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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第二楽章 漆黒の魔笛は哀を歌う
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C.054 奏でる理由【Ⅳ】

 




「──そうね」


 黙っていた紬が、おぼろげに笑った。眉の端が不器用に下がっていた。


「あなたの言う通りかもしれない。特に大所帯のクラパートじゃ、確かに“協調性”は時として厳しく要求される。……西元さんは、苦労したんだね」


 紅良はまだ里緒の方に肩を向けたまま、口を真一文字に結んでいる。紬の言葉に同意を示す様子はない。その強い眼差しが、だんだんと精力を失って閉じられてゆくのを見て、もしかして、と里緒は思い当たった。

 そもそも紅良は憤っていたのではないのかもしれない。自分自身にトゲのある声をぶつけ、言い聞かせようとしていたのかもしれないと。


「でも、学校の吹部は、楽団である前に()()()だから。西元さんが上手くいかなかったのは部活動としての側面であって、楽団の一員としての西元さんは否定されてはいないと思うの」


 紬は続けた。どこまでも穏やかな紬の声色に、紅良は長い睫毛を閉じて、開く。さらに紬は畳み掛ける。


「私はあなたの音色を知らない。中学でどんなことがあったのかも、詳しくは知らない。でも、里緒ちゃんのクラリネットにあれだけ価値を感じて守ろうとするのは、きっとあなたがそれだけ“音”を大切にしているからよね。西元さんはもっと、自信を持って堂々としていればいいと思うな」

「自信を失ってるわけじゃありません」


 苛立った声で紅良は答えた。里緒も同感だった。

 紅良はもとより確固たる“自分の道”を持っている。彼女に必要なのは、たぶん自信ではない。


「わ、私も……」


 おっかなびっくり、声をかけてみた。紅良が顔を上げた。


「西元さんの選んだやり方、間違ってなかったと思う。……私なんかの同意じゃ、頼りないのはわかってるけど」


 膝上で寝そべるクラリネットに両手を押し付け、里緒は紅良の方に身体を向ける。視線を合わせるのは苦手だった。苦手だったが、努力した。今の紅良に必要なのは自信ではなくて、自分の考え方を否定しない存在なのだ。

 向かい合った紅良の瞳孔がちょっぴり広がった。


「その、私は西元さんの言う通りで、誰かに『やって』って言われたら断れないし、自分の望んでいることが何なのかさえ分からないし……。怖がらずに吹部に離縁状を突き付けたり、自分の意思で外部の楽団を選んだり、そういうことのできる西元さんはすごいなって思う。私には絶対、できないことだから」


 紅良は黙ったまま聞いてくれている。

 こんな(かす)れた言葉でも、伝わる想いがあるのなら。そのわずかな期待が、里緒の喉から声を押し出し続ける。


「西元さんが正しいのか、正しくないのか、その判断は私にはつかないけど……。でも、西元さんが本当に他の人たちの言う『協調性のない』人だったとしたって、それで責められたり咎められる理由なんてないと思う。西元さんは、間違ってなんかないよ」


 そこには字面に現れることのない里緒自身の願望も色濃く入り混じっていたように思う。──私も強くなりたい。西元さんのように、進むべき道を自力で選んで、胸を張って一歩を踏み出せるような強さがほしい。私には強さが足りない──。

 話しているうちに惨めな思いが一気に込み上げてきた。慌てた拍子につい視線を外してしまったが、焦点(ピント)の合わない世界の端で紅良はまだ、じっと黙って唇を噛んでいた。

 見上げた立川の街には無数の音が(うごめ)いている。火のないところに煙は立たず、振動のないところに音は立たない。この世のすべての音は、声は、能動という名の必然によって紡がれる。そんな世界の片隅で、今までも、もしかするとこれから先も、こうして彼女は自ら進んで口を(つぐ)み続けてきたのだ。自分は誰とも相容(あいい)れない異端者なのだという、冷酷な仮定を前にして。


