C.055 はじめての感情
送られてきていたメッセージの文面はいたって簡素だった。
【今日も遅くなるから】
特に関心が湧くこともなく、電源ボタンに指をかけてスマホの画面を暗転した紅良は、放り出した手でリモコンを掴んだ。テレビのリモコンではなくて、天井の照明を調光するためのもの。居間のテレビなどはとっくの昔に消してしまってある。『常夜灯』のボタンに指圧を押し付け、おぼろなオレンジ色の灯りが点るばかりになったのを確認すると、さっさとベッドにもぐって頭から布団をかぶった。
目覚まし時計の示す時間は午後十一時。
六時間も経てば東から朝がやって来る。また、うっとうしいほどの目映い陽光を引き連れて。
「……おやすみ」
誰にも届かないのを分かっていながら、紅良は布団に埋めた口のなかで、もごもごと独り言ちた。そうしてそれっきり、固く結んだ唇を開くことはなかった。
駅前で里緒や紬と別れ、ひとりだけの家路をたどること数分。時計が午後八時を回る前には、紅良は西元家の玄関に立っていた。
これでも今夜の紅良は、平素と比べればずいぶん帰宅の早い方だった。市民吹奏楽団『国立WO』の活動のある日は、こうも早い時間には帰宅できない。社会人が主体の団体である性質上、国立WOの活動時間は午後六時から九時半までと、ごく遅い時間帯に設定されている。ちなみに練習は週に二度ほどで、練習のない日の方が圧倒的に多い。
暇な日が多いのは困り物でもあった。なぜって、やることが他にないから。勉強は必要最低限の分量で十分だと思っているし、同じ国立WOに属するつばさや翠は弦国での兼部もしていて多忙な日々を送っているようだ。だから、何もなくて退屈な日は、楽器持ち込み可のカラオケ店に入ってクラリネットを吹いたり、あるいはマイクを手にして歌ったり、自宅に据え置きのアップライトピアノを適当に弾いてみたりしていた。国立WOには高度な奏者が多くて、彼らから薫陶を受けることのできる機会は実に貴重なのだけれど、本当はひとりでどこかにこもって好き勝手に演奏している方が気楽でもあった。
でも、そんな毎日ばかりを送っていると、たまにひとりでいるのが不快になる瞬間がある。
誰かの声を聴きたくてたまらなくなる時がある。
それで、今日くらいは気分を換えようと考え、楽器屋へ向かったのだった。まったくの気まぐれだった。ばったり里緒に会うなんて想定外だったし、里緒の知り合いに新聞記者がいるだなんて予想もつかなかったし、──あんなにぺらぺらと自分の身の上を語ってしまうだなんて、思ってもみなかった。
布団を頭からかぶり続けていると窒息する。やがて我慢の限界を迎えた紅良は、ぷは、と顔を出し、濁った色の息を時間をかけて吐き出した。思い通りのタイミングで眠りに落ちるのは難しい。深呼吸のせいで中途半端に明晰になった頭が、整理しかけの記憶の断片を脳内へ乱雑に並べてゆく。
(高松さん、あんまり驚いてなかったな)
布団の縁に手をかけながら、里緒の反応を思い返した。
吹部の仲間と対立を起こし、三行半を突きつけて立ち去った。そんな身の上を聞かされたら、傍目にはさぞかし協調性を欠いていると感じられることだろう。奇異の目で見られたって仕方がないと思うし、実際に国立WOのメンバーからは「変わってるね」と驚かれた。危険因子と認定したいのを無理やりオブラートで包んで誤魔化したような言い回しに、話してしまったことを後悔したのを覚えている。
布団の底から見上げる夜半の自室の天井は、遠くて、暗くて、深い。どこか里緒の私服や髪の色に似て見えた。闇の中で際立つオレンジの常夜灯に目を細め、
(……高松さんはそんな風に思う人じゃないか)
そっと、口角を上げてみた。
