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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第二楽章 漆黒の魔笛は哀を歌う
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C.048 気に入らぬ再会

 




 五月二十三日から二十五日までの三日間、弦国は年に五度の定期テスト期間に突入する。一年生にとっては初めての定期テスト、一学期中間試験である。

 直前の一週間は部活も休みになる。欠席の遅れを取り戻すべく、必死に授業に食らいつく里緒。友達に頭を下げて回りながら、取り忘れていた板書を写す花音。余裕の表情を浮かべる芹香。徹夜すればいいでしょ、などと楽観視を崩さない翠やつばさ。D組のクラスメートたちの学習状況は三者三様だった。

 そして恐らく客観的事実として、自分は勉強のできる側の人間なのだろうと紅良は思う。


「ねー西元ぉ、ここ教えてよー。里緒ちゃんもよく分かんないって言うんだよぉ」


 昼休みにもなると時おり、甘ったるい声を上げながら花音が泣き付いてくる。無下にするのも気がとがめて、一緒にプリントの箇所を見てやりながら、紅良はいつも気づかれない程度の吐息を肺の奥に押し込んだ。頼られるのも案外、面倒くさいものだ。

 中学では勉強でも音楽でも、誰かに頼られることは一度もなかった。頼られることと頼られないこと、どちらが幸せなのかはよく分からない。


「……で、あとは普通に動詞を過去形にするだけ。現在完了は理解できてるんでしょ。その時制をちょっといじってやればいいわけ」


 ところどころに下線を引いてやりながら説明を加えると、花音の瞳からは呆気ないほど簡単にクエスチョンマークが消える。ふーん、とか、へぇ、とか適当な相づちを打っていた彼女は、紅良の解説をすべて聞き終えるや、不安など何もないかのような顔をして立ち上がるのだ。


「ありがと! 里緒ちゃんにも説明しとくー!」


 そしてそのままきびすを返し、里緒のもとへ駆けてゆく。里緒と紅良の間を往復するのは決まって花音の役目で、里緒が自分から紅良のもとへ疑問の解決にやって来たことはなかった。いや、それ以前に、里緒は普段からほとんどまったく自分の席を動かなかった。


(それは私もか)


 ひとりの自習に戻りながら、あるいは元いた友達の輪に戻りながら、紅良は浮かびかけた不審な笑みをそっと噛み砕くのだった。






 弦国は(まが)うことなき進学校である。日常の学習進度も早いし、文科省指定の教科書に加えて分厚い学校独自の副教材まで配られている。当然、中間試験や期末試験の科目数も多く、試験の難易度がどれほど釣り上げられているかも分かったものではない。

 早めに行って、直前の単語確認でもしておくか──。

 試験初日を前にして、つい、そんな気まぐれを起こしてしまったのが、紅良の運の尽きだった。


 朝七時の国分寺駅のホームには、どことなく見覚えのあるセーラー服の姿があった。クラリネットのケースを手にし、コンコースへ向かう階段の手前に立って単語帳をめくっている。まるで誰かを待ち伏せでもしているかのようである。頭の後ろでポニーテール状にまとめられた長い髪を前に、紅良は無意識に息を呑んでいた。

 最悪だ。

 もう二度と巡り会うことはないと思っていたのに。

 喉の音が向こうに伝わるのも恐ろしい。顔を(そむ)けて足早に隣を歩き去ろうとしたが、(くだん)の少女が紅良に気づく方が早かった。聞きたくなかった声が肩に降りかかった。


「あれ。西元じゃん」

「…………」

「こんなとこで何やってんの。立川の方に行ったんじゃなかったっけ」


 無視は許されそうもない。立ち止まった紅良は、無理に細めた目をそっと背後へ向けた。ポニーテールの少女は単語帳を閉じていた。彼女のまとうセーラー服のデザインは、先月の定期演奏会の時に見かけたものと同じである。


「……芸文附属に行ったんだ、守山(もりやま)

「そういう西元はこのへん? 弦国とか?」


 少女──守山(もりやま)奏良(そら)は、ふんと小馬鹿にするように鼻息を漏らした。


「結局こっちの方の高校にしたわけ」


 奏良は中学の時、吹奏楽部で同じ楽器を吹いていた仲間のひとりだった。そういえば進学先さえ聞いていなかったのだけれど、見たところ芸文附属の吹奏楽部で元気にやっているらしい。

