C.053 奏でる理由【Ⅲ】
コンクールのメンバーに、しかも独奏パートに抜擢されたこと。それは里緒の意思ではなくて、周りの先輩たちのたっての希望だったこと。
音色や演奏技術をあれだけ褒められていた割に、いざ練習を始めてみたら致命的なまでに他人と合わせるのが苦手だったこと。なかなか楽譜から目を上げられず、指揮を見ていないと注意されがちなこと。練習についていくだけで、ずいぶん苦心させられていること。
──思いきって、話してみた。トラックが轟音を上げながら目の前を通過しても、歩いてきた会社員のグループが喧しい笑い声をまき散らしていっても、路上喫煙の不快な臭いに鼻が曲がっても、紬は眉ひとつ動かさずに聞き通してくれた。さすがは新聞記者、普段から仕事として他人の話に耳を傾けているだけのことはあると思った。
「私は高松さんが管弦楽部に入ることにも反対だったんです」
紅良は終始、眉をひそめていた。
「高松さんのクラの音色は神林さんもご存知ですよね。高松さんは絶対、ソロ向きの奏者です」
「そうね……。ソロって言っても、どのみち伴奏と合わせる必要はあるんだけど」
「協奏曲の主役は独奏者です。放っておいても脇役の伴奏が合わせてくれます」
うーん、と腕組みをして、紬は難しい顔をした。異なる価値観の世界に上手く降りる方法を探しているようだった。
「私も高校時代は吹部にいてね。あの頃はずっとテナーサックスを吹いてた。サックスを特別やってみたかったわけじゃなくて、成り行きでサックスパートに分類されただけなんだけど。でも、私の場合は同じ楽器のみんなとひとつのパートを作り上げられるのが楽しくて、好きだった」
木管と金管の橋渡し役となることを期待されて開発された新興楽器・サクソフォーンには、ポップスやジャズも含んだ幅広い活躍の機会がある。中音域を担当するテナーサクソフォーンもその例外ではない。クラリネットほどではないにせよ、大人数でパートを汲んで演奏することもあれば、はたまたソロを任されることもある多彩な楽器なのだ。
それが普通の感覚だというのは、里緒だって嫌と言うほど知っている。アスファルトに目を落とした。視界の片隅を横切った紬の革靴が、半端な色の黒艶を放っていた。
とは言え、と彼女の声が続いた。
「──私にも少しは分かる気がするの。里緒ちゃんや西元さんの立場も、言い分も」
紬は伏し目がちにつぶやいた。
「楽な部活人生じゃなかったから。何度も何度も合奏を繰り返して、書き込みきれないくらいの指摘を食らって、それでも他の子たちと音が合わなくて、一時はテナーサックスなんかやめちゃいたいって思ったこともあった。借りてきたCDで有名な独奏者の演奏に聞き入るたび、たった一本のサックスでも輝いてる彼らが羨ましくて、つくづく自分が惨めだった」
「それじゃ──」
「結果的に、私はサックスをやめなかったし、最後にはパート内できっちり息の合った演奏ができるようになった。一回だけ演奏会でソロパートも経験させてもらって、何とか成功させられた」
ふふ、と漏れた息は笑みのようだったが、何の笑みだったのか里緒には判別がつかなかった。紬は膝の上で両手を組み、それを高い空へと持ち上げて伸びをする。
細い、しかし内側に確かな芯の在処を感じさせる、長くてきれいな腕だった。
「その時、気づいたの。独奏ってどうしても特別な技術が必要のような気がしちゃうけど、本当のところは独奏も合奏も大して変わらない。理想の演奏を懸命に追求していけば、おのずと必要な音にたどり着く。それってきっと万物に共通なんだろうね。よほど特殊なことをやろうとしているのでない限り、たとえ困難に思えるようなことでも取り組んでみるとあっさり実現できたりするもの。能力面の制限なんて、私たちが思っているより遥かに小さいものなのかもしれない。……そうなると、あとは気持ちの問題なのかな」
里緒は息を呑んでいた。「気持ちですか」と問い返すと、紬は口の端を持ち上げた。
まっすぐな意識で曲と向き合っているか。求める音色を探し、耳を澄ませる意気があるか。よりよい音の方へ走り寄ろうとする、確固たる意志があるか。気持ちの問題というのはそういう部分のことを言うのに違いない。
能力面の不足はないと断じた上で、紬は暗に尋ねているのだ。
あなた自身はどうしたいのか、と。
(結局、そこに戻ってくるんだな)
そうでしょう、とばかりに紬は里緒に視線を送る。どうしよう、なんと答えたものだろう。逡巡していると、里緒よりも先に紅良が口を開いていた。
「……気持ちの問題だけだなんて、私には思えないですけど」
トゲのある言葉選びだったが、やっぱり声色は活力を欠いている。紬の両足が紅良の方を向いた。
「そういう精神論の類い、私は嫌いです。いくら気合とか意欲が満ち足りていても絶対に合奏には向かない、そんな人間だっていると思います。誰でも彼でも気持ちで課題を乗り越えられるわけじゃない」
