C.052 奏でる理由【Ⅱ】
掠れて聞き取りづらい声だったが、紅良の意識がふたたびこちらに向くのを感じた。里緒は訴えの続きを口にした。
「分からない。私が本当はどうしたいのか、分からない。コンクールには先輩に請われて参加することになったんだけど、正直、勢いでうなずいちゃったし、断る勇気もなかったし」
「じゃあやっぱり──」
「だけど、『私は参加したかったわけじゃない』って否定する気持ちにも、なれなくて」
紅良からの反応が途絶えた。ぬるくなった手を、頬からクラリネットのケースに戻してみる。冷涼感もさることながら、ざらついた触感に言い得ぬ快さを覚えた。自分よりもケースの存在感の方が大きいのではないかとさえ思えた。
目を閉じれば、無数の音が皮膚を撫でる。車やバイクや自転車の走る音が、人々の足音が、会話が、どこかの店のBGMが、鳥たちの啼き声が、見上げた立川の街を乱雑におおっている。
世界は音であふれている。そこに里緒がいても、いなくても。
「コンクールに一緒に出てほしいって言われた時は不安しかなかった。先輩たちに混じって立派に演奏できる自信なんてなかったし、演奏することになった曲のことだってちっとも知らないし。何より、私、コンクールみたいなものに出場した経験が一度もなくて」
「……ないない尽くしね」
「今、六月の頭にあるイベントで演奏する曲を練習してるんだけどね。パート練でも合奏でもなかなかテンポが合わなくって、私、怒られてばっかりなんだ」
紅良は答えなかった。きっと意表を突かれた顔をしているのだろう。
里緒はクラリネットのケースを抱き寄せた。締め付けられるように縮んだ胸の痛みを、そうすることで多少は誤魔化せるかと思った。
「私は、超人でも、天才でもない。本当はできないことだって、難しいことだってたくさんある。毎回、毎回、ほんのちょっとしたことで演奏を止めちゃうたびに、みんなの視線が身体中に刺さってきて痛いんだ。……私、ほんとは、上手くなんてないんだよ」
「…………」
「だからって、放り出すわけにはいかないし、期待だって裏切りたくない。演奏を台無しにしたくない。だから、頑張ることはやめないけど」
ケースに押し付けていた指をそっと剥がして、続けた。
「本当の自分自身はどう振る舞いたいのか、なんて……。なんにも分からない」
自嘲の混じった声は汚い。気持ちが悪い。決して飲み込むことのないように最後まで吐き出しきってしまうと、ついでに残りわずかな活力までもが身体を抜け出してしまって、里緒の目線は放物線を描きながら暗い地面に落ちていった。
そう、と紅良の声がした。背後を行き交う車のヘッドライトが、並ぶ二人の女子高生のシルエットを薄く引き延ばし、向かいの壁に軽やかに叩き付けて走り去った。
自分は影みたいな人間だと里緒は思う。あの真っ黒で長い影のように、いつも誰かの意向に振り回され、誰かの期待に頑張って応え、誰かのためにうなずいている。まともに身体を支えられる自信もないのに。
里緒は今、誰のために、何のためにクラリネットを吹こうとしているのだろう。
里緒はこのままの姿勢であり続けてもいいのだろうか。
紅良が深い息を吐き出す。その後ろに続いた言葉の語調には、ひとかけらの冷たさも温もりも見当たらなかった。
「ほんと、高松さんらしい。そういうところって」
「ご……ごめんなさい」
「そうやってすぐに謝ろうとするところもだけど」
ぐうの音も出なかった。口を封じられてしまった里緒を、目を細めた紅良はじっと見回した。その目がさらに細く、皿のようになって、クラリネットのケースで止まった。
「『仲間がほしくて管弦楽部に入りたかった』。以前、そう言ってたよね、高松さん」
入部前の会話を里緒は思い返した。確かに、言ったことがある。
紅良からの問いかけは続いた。
「胸に手を当てて考えてみなよ。そうやって手に入れた“仲間”は、高松さんに何をしてくれたわけ?」
「…………え」
「参加するだなんて聞かされていなかったコンクールに、強引に、しかも独奏として参加させられたりしたんじゃないの?」
紅良の声は滑奏音のように低められ、次第に静かな迫力を帯びる。里緒の体温も引きずられるように下がってゆく。
