C.050 忙しない日々、高まる圧
立川音楽まつり参加曲〈『天地人』〉においては、その勇壮な曲調を最大限に活かすためにも、テンポのよい揃った演奏が必要になる。
とは言っても、テンポを感覚的に把握するのには慣れが必要だし、そもそもポップソングなどと違って曲中で何度もテンポが変わるので、大人数での演奏ともなると指揮がなければ成り立たない。そんなわけで、全体練習では指揮者を務めるはじめが部員たちの中心に立ち、音がずれていないか、遅れたり早まってはいないか、常に確認しながら練習を導いていた。
実質的な演出指導者の菊乃に負けず劣らず、はじめの飛ばす指摘も細かくて厳しい。日頃の愛想も決していいとは言えないので、指揮棒を振るう彼女の指導は菊乃とは別の意味で下級生たちの畏怖を買っていた。
「ストップ」
指揮棒が空を切る手前で制止した。
中途半端な位置で演奏が途切れると、何となく居心地が悪い。もぞ、と小さく身体を動かした里緒の向こうで、はじめは手元の譜面に目をやった。
「二十七番、ペットが若干乱れてる。四つ繋がってる十六分音符のとこね。特に浪江かな」
「は、はいっ」
向こうの席から上ずった声が響いた。一年生のトランペット初心者、浪江真綾である。隣の二年生が横から楽譜を指して、どこのことかを伝えている。
その二年生に対しても容赦なく指摘が飛んだ。
「福山も今のとこ、浪江に釣られたでしょ」
「う……。正直、ちょっと」
「焦らないで。そこ、一番と同じ譜面なんだから。一番ができてるなら二十七番もできるよ」
真綾と福山丈は仲良く肩を縮めていた。指摘が飛んでいるのは、〈『天地人』〉の冒頭や末尾を司る、けたたましい金管楽器のファンファーレ部である。Gの音符が連続して十二個も並んでおり、金管の花形たるトランペットの突き抜けるように明るい音色がもっとも映える見せ場なのだが、音がきれいに揃わなければ曲の冒頭を台無しにしかねないシビアな箇所でもあった。
「ボーンは大丈夫ですか」
トロンボーン二年の下関佳子の問い掛けに、うん、とはじめはうなずいた。
「あとの金管は問題ないかな。瀬戸のホルンも、こないだ滝川に指摘されてた課題はきちんと消化できてきたね」
金管は、である。はじめの手が指揮棒を振り上げ、その口が次の演奏開始地点を指示するのを聞きながら、里緒はぐったりと重たい息を吐いた。次こそ何か言われるに違いない。『十七番のクラ、もう一回吹いてみて』──。そんな台詞を、今日一日ですでに四度は聞かされている。
演奏番号Bからね、との指示を受けて再び演奏が始まる。二人がかりの打楽器や金管の大音響が鳴りを潜め、勢いだけを引き継いだ弦楽器の柔らかな音に寄り添って、クラリネットは穏やかに主旋律を奏でてゆく。時おりオクターブ上の音程に行きつつも、低めに、大人しく、されど不自然な音の切れ間を作らないように。いけるか──。自信が芽吹きかけた矢先、またしても指揮棒が演奏を止めてしまった。
「どうしてもクラがずれるな、そこ」
はじめの声は小さかったが、しかし重たかった。並んで座る花音や美琴が互いの顔を見回した。頭を抱えたくなった里緒は、代わりに口から引き剥がしたクラリネットを少し強めに握りしめて、耐えた。
全体練習が進んでゆくと、誰しも苦手な箇所や演奏法が浮き彫りになる。里緒の場合は、どうやらそれが“合奏”そのもののようだった。音程や音色の作り方は決して間違えないのだけれど、引き換えにいつも他のクラリネットとテンポがずれてしまうのである。
それは基礎練習に取り組んでいたり、誰かの前でソロで吹いている間は、絶対に露呈することのない弱点だった。
──『楽譜を見すぎじゃない? 指揮のこと見てる?』
と、はじめに尋ねられたことがある。まさにその瞬間、里緒ははじめのことを見ておらず、的確な指摘に里緒はうつむくばかりだった。その後の合奏では指揮棒が『止め』の合図をしているのに里緒ひとりが気づかず、一秒以上も演奏を続行してしまったことさえあった。
思えば、どんなに簡単な曲であろうとも、楽譜を目の前に広げて演奏しなかったことは一度もない。その理由も今は分かっているつもりだった。
不安、なのである。
楽譜を目の前に据えておかないと、次に出す音が分からなくなってしまいそうで怖い。どんなに身体で運指を覚えたって、自分の指が勝手に動くのを信用することなんかできないのだ。
