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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第二楽章 漆黒の魔笛は哀を歌う
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C.056 〈クラリネット協奏曲〉

 




 ──ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト。

 一七五六年、神聖ローマ帝国時代の欧州ザルツブルクに生まれ、わずか三十五歳でその人生を閉じてしまった、オーストリアの作曲家・演奏家である。

 ハイドンやベートーヴェンと並んで最盛期の古典派音楽を支え、現在、世界で最も名を知られている作曲家の一人として挙げられる。その生涯で書き上げられた作品の総数は、判明している限りでも六百曲超。楽譜の残っていないものも合わせると千曲に達するという説もある。すさまじい速度で作曲依頼をこなし続け、希代の天才音楽家と称賛されながら、彼は雇い主や保護者(パトロン)に恵まれぬ不遇な一生をたどったことで知られる。全体を通して長調(メジャーキー)を積極的に用いた作品が多く見られ、その優美さは時として“天国的”とまで形容されている。






「なに、〈クラリネット協奏曲〉について知りたいって?」


 昼休みの時間を狙って職員室に向かうと、京士郎は嬉々として音楽関係の資料を何冊も持ち出してきた。


「君のような子がいつか出てきてくれると思っていた! 授業でいくらでも語ることはできるが、大概の者は古典音楽(クラシック)には関心も持ってくれないからな」

「そ、そうなんですか」


 里緒は無自覚に怯んでしまった。自分だって独奏(ソロ)を任されなければ関心を持つことはなかっただろうと思ったが、ともかく京士郎の厚意はありがたく受け取ることにする。促されるまま、空いている隣の席に腰掛けた。


「モーツァルトのことはどれくらい知ってる?」

「えと、名前とか業績の一部とか……。今まであまり他の曲を聴いたこともなかったんです」

「なるほど、じゃあそこから話を始めよう。かの曲を理解する上で、モーツァルトの半生を知っておくことは無駄ではないからな」


 それはつまり京士郎が語りだけなのではないのか──。とっさに浮かんだ茶々を肋骨の奥へ厳重に封印してから、里緒はうなずいて先を促した。

 かくして、京士郎の長い臨時講義が始まった。




 彼のミドルネーム『Amadeus(アマデウス)』は、“神を愛する”とか“神に愛される”を意味する。まさに名は体を表すことの典型例であっただろう。自他ともに認める神童・モーツァルトの活躍が始まりを告げたのは、実に三歳の頃のことであった。

 幼少期から楽器をたしなんだモーツァルトは、その天才的才能を早期に見出だした父・レオポルトによって、音楽家となるべく高度な音楽教育を受けた。成長するにつれ、彼はたびたび親子でヨーロッパ各地を公演して回るようになり、その優れた作品と演奏技術は訪れた各地で喝采を浴びたといわれている。音楽家でもあった(レオポルト)の売り込みが上手だったこともあろうが、何よりも幼いモーツァルトの卓越した才能が、当時の人々を驚嘆させた。それもそのはず、彼はわずか三歳にして鍵盤楽器の演奏に取り組み、すでに五歳にして作曲を手掛けているのである。

 訪問した都市はウィーンやパリ、ロンドンといった、当時の文化の最先端を(にな)う街ばかりであった。そこからモーツァルトは新たな知識を仕入れては、それを学んで自分のものにしていった。一例として、イタリアを訪問した際、現地神父のジョバンニ・マルティーニに師事をあおぎ、対位法(たいいほう)と呼ばれる音楽理論を身に付けたことなどが知られている。複数の異なる旋律を重ね合わせて調和を生み出す技術である対位法は、のちにモーツァルトの作風に大きな影響を与えた。それは、流行の変遷(へんせん)を経て次第に時代遅れとなっていた対位法を後世に引き継ぐ、貴重な一助になったと考えられている。

 バロック音楽最晩期の大作曲家と名高い、フランツ・ヨーゼフ・ハイドン。『若きウェルテルの悩み』等の著作で知られる文豪、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ。──各地を練り歩き、宮廷や大楽団での演奏を重ねる中で、モーツァルトはさまざまな人々との出会いを重ねた。モーツァルトの作品は無数の人々の人生に交錯し、大きな影響を刻んでいったのだ。