「高松さんはお人好しすぎる。聞く限りじゃ、それってつまり先輩権限で勝手にメンバーに入れられたってことでしょ。普通の人だったら怒るか、せめてもっとちゃんとした説明を求めるもんじゃないの。黙って押し切られちゃうのってどうなのよ」
「う…………」
「求められているとかどうとか、そんな下らない事情は脇に置いて考えなよ。高松さんはコンクールの舞台、立ちたいの? 立ちたくないの?」
その問いかけが何よりも困ってしまう。里緒は唇を噛んだ。甘い痛みが、歯の先に広がった。
すべて見通しているとでも言わんばかりの勢いで、なおも紅良は畳み掛ける。
「高松さんのクラの腕前はすごいと私は思う。そりゃ、高松さんから見れば信用のおけない評価だろうけど、これでも私だって経験者だよ。だから、高松さんの音が管弦楽部から必要とされるのも分かるし、それは少しも不自然なことじゃないと思う。だけど、それは奏者の自由意思を無視していい理由にはならない。多少でも『参加したくない』っていう気持ちがあるなら、それは最大限に尊重されなければいけない。いい、高松さんは優れた奏者である前に、ひとりの独立した人格なの」
「西元さんは──」
ぽつり、浮かび上がった疑問が勝手に声になって、口の外へ落ちた。
「──どうしてそんなに私のことを守ろうとするの?」
紅良の血相が変わった。白々しい色をした蛍光灯の下で、ずいと紅良は里緒に向かって身を乗り出す。そして、反射的に仰け反ってしまった里緒を真っ直ぐに見つめた。──否、睨んでいた。
「バカなこと言わないでよ。あなた自身のことを大切にしてほしいからに決まってるでしょ」
叫ぶような口調だった。里緒は口をぱくぱくさせた。目を逸らしたくてたまらなかったが、そんなことをしたら次の瞬間には居合い斬りで殺されてしまうのではないかと思った。
「高松さんは立派な奏者だよ。その気になって練習すれば、きっと独奏だろうと何だろうとこなせる人だと思う。独奏なんてかえって向いてるくらいかもしれない。でも、だからって参加したいとも思ってない演奏機会に引っ張り出される謂れはないし、そんな時間があるなら自分の好きなように使えばいい。そうじゃないの? 音楽っていうのは強制されてやるものじゃないでしょ?」
「そんな……、私……」
「分かってよ。難しいことなんかひとつも言ってない。私は、高松さんをただの高度な奏者の駒として使い倒そうとするような楽団で、あなた自身の自主性を失ってほしくないだけ。その音は誰にでも再現できる代物じゃないんだってこと、もっと自覚してほしいだけ!」
最後の方は叫んでいるのに等しかった。肩を怒らせ、里緒を鋭い目付きで凝視したまま、紅良は大きく開いた口からすべてを吐き出した。激しく飛び散ったのは苛立ちか、それとも単なる公憤だろうか。いずれにしても里緒はとうとう、まともな反応を返すことができなかった。
紅良は里緒を慮ってくれている。そのくらいのことは理解できている上で、今はただ、ただ、迫ってくる紅良の形相が恐ろしかった。まくし立てる勢いが恐ろしかった。反駁を許さない圧迫感が、恐ろしかった。
ごめんなさいと力無くつぶやいて、紅良が隣のベンチにぐったりと座り込んだ。
「言い過ぎた」
「……ううん」
里緒の声にも力は無かった。
こういう時、もっと気の利いた言葉を思い付いて口にすることができたならどんなによかっただろう。そうでなければ紅良の訴えに応じる勇気か、拒絶する勇気がほしかった。今の里緒ではそのどちらも叶いそうにない。
コンクールに出たいとも、出たくないとも。管弦楽部に居続けたいとも、抜けたいとも。──言えない。
里緒のちっぽけな胸のなかに、口にすべき答えが存在していないから。
不意に肩に手が乗った。
「里緒ちゃん」
「ひゃあっ!」
里緒は甲高い悲鳴を上げてしまった。視野の片隅で紅良の肩も小さく跳ねた。慌てて振り返ると、スーツ姿の女性が真ん丸の目で里緒のことを見つめていた。
「びっくりした。面白い反応するのね」
彼女は相好を崩した。
誰かと思えば、紬である。紅良と同じようなことを言われた。数秒遅れで羞恥心が炸裂して、里緒は上手く目を合わせることもできない。
「知り合い?」
紅良が尋ねてきたので、二人して出会いの経緯を説明した。それから里緒も紬に紅良を紹介してあげた。クラスメートです、といって。
