C.051 奏でる理由【Ⅰ】
立川駅の北口から歩いて数分、雑居ビルの合間にそびえる大手雑貨店ビルの一階に、楽器屋『プリズム楽器立川北店』は軒を連ねている。奥行きの広い店内には、CDやDVDから楽器の教本、楽譜、譜面台、ギターやキーボードといった楽器本体に加えて、消耗品の付帯部品、さらにはDJ用の機材や楽器運搬用のケースまでもが、ところ狭しと並べられている。
カバンを脇の下に抱え、里緒は壁に沿ってそびえるCDの棚を見上げた。
「えっと、ジャンルはクラシックだから……」
それらしい棚はすぐに見当たった。作曲者名順に並んでいるのを確認して、後ろから順に【モーツァルト】の名を探してみる。彼の名前はすぐに見つかったが、そこには途方もない数のCDが仲良く顔を覗かせている。これだけあれば〈クラリネット協奏曲〉だって配架されているはずである。少し高い位置の棚を一枚、一枚と漁りながら、他にも知っている名前の曲がないかと目を凝らした。
見つけたCDを購入するつもりで、帰りに銀行に寄ってお金を用意してきた。コンクールへの出場が決まってしまった以上、その演奏曲として選ばれた〈クラリネット協奏曲〉とは、これから長い付き合いを続けてゆくことになる。それなら図書館やレンタルショップで借りるのではなく、きちんとした音源を買って手元に置いておくのが得策だろうと思ったのだ。
「──あった」
つぶやいて、一枚のCDを引き抜いた。ジャケットにはクラリネットやオーボエやファゴットの写真が用いられていた。件の〈クラリネット協奏曲〉を含め、モーツァルト作曲による三つの協奏曲がフルバージョンで収録されているようだ。
ほかの二つの曲名に見覚えはない。それ以前に、こうして棚を見上げてみても、聞いたことのある曲名はせいぜい二つか三つあるかないかといったところだった。だいたい、そもそもモーツァルトとはどんな人物なのかと誰かに尋ねられたとして、語れるような知識を里緒は何一つとして持ち合わせていない。
(ほんとに何も知らないんだな、私って)
背伸びをしてCDを手中に収めながら、ふと、暗澹とした感情が目の奥で濁りを深めた。かりそめにも独奏を担うクラリネット奏者として、この無知は恥じた方がいいのだろうか。でも、こうやって見知った世界の範囲が広がる瞬間を感じ取るのは、情けないのと引き換えに少しばかり心地よくもあって、里緒はそういう感覚を嫌いになりきれなかった。
「…………」
そのまま少しばかり、モーツァルトの棚の前にじっと佇んでいた。
心地のよい達成感はやがて熱をはらんで膨らみ、くたびれた里緒の身体をゆっくりと、つま先から順に包み込んでゆく。
疲れたな──。
そう、思った。
〈『天地人』〉の練習では思った以上に苦戦している。正直、こんなに指摘や注意を受けるだなんて思っていなかった。練習に臨むにあたって一定以上の自主練習は積んできたはずだったし、事実、音程や表現に関してミスを犯したことは一度もない。それよりも、同じパートの美琴や花音とテンポがずれてしまうことの方が、今は重大な課題として里緒の肩にのし掛かっていた。
それでも頑張りたいと思う。食らい付きたいと思う。それは義務感からではなくて、半端な演奏しかできないままに終わらせるような真似はしたくないから。期待をかけてくれた先輩たちの努力を、自分のせいで無駄にしてしまうわけにはいかないから。
だが、これから先は高校野球の応援演奏の練習や文化祭発表曲の練習、さらにコンクール向けのソロパートの練習までもが加えて課されることになる。そうなったら──。
(…………私)
里緒はCDを握りしめた。
(もつのかな)
分からない。どれほどの余力が残されているのか、限界はどこにあるのか、分からない。この世界で何よりもいちばん分からないのは自分自身のことだった。
とはいえ、いつまでもこうして突っ立っていても何かが解決するわけではない。
早く買うものを揃えて家に向かおう。立ちっぱなしで棒と化し始めていた足を叱咤し、CDを手にして歩き出そうとした途端。
不意に、背中に声が降りかかった。
「高松さん」
「うひゃあ!?」
里緒は弾みで飛び上がってしまった。いったい誰だ。聞こえた声が脳内のデータベースと一致するよりも早く、名前を呼んだ人物は里緒の視界に回り込んできた。
なんのことはない、紅良だった。
「……相変わらず小気味のいい反応するのね。大丈夫?」
「な、なんで、ここに」
「私もCDを探しに来てて」
指に挟んだプラスチックのケースを振りかざした紅良は、ちょっぴり笑って、腰を抜かして座り込んだ里緒に手を伸ばした。せっかく差し出されたその手を里緒は何となく避けてしまった。深い理由はなかったが、避けていた。