再度の合奏が始まった。小節の合間に、あるいは息継ぎの合間に何とか指揮者を仰ぎ見ようとするが、どうしても目が楽譜から離れてくれない。この八分音符を過ぎたら次の音はC、D♭、次は──。
「ストップ」
曲が止まった。里緒は慌ててマウスピースを口から外して、半端に残った息を胃に落とした。
「フルート、十八番のあたりはもう少し音を抑え気味にしたいかも。滝川はいいけど白石がちょっと張り切りすぎかな」
「はーい……」
「それからクラ」
弧の軌跡を描いたはじめの視線が、返す刀でクラリネットパートを斬った。
「ここ、もうちょっとパー練で重点的にやっておいてほしい。初心者の青柳がいるとはいえ、けっこう三人バラバラに聞こえる。青柳は音程、茨木はテンポ、高松はそれに加えて音量の少なさが課題だな」
「……はい」
応じた美琴の声が低くて、里緒は譜面台の前で小さくなるばかりだった。
逃げるように木管セクションの戸を開くと、香織が楽器を傍らに置いて英単語帳をめくっていた。
彼女は顔を上げ、とっさにきびすを返しそうになった里緒を見やった。──びっくりした。いたのか。
「全体練、休憩に入ったの?」
「は、はい。十分間だけ」
ペットボトルを取りに来ようと思って──。思い浮かんだ言い訳はついに声にならず、里緒は首をすくめながら自分の席に走る。香織が、くすっと笑みを漏らした。いつも掃除のときに見ている馴染みの笑顔だった。
「大変でしょ、はじめの指導」
「いえ、そんな……。私が下手なのがいけないんです」
「里緒ちゃんならそう言うかなって思った」
英単語帳を楽器の傍らに放り出し、香織は柔和な笑顔をちょっぴり歪めた。
「でも羨ましいな。私なんか、暇すぎて英語の勉強してるくらいなのに」
「その、三年生の先輩方はどうして、立川音楽まつりには出られないんですか」
「三年生は受験生でもあるじゃない? 毎年、どのくらいの戦力が受験で抜けちゃうのか分からないから、三年生は立川音楽まつりには参加しないっていう伝統になったらしいの。あとは次代を担う新入生と二年生に、練習を通じて仲良くなってもらう目的も兼ねて、かな」
それなりに理屈は通って聞こえたが、練習を通じて二年生との距離が縮まっている感覚は里緒にはまったくなかった。むしろ、里緒の側が失敗の負債をどんどん抱え込み、上級生から遠ざかっている印象さえある。
闇雲に突っ込んだ手の先が、カバンの奥底に沈んでいたペットボトルのふたを捕らえた。引き上げると、すぐそばに差し込まれていたクリアファイルまでもが一緒に出てきた。
「そういえば今日、楽譜、渡されたんだってね」
香織の何気ない声がした。
里緒はうなずいて、中途半端に出かかってしまったクリアファイルを引っ張り出した。中身はコンクール用の楽譜である。まだ一音も吹いていないけれど、昼休みのうちに簡単に目だけは通してあった。
「モーツァルトの曲なんですけど、その……」
「菊乃ちゃんから聞いたよ。〈クラリネット協奏曲〉やるんだって?」
その口ぶりからして、香織はすでに〈クラリネット協奏曲〉が如何なる曲かを知っているのだろう。立ち上がった香織が歩いてきて、クリアファイルの中身を興味深げに覗き込んだ。
「楽譜そのものは短いんだね」
「でも、とってもスローテンポなんです。しかも九十八小節もあって」
里緒は嘆息を隠せなかった。
演奏するのは第二楽章、章タイトルは“ゆっくり”を意味する【adagio】である。演奏は少なく見積もっても七分以上に及ぶことだろう。その間、里緒は舞台の最も目立つ場所に拘束され続ける。
「どんな曲かは調べてみた?」
「いえ……まだです」
「CDとかで聴いてみるといいよ。上手い人の演奏を聴けば、どんなイメージで吹けばいいのかも分かると思うよ」
もとよりそのつもりである。楽器屋の閉店時間はわりかし早いので、練習が終わったらすぐにでも向かうつもりで、すでに帰宅の準備も済ませてあった。
うなずいた里緒を見て、香織は柔らかに微笑んだ。香織の人格を余すことなく象徴する、すべてを仮初めの安寧の中に包み隠す笑みが、そこにあった。
「みんな、きっと里緒ちゃんに期待してる」
その期待が何より嬉しくない。香織の前ではいっそう自分が醜く思えて、里緒は衝動的に口をついたため息を懸命に圧し殺した。
香織でなくてもいい。
三年生の誰か一人くらい、コンクールへの参加に強硬に反対してくれたらよかったのに。
「コンクールに出るらしいって聞かされた時から、何となく嫌な予感はしてたんだよね」
▶▶▶次回 『C.051 奏でる理由【Ⅰ】』