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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第一楽章 春への憧れ、明日への焦がれ
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C.004 闇の記憶

 




 明日はオリエンテーションであるから、教科書は不要。配布資料があるかもしれないのでカバンは持ってくること。

 全員の自己紹介が終わったのを確認すると、最後にそう言い置いて、京士郎は颯爽(さっそう)と教室を去っていった。黙っていれば格好いいのに──。後ろ姿にむず(がゆ)い思いを募らせたのは、きっと里緒だけではないはずだった。

 一時限目の終了を報せるチャイムが校内に響き渡る。机越しに聞いていると、そのメロディはひどく物悲しくて、里緒はうつむきながら上半身を起こした。


「はぁ……」


 ため息が(むな)しくこぼれ落ちた。無意識か意識的かも区別できなかった。

 ホームルームは終了している。クラスメートたちは一足先に立ち上がって、関心の向かうままに相手を見つけては友達の輪を広げにかかっていた。里緒はこういう時間が苦手だった。自分ひとりが取り残されている現状を、嫌でも視覚的に思い知らされるから。

 これ以上、ここで何かを期待して待っていても仕方がないか。

 椅子を引いて立ち上がり、しつこく痛む足をなだめながらカバンを持った。新しい教科書やプリントが追加され、カバンは行きよりも輪をかけて重たくなっていた。

 カバンや足の重みをじっと感じていると、不意に視界の先の床にローファーの靴先が現れた。

 次いで、聞き覚えのある声が響いた。


「あのー……。高松さんでいいんだよね」


 この声は誰のものだっただろう。集めたばかりのクラスメートの声を思い返そうとしても、大失敗のことばかりが思い出されてちっとも上手くいかない。仕方なく、


「……合って、ます」


 小さな声で返事をした。

 すると相手はいきなり声のトーンを跳ね上げた。


「だよね! ね、確かさっきクラリネット吹くのが好きって言ってたよね! あれってほんとなの?」


 里緒はまだ(うつむ)いたまま、こくんとうなずいた。出るに任せて自己紹介してしまったが、出任せを口にしたわけではないのである。


「すごーい!」


 少女のテンションの高さは頂点に達した。


「クラリネット吹けるなんてかっこいいなぁ……! ね、私も高校から楽器始めようって思ってるんだけど、クラリネットってどう? 難しいかな?」


 これはもしや、関心を持たれているのかもしれない。

 あんなイタい自己紹介をしてしまう子なのに? ──膨らんだ疑念は好奇心の前にたちまち白旗を揚げてしまい、里緒は怖々と表を上げた。尊崇(そんすう)の表情を顔いっぱいに(たた)えた二つ結びの少女が目の前に立っていた。

 花音である。


「あ」


 二人は同時に声を床に落とした。花音が尋ねた。


「もしかして入学式の前に校門のところで会った?」


 そして、里緒が返事をする前に確信に至ったようだった。


「なーんだ、あれ高松さんだったのかぁ。そうそうそれでさ、クラリネットのこと、もっと教えてよっ」


 元気なのはともかく、いちいち声量が大きい。

 クラリネットのことを教えてだなんて、そんな大雑把(おおざっぱ)なことを求められても──。困り果てた里緒は、助けを求めて目を泳がせた。そしてそこで初めて、自分が自己紹介の時のように周囲の注目を集めてしまっているのを知った。周りの席から身を乗り出していた周りの子たちが、堰を切ったように里緒に話しかけてきたのだ。


「あ、それ私も知りたいなって思ってた。クラ吹けるってことはもしかして吹部経験者だったり?」

「普段はどんな曲を吹いてんの? やっぱクラシックとか?」

「ねね、あたしも吹部だったよ! ピッコロ吹いてた!」

「さっきの管弦楽部の演奏、どう思った? 経験者なら善し悪しとか分かっちゃうんでしょ?」

「え……えっと……」


 里緒はすっかり気圧(けお)された。こんなに質問責めに()ったのは実に三年ぶりのことなのだ。こうして他人に関心を持たれた経験など、十五年間も生きてきたのにほとんど見当たらなかった。

 どうしよう、何か言わなきゃ──。(はや)る気持ちに押されて口が開いた。そして、こういう時に真っ先に里緒の口をつくのは、いつも決まって謝罪の言葉なのだった。


「その、ごめんなさい……。さっき私だけ変なことしゃべっちゃって……」

「なんで謝るの?」


 眉を下げた里緒に、花音はきょとんとした様子で聞き返す。思ってもみなかった反応に、里緒の心と肩はますます萎縮した。


「だ、だって私、ぜんぜん空気読めてなかったし」

「えー、そんなの誰も気にしないよ! むしろ私、高松さんがクラリネットやってたって口にしたから、こうやって声かけられたんだもん」


 ねっ、と花音は微笑んだ。今の里緒にはその微笑みは(まぶ)しすぎた。褒められているのにたまらなく(みじ)めな気持ちになってゆくのは、なぜだろうか。いちいち考えすぎてしまう性格のせいかもしれない。

 考えすぎ、か──。

 なおも肩幅を狭めて縮こまりながら、まぶたをほんの少しばかり、開いた。花音の他にも三、四人ほどが集まってきている。花音の台詞(せりふ)を借りるなら、この四人は里緒が『クラリネットやってたって口にし』なければ、きっと集まってはこなかった。