少なくとも表面上の里緒は善人である。他人の悪口なんて言えなさそうだし、そもそも悪口が思い付くのかどうかさえ疑わしい。買いかぶり過ぎだろうか。でも、あの臆病で引っ込み思案な里緒の小さい背中には、そこまでの邪推をする余地は見当たらない。
『西元さんの選んだやり方、間違ってなかったと思う』──。里緒の口にした台詞が唐突に宙を落ちてきて、布団の上で重たく跳ねた。弾みで紅良は失笑を漏らした。
(『私なんかの同意じゃ、頼りないのはわかってるけど』……か)
本当にそう感じてるなら口に出さなきゃいいのに。なんて、普段の自分ならば歪んだ口で言い放っていたに違いない。
半端な笑みはすぐに形を失い、頬の輪郭に沿ってどこかの虚空へ消え失せた。代わりに紅良の胸を支配したのは納得感だった。納得感と、少しばかりの達成感と、あとの部分はよく分からない。昨日までの紅良には経験のない感情だった。
里緒の言葉は不器用で、拙くて、いつも吃ったり途切れるばかりで届きにくい。
でも、だからこそ、それがお世辞や粉飾によって繕われた代物ではないのだと強く感じることができる。あの人付き合いの下手そうな里緒が、世渡りのために器用に嘘をつけるとは思えないから。
今、里緒の贈ってくれた言葉たちは黄金色の剣となって、硬い殻におおわれて守られていた紅良の心臓を深々と貫いている。
「…………」
胸にかすかな痛みが走って、紅良は小さく身を屈めた。
痛みを発した場所は高い熱を持ち、けたたましい勢いで血を送り出していた。
とっくの昔に分かっていた。
実のところ本当に、自分が“協調性を欠いている”ことなんて。
コンクールへの影響が避けられないことを知っていながら、分かりあう努力を放棄して頑なに己の主張を守り続けた去年の自分が、どれだけ醜い姿をしていたかなんて。
それは決して是認されるに値する立ち振舞いではない。だが、そんな紅良の暗部を里緒は肯定した。大袈裟な身ぶりも派手な言い回しも使わず、臆病にしっぽを振って靡いたわけでもなく、ただ、自分の意思にのみ従って。
あの時の里緒はまぎれもなく、紅良の行いを懸命に認めようと励んでくれていた。
こんなことをされたのは初めてだった。
(高松さんは──)
膝を抱え込んだ紅良は、うつむいた。
(──お人好しすぎるんだ)
やれ管弦楽部への入部はやめろ、やれコンクールへの参加は断れと、里緒の心情に寄り添う気のない一方的な提案ばかりを押し付けてきた自分の言動が、今更ながらに恥ずかしいと思った。恥ずかしいが、それよりも里緒の必死の訴えから耳を背け、『私の事情はもういいですから』などと話題を逸らしにかかってしまったことの方が、輪をかけて何倍も愚かしく、恥ずかしかった。
仕方ないじゃない。
慣れてなかったんだから。
誰かに同意してもらえることなんて、今まで一度もなかったんだから──。
不意に泣きたいような衝動が頬を走り上ってきた。だが、あいにくと紅良の涙袋には涙のストックがない。代わりに紅良は布団に顔を押し付けた。心の火照りを誤魔化す手段を、紅良は他に知らなかった。
(うなずいてもらえるって、認めてもらえるって、こんな気持ちになることだったのか)
無言のまま、呻いた。正体の定かではなかった最後の感情に、今、最後の部品がぴったりと嵌まるようにして名前が与えられたのを悟った。なすすべもなく全身に染み渡る温もりが恐ろしくて、愛おしくて、紅良はしばらく布団の海の底で身動ぎ一つも取ることができなかった。
か細いクラリネットの音が静かに響いている。
今、まさにこの場所で。
高松里緒というクラスメートの心象を作り上げていた紅良の固定観念が、音を立てて崩れながら新しいカタチに変わってゆこうとしている。
「だからこそ、モーツァルトの作品は今も愛され続けているんだ」
▶▶▶次回 『C.056 〈クラリネット協奏曲〉』