「どうしてこんなところにいるの? ここ、オフィス街だけど……」
「その、すぐそこの楽器屋さんに用事があって」
「あー、プリズム楽器でしょ。私もたまに覗いてる」
「神林さんはこのあたりにお勤めなんですか」
紅良の問いに、紬は公園の隣に建つ箱形のオフィスビルを指し示した。
「あれが職場。日産新報っていう新聞社の支局員をしてるの。有り体に言えば、新聞記者かな」
「新聞記者……!」
ちっとも知らなかった。里緒は目を見張った。
日産新報といえば、朝夕合わせて四百万部の発行部数を誇る、国内最大手の全国紙のひとつである。その日産新報社所属の記者ともあれば、さぞかし紬はエリート階層の人間に違いないのだ。
紅良も関心高く声を上げた。
「新聞記者の勤務って不規則に忙しそうですよね。子育ては大変じゃないですか」
「うん。正直、大変」
紬は里緒の隣にそっと腰掛けた。こうして近くで目の当たりにしてみると、夜の色をしたスーツには無数のしわが細く刻まれていて、日常的に取材に奔走する彼女の働きぶりを彷彿とさせてくれる。
でもね、と紬は穏やかに微笑んだ。
「やっぱり子どもは可愛いから。あの子が待ってるって思うだけで、ちょっとくらいの困難は乗り越えられちゃったりするんだ。うちの会社は子育て中の社員への支援も怠らないでくれるし、頼れる先輩記者さんもいるし、それで今は何とかなってるの。……それに、どうせ頑張らなきゃならないなら、忙しい方が楽しいじゃない?」
里緒はとっさに紅良と顔を見合わせた。そういうものか──。無表情を崩したような顔の紅良が、目付きだけで首をかしげている。学生に置き換えれば『勉強が忙しい方が楽しい』と主張しているようなものだから、ごく自然な反応と言える。
しかし里緒には少しだけ分かるような気がした。
楽しいかどうかはともかく、忙しい方が気持ちは楽になる。横や後ろを省みず、ただ、目の前に敷かれた五線譜の上を歩んでゆきさえすればいいのだから。そこには自分で道を選ぶ苦労もなければ、道を誤っていないかと振り向いて確認したくなる不安もない。
「その、楽しくはないですけど……。忙しい方が色んなこと、忘れていられますよね。つらいこととか、嫌なこととか」
「うん、あるある。それも多忙のいいところかもしれないな」
少し身を乗り出した里緒を見つめ、紬は小さくうなずいてみせる。よかった、同意してもらえた。心が少し浮き上がった。紅良には悪いけれど、同年代以下の人よりも大人に同意をもらえる方が、そこに確かな理由の裏打ちがあるように思えて安心できる。
安心したら不必要なものに思えて、胸に抱えていたクラリネットのケースをそっと解放してやった。ちょっぴり角ばった音を立てて、ケースは里緒の膝に寝そべった。抱っこー、と無邪気な要求を突きつけながら紬の膝に乗りたがる拓斗の姿が、ひんやりとしたケースの影に無言で重なった。
クラリネットは道具。拓斗は子ども。道具と子どもでは本質がまるで違っている。けれど、里緒の目のかけ方ひとつで発する声が変わってしまうという意味では、意外と似ているところもあるのかもしれない。わずかな時間をやりくりして紬が拓斗を育てるように、里緒も学業や家事の隙間に広がる時間を演奏磨きに費やしている。それは『必要だから』か、それとも『そうしたいから』か。
「そういえば」
ふとしたように紬がトーンを下げた。
「さっき、二人で何か話してたみたいだったけど……。邪魔になってなかったかな」
「えっ、いやそんな!」
邪魔になんて! ──思わず口に出してしまってから慌てて紅良の顔色を窺ったが、あれから紅良はじっと口を固く結んだまま、うつむいている。普段の紅良なら皮肉の一つでも口にしているだろうに。らしからぬ反応にちょっぴり驚かされながら、ね、と里緒は心の中で呼び掛けた。
(……この人にも相談してみてもいいかな)
きっと大人だからこそ返ってくる答えがある。見識がある。道がある。そう、信じていたくて。
その時、声には出さなかったはずなのに、紅良の頬にわずかな紅の色が戻ったのを感じた。
「音楽に向き合う姿勢ができていなかったのは、私の方ですか?」
▶▶▶次回 『C.053 奏でる理由【Ⅲ】』