「私も、間違ってないと思う」


 紬がそっと台詞を重ねた。


「音楽の世界には練習法の間違いはあっても、表現法の間違いなんてどこにもないもの」

「……私のことを持ち上げてどうするんですか」


 ようやく紅良の唇は開いた。里緒と紬とを交互に見やる彼女の瞳には、深い困惑の憂いが藍色の影を落としていた。大人びた、あの低くて耳障りのいい声色が、戻ってきている。


「私の事情はもういいですから。いい加減、高松さんの話に戻したいんですけど」

「そうだったね」


 紬が身体を揺すって笑った。強引に戻してくれなくたっていいのに。ありがた迷惑な宙ぶらりんの感慨を、里緒は口をついたため息に乗せてそっと送り出した。もう少し紅良の話を聞いていたかった。

 里緒は結局のところ、コンクールの舞台に立ちたいのか、立ちたくないのか。たったそれだけの結論を出すのに、思えば、途方もなく長い寄り道をしてしまった。


「私────」

「思うんだけど」


 遮るように紬の言葉が重ねられた。


「里緒ちゃんはまず、何のために音楽をやっているのか、っていう部分から考え直してみたらいいんじゃないかな」


 紅良も首肯している。二人の視線が膝上のクラリネットに集まっていくのを感じながら、何のために、と里緒は口の中で反芻した。


「あなたは素敵な音色を持っている。それを犠牲にしてしまわないためには、まず、自分が音楽に取り組む動機をきちんと知っておくのがいいと思うの。以前、私にも理由を少し話してくれたことがあったと思うんだけど」


 話した記憶はあるのだけれど、何を話したのかが思い出せない。恐る恐るうなずくと、でしょう、と彼女は微笑んだ。受け手に安心感を芽生えさせる笑みだった。


「そこから考え始めてみるといいと思うな。もしも自分のやりたいことと、求められていることがずれてきているように感じたら、その時は自分のやりたいことを優先させてあげたらいいの」

「でも、それで周りの人たちに迷惑とか心配、かけてしまったら……」

「『迷惑や心配をかけないようにする』っていうのも立派な動機だと思うよ。私はあんまり好きではないけれど」

「私も嫌い」


 すぐさま紅良が続ける。紅良らしい言い切りは妙に滑稽で、場に不相応な可笑しさが込み上げてくるのをじっとこらえながら、そうか、と里緒は腑に落ちた考えを拾い上げた。

 紅良自身もそうやって割り切ってきたのだ。部活動には向いていないが、音楽には取り組みたい。『求められていること』と『やりたいこと』のバランスを考えた結果、彼女は市民吹奏楽団という自身に最適の環境を見出して、上手く収まっている。

 里緒の『やりたいこと』は、何だろう。

 このクラリネットを通して実現したい未来は、奏でたい世界は、何だろう。

 その答えがすぐに浮かんでくることはない。里緒のことだ、きっと何時間も悩んでしまって、その間に次のアクションを求められてしまうことだろう。それでも、


(……私は、自分と向き合うことを放棄してはいけないんだ。諦めちゃいけないんだ)


 楽器屋に足を踏み入れる直前の自分を思い出して、里緒はそっと肩を縮めた。危機感になりきらない冷涼な感情が、里緒の背中を無言で押すのを感じていた。

 立川駅の方へ流れる人通りはちっとも減りそうにない。立ち上がった紬が、カバンを脇で引き締めた。


「『自分の値打ちを下げてはいけない、それが特に大切なポイントだ。さもないと君は終わりだ。もっとも生意気な人間に、絶好のチャンスがある』」

「誰の言葉ですか」


 紅良が怪訝(けげん)な顔をした。かかとを回して振り向いた紬は、モーツァルト、と答えた。里緒はカバンの中に突っ込んだCDのことを思い浮かべた。あの面白い髪形の人が、そんなことを。

 紬は最後に微笑(わら)って、それから念を押していった。


「里緒ちゃんも西元さんも、自分の値打ちはあんまり下げすぎないようにしてあげてほしいな」









「高松さんはお人好しすぎるんだ」


▶▶▶次回 『C.055 はじめての感情』

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