 考えてみると、芸文附属の最寄り駅も国分寺だった。今まで遭遇してこなかったのが奇跡に近かったのだろう。

 口元に浮かべた笑みは決して消そうとしないまま、奏良は値を測るかのような目付きで紅良を見回す。紅良はつばを喉に押し込んだ。(さび)の味がした。


「何の用」

「別に。むかしの知り合いを見かけたから話しかけただけじゃん。用なんて要るの?」

「私、試験前で忙しいんだけど」

「あっそ。相変わらず勉強()()精が出るね」

「学生の本分は勉強でしょ」

「ふーん、それが好き勝手やってさんざん部活の中を荒らしてくれた人の言い分なんだ」


 奏良はまだ笑っている。その瞳に、声に、冷たい色の光が走った。

 面倒事の予感がした。やっぱり返事なんかしないで、あのまま走って逃げればよかった──。唇を噛んだ紅良の向こうで、上り電車の出発を告げる構内アナウンスの声がけたたましく鳴り響いた。




 高校に上がる前、西元家は弦国と同じ国分寺市にあった。最寄りの中学は市立第六中学校と言った。吹奏楽の有名な中学で、コンクールでも上位大会への出場はまったく珍しくなく、芸文附属を志願する生徒が数多く在籍していたように思う。

 かつて、紅良もその一人だった。一時期は吹奏楽部に属していたこともある。

 同じパートの中でトラブルを起こし、退部届けを叩き付けて部を飛び出したのは、中学三年に進んで少しした頃のことだった。折しも吹奏楽コンクール出場に向けて練習に励んでいる最中のことで、その年、六中のコンクールの進撃は何の偶然か、都予選のダメ金に沈んだ。

 当時、クラリネットパートを取り仕切っていたのが、いま目の前にいる守山奏良である。そうでなくとも部外の知り合いが少なかったのに、退部を機に吹奏楽部の仲間たちとの関係は一気に冷え込み、紅良は一時、学校の中で孤立した。そのことを悪い思い出だとは考えていない。ただ、自分の精神年齢と周囲の精神年齢が食い違っただけ。その程度のことだと思うようにしてきた。

 それでもなお、こうして当時の記憶と向き合うのは苦痛だし、面倒だし、できることならやりたくない。だから弦国でも管弦楽部に入りたくなかったのである。

 不愉快な事柄に自ら進んで首を突っ込みたいと思えるほど、紅良の心は頑強なわけではないから。




 紅良と奏良は身長も体格も近い。せめて精一杯の威圧感の演出を兼ねて、紅良は斜め前までやって来た“元仲間”の少女を睨んだ。いつしか彼女の宿す瞳の光には、(あわ)れみのような揺らぎが混じっていた。


「弦国って吹部がないんだってね。管弦楽部だっけ、西元も入ってんの?」

「入ってない」

「ふーん。ま、その方が弦国(そっち)の管弦楽部のためになるかもね」


 わざわざ突っかかって来てまで彼女は何が言いたいのだろう。天井から下がる緑色の時計の針を黙って見つめながら、芸文附属を“クレームセーラー”と呼ぶ花音の名付けセンスを紅良は初めてまともに評価する気になった。ただただ、一刻も早く勉強に戻りたい。それだけが願いだった。


「こないだ、うちの部に弦国の人が来てさぁ」


 奏良が汚らしく笑った。


「見学してったんだよね、練習。コンクールに出たいから練習風景を知りたいとか何とか、そんなようなこと言ってたなぁ」

「コンクールに?」


 気づいた時には尋ね返してしまっていた。奏良は眉を持ち上げた。


「吹コンじゃなかったよ。何とかいう、知らない名前のコンクール。気になるわけ?」

「……いや」


 そのあとに続く言葉がとっさに浮かんでこなかった。

 いったいどういうことなのか。弦国の管弦楽部はコンクールには参戦しないのではなかったのか。少なくとも以前、里緒はそう言っていたはずである。


 ──『個性が埋もれるとか、出る杭が打たれるとか、そういうことはきっと心配しなくてもいいんだと思う』


 いつかの里緒の台詞が、電車の到着でどっとホームにあふれ返った人々の波に押し流されてゆく。弦国管弦楽部にとって芸文附属の吹奏楽部は天敵にも等しい相手のはずで、そんな相手のもとに練習の見学を申し込むというのだから、コンクールへの参加はすでに決定事項なのに違いない。

 管弦楽部そのものは至極どうでもよかった。

 果たして里緒は巻き込まれていないのか。その一点が気にかかった。


「ま、少なくとも誰かさんに活動を引っ掻き回されることはないわけだし。何のコンクールか知らないけど、せいぜい頑張ってーって感じだよねー」


 挑発的な言葉を並べ立てるのにも飽きたのか、じゃねー、とばかりに奏良はひらひらと手を振って紅良の前を横切った。最後の最後まで悪意の()()ちていた、しかし少しばかり強張ったままのセーラーの背中を、真一文字に結んだ唇で紅良は見送った。









「引き受けたの後悔してるの?」


▶▶▶次回 『C.049 気まずい楽譜渡し』

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