選んだCDをカウンターに出し、会計を済ませる。財布をしまった紅良と連れ立って店の外に出ると、そこにはすでにきらびやかな色をした夜の街の光が隅々まで満ちあふれていた。
ちょっとそのへんで話さない、と紅良が言った。差し迫った用事があったわけでもないので応じると、彼女は大きな道路を渡った反対側に里緒を連れていった。色温度の高い蛍光灯の光のまたたく夕景のオフィスビル街の谷間に、ほどよくベンチの並んだ公園があった。立川北口公園と言うらしい。
「家に帰りたくない気分の時は、ここにいるの」
「家に帰りたくない気分……?」
うん、と紅良は口角を上げ、座るように促した。それ以上の詳しい話を期待してはいけないような気がして、里緒は黙って求めに応じた。似た感慨に覚えがあったからかもしれない。
途中、コンビニに立ち寄って買った飲み物を口に含みつつ、互いに買ったものを見せ合った。紅良はよく知らないポップシンガーのCDを手に入れていた。【CORDELiA】という名だという。紅良にポップソングの趣味があるだなんて初耳だった。
「モーツァルト買ったんだ」
里緒の開封したCDを紅良はしげしげと眺めた。うん、と里緒は曖昧にうなずいた。購入の動機が紅良と違うのは明らかで、ちょっぴり引け目がした。
「今度、その曲、聴かなきゃならなくなっちゃって」
「聴かなきゃならないって?」
「演奏することになったから」
紅良が目を丸くした。
「それ、独奏だけど」
「うん」
なぜか紅良の口から言われると、“独奏”という言葉の重みが違う。膝に置いたクラリネットのケースに、里緒はそっと手のひらで触れた。B♭管で本番に臨む〈『天地人』〉の練習が始まって以来、里緒のA管はただ無意味に持って行って帰るだけの余分な貨物と化していた。
紅良は目を細めた。
「〈クラリネット協奏曲〉か……。高松さんには向いてる曲かもしれないな」
その手から返されたCDをカバンにしまい込み、里緒も真似のつもりで目を細めてみた。見える世界の幅が狭まるだけで、足元から安心が湧き出してくるのを感じている自分がいる。悲しいことではあるが、やはり里緒は本質的に内向きの人間なのだ。
そうだ、と紅良が独り言ちた。
「管弦楽部、何かのコンクールに出るらしいのね」
「だ、誰からそれを?」
コンクール出場の件は表沙汰にはしていないはずである。どもりながら問い返したが、紅良はそれには答えてくれず、地面へ視線を落とした。
「ってことは本当なんだ」
「……うん」
「高松さんが出るわけではないんでしょ?」
紅良の台詞は明らかに肯定を期待していた。ううん、と口にしようとしたが、乾いた唇が張り付いてしまって声にならなかった。
一瞬の静寂が公園の一角を支配する。紅良が、小さく鼻を鳴らした。何も言わずとも事情を察したらしい。
「出るんだ」
「…………」
「もしかしてさっきの曲で?」
「……うん」
「まさかとは思うけど、独奏?」
「……うん」
「高松さんの希望で?」
「……ううん」
「だから言ったのに」
彼女の声にはあからさまに憤りが満ちている。さしもの里緒も、今度ばかりは言い訳の余地がなかった。紅良の明察の通り、里緒は自ら進んでコンクール参加のメンバーになったのではなくて、半ば強制的な勧誘を受けてメンバーに加えられたのだ。
「コンクールに出るらしいって聞かされた時から、何となく嫌な予感はしてたんだよね。高松さん、そういうの頼まれたら嫌って言えない質でしょ」
ベンチに後ろ手をついた紅良が、冷めた目付きでこちらを一瞥した。里緒は自分が怒られている気分になった。
「高松さんはもっと強くならなきゃダメだと思う。本心では参加したくないって思ってるなら、ちゃんとそれ、伝えなきゃ。無理な話じゃないでしょ」
「……私、参加したくなさそうに見える?」
「見える」
見事な即答だった。
外の世界は仕事終わりの時間帯である。くたびれたような顔をしたスーツ姿の人々が、次々と公園の中を通り抜けては駅の方へと歩いてゆく。いま、里緒は彼らと同じ表情をしているのだろうか。里緒はケースから外した手を頬に当てた。ひんやりとした感触が、どこか柔らかさを欠いた頬に伝わった。
出たくないように見える顔をしていた自覚は、ない。
それがどんな顔を意味するのかも知らない。
そんなことに思いを馳せていたわけではないから。里緒はただ、身体を駆け巡る微かな痺れの中に疲労を感じていただけ。本当にそれだけだったのだ。
里緒はうつむいた。
傾斜のかかった喉から、引っかかっていた本音が転げ落ちた。
「……私にも分からない」
「あなた自身のことを大切にしてほしいからに決まってるでしょ」
▶▶▶次回 『C.052 奏でる理由【Ⅱ】』