、勢いよく美琴の横っ腹にぶつかってきた。
『どん』と音が弾け、鈍い衝撃と痛みに美琴は思わず目を閉じてしまった。次に目を開けた時には、ぶつかった相手はすでに美琴の視界から消え去ろうとしていた。
「あっ、ちょっとっ!」
すぐさま振り返って、逃げるように駆けていく生徒に向かって叫んだ。ぐいと肩を掴まれたように、生徒は美琴を振り向いた。
その顔付きを目にした美琴の頭から、口にするべき叱責の言葉が吹き飛んだ。
彼女の瞳は、口は、眉は、まるで幽霊にでも遭遇したかのような恐怖の色に塗りたくられていたのだ。
「ごっ……ごめんなさぁい────!」
振り向きざま謝罪の言葉を叩き付けて、生徒は階段を転がり落ちるように降りていった。呆気に取られた美琴は、憤るのも忘れてぼんやりとその背中を見送った。先を行っていた菊乃が駆け戻ってきた。
「美琴、大丈夫? 楽器は?」
「クラも私も大丈夫」
美琴はまだ怪訝な表情を崩せないまま、それだけを答えた。菊乃がついと顔を上げ、教室の入り口を見た。『1-D』の文字が、廊下をゆったりと流れる風に乗って揺れていた。
「今の子、一年みたいだね。どうしたんだろ」
「さあ……」
二人は顔を見合わせ、少しの間、そこに佇んでいた。
「……また、見ちゃったな」
▶▶▶次回 『C.006 失望の昼、失意の朝』