揃えた膝にきつく手を押し当て、紅良は地面を睨む。
紅良の主張は真っ向から紬に対立を挑んでいる。そんな、嫌いだなんて直球的に言わなくてもいいではないか。里緒の密かな狼狽は紅良にも紬にも届かなかった。
紬も応答の口を開いた。
「西元さん──いえ、紅良ちゃんって呼ぼうかな。紅良ちゃんもクラ吹きなのよね」
「今は国立WOに入ってます。活動にはあんまり顔を出せてませんけど。……あと、下の名前では呼ばないでください」
里緒の知らない楽団の名前が出てきた。どこかの市民吹奏楽団だろうか。不愉快そうにしかめられた紅良の顔を、里緒は恐る恐る伺ってみる。
彼女の声は苦しそうだった。
「吹部とか管弦楽部とか、そういう団体には拒否感があるんです、私。中学の時に吹部で色々あって、辞めてしまったことがあって。いい思い出がないから」
「初めて聞いた……」
「当たり前でしょ。話したことなんてなかった」
脳幹で反応してしまった里緒に、紅良は冷たい目を向ける。とっさに口走りかけた謝罪の言葉を強引に噛み殺しながら、欠けていたピースが嵌まって腑に落ちる感覚を里緒は覚えた。管弦楽部への入部に強硬に反対した紅良が、その目で見たこともなかったはずの管弦楽部のことをさんざん扱き下ろしていたのには、そういう理由があったのだ。
「どんなトラブルがあったの?」
紬の問いかけが優しい。紅良は一時の沈黙を挟み、小さく小さく、息をした。
「揉めたんです。曲のイメージとか、練習の方向性とか、そういう部分の考えが他の部員と食い違ってて。私、普段から周りの子と仲良くしてなかったので、対立はちっとも沈静化に向かわなかった。むしろみんな、私を排除する方向にどんどん進んでいった。何度『黙って言うことを聞け』って言われたか。途中から数えるのが面倒になって数えなくなりました」
「は、排除……」
「こんな幼稚な団体なら辞めてやるって思って、吹コン直前に退部届けを叩き付けて出てきました」
猛烈に危ういタイミングを見切ったものである。さぞかし部員たちの恨みを買ったことだろう。里緒は紬を振り返って、苦いつばを飲み込んだ。紬も同じことをしていた。
ひどく重たい話の内容とは裏腹に、紅良は自分の過去をほじくり返すことに特段の苦痛を感じてはいないようだった。むしろ、声になることのない静かな怒りが、目元や口元に次第に表れ始めていた。
「みんなに言わせれば、私は『協調性がない』んだそうです。自覚もあります。でも、それと音楽と何の関係がありますか。私は私なりにいい曲を作ろうとしたし、たくさん助言や進言だってしたつもりです。それを、あの子たちは『ムカつくから』というだけで聞き入れようとしなかった。音楽に向き合う姿勢ができていなかったのは、私の方ですか?」
「西元さん……」
「よその社会人楽団がどうかは知りませんけど、少なくとも国立WOでは、みんな対等な存在として尊重されます。意見は意見としてシステマチックに汲み取って、指揮者や指導者の人たちも理解に努めてくれます。よくも悪くも大人の組織なんです。馴れ合いでコンクール上位を目指して、たくさんのものを犠牲にして、それを“きれいな思い出”と呼んで憚らないような中高の吹部なんかとは、比べ物にならないほどクリーンな世界です」
散ったつばが蛍光灯のきらめきを反射して、白に、青色に、燃えながら落ちてゆく。『きれいな思い出』の語をとりわけ強く言い切った紅良は、視線を引き上げて里緒の横顔を一瞥した。
「私は、高松さんにも同じ道をたどってほしくない」
里緒は声を詰まらせた。
「え、私……?」
「高松さんは私と逆。主張が弱いからすぐに他人に流されて、自分のやりたかったものを見失ってしまうタイプだと思う。現に今、参加したかったのかどうかも分からないコンクールのメンバーに強引に加えられて、どうしたらいいのか分からなくなってるじゃない」
「それは……」
「いくら音楽と向き合う気持ちがあったって、向上心に満ちあふれていたって、不向きな人間にはどうしようもない部分がある。詳しいところを私は知らないけど、もしかすると何年か前、高松さんもそれを経験したんじゃないの?」
身体中の筋肉が強張った。
そうだ。二年前、里緒は“いじめ”という形でそれを経験している。
音楽と向き合う気持ちも向上心も関係のない、もっと根元的な問題を抱え、あの時の里緒は吹奏楽部から逃げ出した。逃げざるを得なかった。
(私も…………)
ふとももに爪を立て、結んだ唇の内側で里緒は呻く。胸の奥で燃え上がった暗い感情が、里緒を喰らい尽くす勢いで大きく育ってゆくのを感じた。
「里緒ちゃんも西元さんも、自分の値打ちはあんまり下げすぎないようにしてあげてほしいな」
▶▶▶次回 『C.054 奏でる理由【Ⅳ】』