「まさに“神童”との呼び声にふさわしい名作曲家。モーツァルトの全盛期の活躍は、そりゃあ素晴らしいものだったわけだ」


 茶を啜った京士郎は、ところで、といって本を閉じた。


「多くの人はモーツァルトっていうと『悲劇の人』というイメージを持ちがちなんだが、高松くんは?」

「……聞いたことはあります」


 里緒は首肯した。本やネットで情報を調べる過程で、何度も目にしたことだった。

 うなずいた京士郎の指が本の表紙をなぞった。


「ドラマチックな作り話のようにも思えるが、実は、あながち虚飾とも言えないんだよ。盛りの時期を過ぎたモーツァルトの衰微は、非常に著しかったと考えられている」

「ど、どうしてですか。神童って言われるような人だったのに」

「当時の音楽家は生きていくのに苦労させられたんだ。……今とは違ってね」


 京士郎は苦笑した。どことなく、里緒にはその笑みが自嘲のようにも見えた。




 優れた作曲家として方々(ほうぼう)で歓迎されたモーツァルトではあったが、その一方で、いずれの楽団や宮廷にも雇ってもらうことができなかった。当時、フリーランスでの活動はあまり収入に結びつかず、楽団に入れないことは経済的な苦労と直結していた。歳を重ねるうちに、支えてくれた家族や権力者も徐々に亡くなっていき、モーツァルトの収入と客足は遠退く一方になる。さらにはモーツァルト自身、旺盛すぎた活躍の無理がたたって、体調を崩してしまう。

 一七九一年、書きかけのミサ曲〈レクイエム〉をついに完成させることができないまま、モーツァルトは亡くなった。死因はリュウマチ性炎症熱だと推定されているが、活躍を(ねた)んだ者による毒殺ともいわれるなど不穏な諸説が絶えない。埋葬についていった者がいなかったため、墓の正確な場所に至っては現在でも判明していない。

 夭折(ようせつ)であったこと。かつ、その人生の終え方が『神童』と呼ばれた人の末路とは信じられないようなものであったこと。彼が悲劇の人と呼ばれる所以(ゆえん)はそこにある。そして、モーツァルトの(のこ)した後年の作品には、その悲愴な運命の行く末を象徴するかのように、美しく、しかしどこかに深い哀愁の香りを感じさせる切ない曲が、際立(きわだ)って多いのである。




 レクイエムとは、死者の(とむら)いのために演奏されるミサ曲のこと。京士郎は穏やかに息をついた。


「人生の最期に鎮魂歌(レクイエム)を作曲し、しかも未完のまま亡くなってしまった。まるで自分自身の作曲家人生を、自分の手で締め括ろうとしていたみたいだとは思わないか」

「自分を弔うための曲まで作っちゃうなんて……」


 里緒は絶句した。もしも、自分に死の瞬間が迫っているとして、里緒だったら絶対にその恐怖から逃れられないし、目を背けられない。自分を自分で看取(みと)るなんて、できっこない。


(自分の死後のことまで考えられるなんて、モーツァルトは本当にすごい人だったんだ)


 相対的に自分の値打ちが落ちていくのを自覚して、視線も下へ落ちていてしまった。ああ、と京士郎が慌てたように口を挟んだ。


「誤解のないように言っておくと、作曲家は基本的に依頼を受けて曲を作る仕事だからな。モーツァルトの場合はたまたま死の直前に〈レクイエム〉の発注が舞い込んできただけなんだ。すでに依頼人も、発注の経緯も判明している。都市伝説めいた話があるわけじゃない」

「……そ、そうなんですか」


 顔の緊張が和らいだ。ほっとしたような、それはそれで気落ちしてしまったような。


「モーツァルトは生涯で六百以上の曲を残している。中には受注生産された曲も多く含まれていて、音楽家は発注者から作曲料を得ることで生活の足しにしていたんだ。当時の作曲家の生きる道は、今の作曲家のそれよりもずっと幅が狭かった」


