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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第二楽章 漆黒の魔笛は哀を歌う
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C.049 気まずい楽譜渡し

 




「楽譜できた!」


 と、表情筋が張り裂けそうな勢いで笑顔を作った菊乃は、美琴の机めがけて分厚い紙の束の入ったクリアファイルをどんと載せた。


「それは昨日、もう聞いたけど」


 美琴は怪訝(けげん)な声を上げた。五月二十七日、中間試験明けの月曜日である。

 ゴールデンウィーク前に曲目を決めて以降、楽譜を手に入れた菊乃は休日返上で弦国管弦楽部向けの編曲作業を行っていた。それが試験明けの昨日、ようやく終了したらしい。本来の編成には存在しないピアノをどう盛り込むか、人数の少ない編成で如何(いか)にして原曲の雰囲気を維持するかでなかなか苦心し、完成が遅くなったのだという。


「うん! でさ、各パートごとに楽譜を刷ってみたんだ。これからそれぞれ渡しに行こうと思うんだけど」


 菊乃は上目遣いに美琴を見た。


「美琴にも手伝ってもらいたいんだよね」

「私が? なんでよ」

「いいじゃんー、一年生の分だけ任せるからさ。三人だけだよ? 残りの二年生五人分はあたしが渡してくるよ」


 それはつまり、里緒に楽譜を渡しに行けということか。ますます引き受ける気が失せたが、菊乃は返事を聞く前からさっそく里緒(クラリネット)緋菜(ファゴット)小萌(ヴァイオリン)の楽譜だけを選別にかかっている。断らせる気はないようだった。

 編曲の経験があるのは菊乃だけという事情こそあれ、彼女に編曲の作業をすべて任せてしまった負い目もある。


「……分かったよ」


 仕方なく、受け取った。菊乃は口の端を丸く持ち上げた。


「高松ちゃんによろしくね」


 今の美琴には嫌味にしか聞こえなかった。




 美琴と里緒の間には決定的に埋まらない溝がある。そのことを菊乃が理解していないはずはないのだけれど、それでも菊乃としては里緒と仲良くしてほしいのだろう。これでも同じパートの仲間なんだから、と。


(だけど苦手なものは苦手なんだよな)


 階段を下りて一年生のフロアに入ると、微電流にも似た緊張感が身体を包む。里緒とはこの場所で()()()()衝突してしまった過去もある。嘆息し、抱えた楽譜に少し爪を立ててから、D組の教室を覗き込んだ。

 朝一番の教室に人影は少なかった。返却済みの答案だろうか、里緒は自分の席で机に広げられた紙に見入っていた。名前を呼ぶと、弾かれたように顔を上げた。


「な、なんでしょう……」


 駆け寄ってきた里緒の胸に、美琴はフェンシングよろしく楽譜を突き出した。里緒は面食らったように目をしばたかせたが、タイトルを見るや、つぶやいた。


「……コンクールの曲ですか」

「そう。モーツァルト。知ってる?」

「〈クラリネット協奏曲〉……いえ、知らないです」


 クラリネット奏者ならば知っていてもいい曲だと思うのだが。余計な一言をなるべく挟まないように、うつむいて楽譜をめくっていく里緒の頭頂を美琴は眺めた。背が低いわけでもないのに、こうして見ると小さな子だと感じる。いったい何が小さいのだろう。存在感か。迫力か。どれも等しく小さそうだった。


「二年と一年の寄せ集めのメンツじゃ、使える楽器が少なすぎて曲選択の余地がなかったわけ。で、それになった。悪い曲じゃないよ」


 選曲理由を説明してやると、「そうですか」と里緒は細糸のような声で答えた。その表情は明るくなかった。


独奏(ソロ)、多いんですね」

「ま。協奏曲だから」

「吹けるのかな、私……」


 (かす)れた声で里緒はつぶやく。苦い毒が喉を上がってきて、寸前で美琴は噴き出すのをこらえた。いったい里緒以外の誰が吹くと思っているのか。


「引き受けたの後悔してるの?」


 尋ねると、里緒は千切れんばかりに首を振った。


「そんなそんな……! 私、そういうつもりじゃ」

「なら、大丈夫でしょ」

「でも……」


 ひととおり目を通し終え、まとめ直した楽譜の束を、里緒は平べったい胸に抱え込む。小さいのは彼女の肩だったのだと気づかされながら、またも噴き出しかけた不満を美琴は喉の手前で食い止めた。どうしてこの後輩は、いつもいつも否定から入りたがるのか。あれだけの人に実力を認められているのに、この()に及んでもまだ『自信ないです』などと(のたま)いたがる。


(高松は知らないだろうけど、私、高松のためにクラリネットのパート譲ってるんだからね)


 ともすると暗い感情が表に出そうになる。余計なことを口走る前に、この場を離れてしまいたい。美琴とて、自ら進んで悪役になりたくはないのだ。

 菊乃からは言伝(ことづて)も頼まれている。里緒からの質問は特になかったので、楽譜を指し示して簡単に説明を加えた。


「コンクール本番は九月末、それまでには立川音楽まつりも甲子園も控えてる。コンクール曲については当面は個人練だけで、パー練とか全体練習は来月の半ば以降に始める予定。要するに立川音楽まつりが終わってからってことね」

「……はい」

「完璧に吹けるようになっておいてほしいとまでは言わない。けど一応、二週間あるわけだから、譜読みはきちんと終えてきておいてほしい」

「……分かりました」


 それさえ聞ければ十分だ。美琴は里緒の前を離れて廊下に出た。去り際に『じゃ』と告げたつもりだったが、口の中にこもってしまって届かなかったかもしれない。里緒からの『ありがとうございました』もほとんど聞き取れなかったのでお相子だった。

 あとは緋菜と小萌にそれぞれの譜面を届けるだけ。続々と登校してきた一年生たちの行き交う廊下を、まずは小萌の待つB組の教室を目指して歩く。


 美琴はやっぱり里緒が苦手だ。

 クラリネットの腕前はともかく、あの態度、あの姿勢。小さくなる必要なんてどこにもないのに。


(見てなよ)


 気づけば大股になっていた。


(いつか絶対、上回ってやるんだから)


 菊乃の目論見(もくろみ)は完全に踏みにじってしまった形になったが、致し方あるまい。私は菊乃の思うような善人じゃないんだから──。穴を開けそうな鋭さで床を睨みながら歩く美琴の横を、(さわ)らぬ神に(たた)りなしとばかりに一年生たちが避けてゆく。








「みんな、きっと里緒ちゃんに期待してる」


▶▶▶次回 『C.050 忙しない日々、高まる圧』

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