 手元に本を広げ、並ぶモーツァルト作品の目録を示しながら、でも、と京士郎は逆接を強調した。


「依頼されて作った曲ばかりじゃない。作曲家自身の意思で紡がれた作品だってある。親しい友人に捧げたりとかね」

「親しい友人……ですか」


 友達同士で交換する手紙や日記みたいな感覚なのだろうか。里緒にはあまり経験がなくて、想像がつかない。京士郎はうなずいた。


「まさにその目的で書かれたと言われているのが、〈クラリネット協奏曲〉だ」




 モーツァルトが死を迎える二ヶ月ほど前、社会団体フリーメーソンの盟友であったクラリネット奏者、アントン・シュタードラーのために書き上げたと言われているのが、〈クラリネット協奏曲・イ長調〉である。モーツァルト最晩年の傑作として名高く、また同時期に製作されていた〈ホルン協奏曲〉が未完成であったこともあり、モーツァルト最後の協奏曲のひとつとしても知られている。

 与えられたケッヘル番号はK.622。これはモーツァルト作品の研究家によって発表順に付けられた作品管理番号のことで、遺作〈レクイエム〉がK.626なので、クラリネット協奏曲はモーツァルトにとって最期から五番目の作品ということになる。三つの楽章によって構成され、それぞれの楽章には【allegro(アレグロ)】【adagio(アダージョ)】【rondo(ロンド).allegro(アレグロ)】の名が与えられている。いずれの名前も、演奏の速度を指示する音楽記号が由来である。

 製作当時、まだクラリネットは開発されて間もない新参の楽器で、オーケストラにおける活躍の機会は限定的だった。現在のように大人数で主旋律を(にな)うような使われ方をされるようになったのは後世のことであるが、この頃、モーツァルトは当時の作曲家としては珍しくクラリネットに目をつけ、その音色を早くから好んでいたという。そればかりか、クラリネットの演奏における特性を知り尽くし、それを万全に活かせるように曲作りを行っていたとまで伝わる。

 そもそもクラリネットが独奏(ソロ)なのは、敬愛していたアントン・シュタードラーが単独で演奏することを想定していたため。まさにシュタードラーという友人ひとりのために制作された曲だったといえる。それほどに作曲者の熱意の込められた作品でありながら、現在、その自筆譜は失われてしまっている。




「経済的にも肉体的にも追い詰められていた晩年のモーツァルトは、早い段階から自分に死が迫っているのを自覚していたと言われる。当時の手紙にもその痕跡がしっかり見られるそうだ。それこそ、〈鎮魂歌(レクイエム)〉に手を付けたくなってしまうのも無理のない話だったのかもしれない」


 京士郎は指の腹を本に押し当てた。


「最後の協奏曲(コンチェルト)になった〈クラリネット協奏曲〉の製作過程で、彼が何を願い、何を(うれ)え、何を込めたのか。今となっては、本当のところは誰にも分からない。モーツァルトはその答えを書き(のこ)していないからね」

「……なんだか、悲しいですね。誰にも分かってもらえないだなんて」


 そうでなくても恵まれない後半生だったというのに。握った拳に爪が食い込んで、自分がひどくモーツァルトに感情移入しているのを自覚した里緒は、切なさでいっぱいの胸のうちをそっと息に乗せて吐き出した。「そんなことはない」と京士郎が笑った。


「彼は稀代の天才音楽家だよ。抱えた悲しみも、苦しみも、すべて五線譜の向こうにちゃんと隠している。それを読み解くのは僕たち後世の人間の役割だ。真摯(しんし)な心で聴き入れば、きっと答えは返ってくる」

「そうでしょうか……」


 うつむくと、口を転げ落ちた小声が床に落ちて散らばる。私には曲の善し悪しの分かる耳なんてない。大作曲家の気持ちなんて分かりっこないのに。──いつものように自信のない自分がとっさに顔を覗かせたが。


「だからこそ、モーツァルトの作品は今も愛され続けているんだ」


 京士郎の畳みかけに、里緒は思わず口にしかけた反論を落としてしまった。










「吹くの自体は簡単そうに感じるけどな。実際やってみたら、きっとそうでもないんだろうな」


▶▶▶次回 『C.057 悲しくて、切なくて、前向きな』

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