 出身地を口走ってしまったこと、好きなことまで話してしまったこと。それらを一括りに“余計なこと”と断じようとしているのは、むしろ里緒の方かもしれないのだ。


「てかさ、仙台から来たんだって? わざわざ東京(こっち)の高校受けに来たの? それとも親の転勤とか?」

「向こうはまだ寒そうだよねー。冬場の練習とか大変そう!」

「ね、マイ楽器って持ってたりするの? 演奏聴いてみたい!」

「あっそれ私もー! ねっ、お願い!」


 花音は言わずもがな、クラスメートたちはなおも興味津々の顔付きで里緒の方に寄ってくる。必死に肩を小さくしようとして、縮められる限界まで小さくしてしまったことに気付いた里緒は、もはや、彼女たちの瞳を(いろど)る興味の輝きを受け入れるしかないのを悟った。ああ、教室の外が明るい。季節は春、昼前の世界は伸びやかに燃える陽の光に隅々まで包まれている。

 今、ここで『うん』と応じてうなずけば、この人たちは友達になってくれるのだろうか。窓の向こうに輝く陽の光は、この机にも届くのか。


(そうだよ、私)


 里緒は拳を握り固めた。勇気を出すべきだ。今、このタイミングを逃したとして、明日以降も皆が里緒に関心を抱いてくれる保証などどこにもない。

 力む身体中を吐息でほぐして、花音を見た。他のクラスメートたちを見回した。さあ、言おう。ただ一言『うん』と答えて、それから笑えばいい。たったそれだけでいい。

 にじんだつばで(うるお)い、開きかけた口は──、すぐに中途半端な位置で開きっぱなしになってしまった。




 眼前にいるのは数人のクラスメート。

 昼前、休み時間の教室。

 囲まれるような形で立つ自分の足元に、ほこりの香りをまとって転がる通学カバン。


 視界いっぱいに広がる景色の内容を認識しきったその瞬間、激しい既視感が目の奥で爆発した。この光景を里緒は知っていた。嫌と拒否しても記憶の片隅に焼き付いてしまうほど、中学の頃に何度も目にした光景だった。数で(まさ)る相手に詰め寄られ、よってたかって言葉を叩き付けられた。たちまち耳の奥で燃え上がったのは、ぶつけられて砕け散り、細い身体の内側にへばりついた数多の罵倒。雑言。嘲笑。


「高松さん?」

「どうしたの?」


 動かない里緒を不審に思ったのか、少女たちは口々に尋ねてきた。その後ろに違う声が割り込んだ。


──『何、その目?』『何か不服でもあるわけ?』『すぐ黙り込むよね』『高松さんってずるいなぁ』『ずるいってかキモいよね』『腹の中でなに考えてるのか分かんないもんこいつ』『高松ってか(クロ)松じゃない?』


 里緒の心臓は早鐘のように弾け始めた。見る間に息が浅く、早く、絶え絶えになってゆくのが、この胸に手を当てずとも知覚された。それは、楽器を吹く時の腹式呼吸とは明らかに違う、薄く平らな痛みを胸に張り巡らせる呼吸だった。

 これは決して、作り物の記憶などではないのだ。


(駄目)


 うつむいて、懸命に落ち着きを取り戻そうとした。力んだ肩がじわじわと痛みを宿していた。そこに見えているのは花音の足だろうか。黒ソックスにくるまれた細い足が、二重、三重に重なって見えた。重なっているのは恐らく、過去の──。


 ──『そうやってまた逃げるんだ?』

 ──『こんな根暗、どこに行ったって居場所なんかないに決まってんのにね』

 ──『何でもいいから早くどっか行ってほしいなぁ、黒松』


 虚空から飛んできた声が背中に突き刺さった。流れ出した血のごとく、時間をかけて脊髄に広がってゆく疼痛(とうつう)が、里緒の呼吸をさらに早く、浅く、苦しく、追い詰める。

 こんなところで思い出したくなかった。避ける努力はしていたはずだった。

 怖い。

 恐い。


(もう、無理)


 ひとたび膨れ上がった『無理』の二文字が、こんなにも救いに思えたのは久しぶりだった。早い呼吸を延々と続けながら、里緒は顔を上げた。自分がどれだけひどい表情を浮かべているのか、花音たちの反応を見れば明白であった。

 おろおろと花音が手を伸ばしてきた。


「た、高松さん?」

「ごめんなさい」


 里緒は掠れた声をどうにか絞り出した。ごめんなさい。ごめんなさい。こんな弱いやつでごめんなさい。せっかく話しかけてくれたのに、あんなダメダメの自己紹介もきちんと聞いていてくれたのに──。追い討ちをかけるように、凄まじい重さの自己嫌悪が心を押し潰した。


「私、行かなきゃ」


 何とか、最後まで持ちこたえた。「ごめんなさい……っ」


「い、行く?」

「どこに?」


 答える言葉を思い付く前に、里緒は胸の前にカバンを抱えて床を蹴っていた。全身から吹き出した冷や汗と寒気を振り払いたくて、──それが振り払える代物ではないことを心のどこかでは分かっていながら、夢中で教室のドアを目指して走った。

 早く、早く、誰もいない場所へ行きたい。現実と過去の入り()じってしまったこの世界を、リセットしたい!


「高松さん!」


 花音の叫びが脳天に殴りかかって、逃げるように里緒はドアを開いた。








「せっかくやればできる腕があるのに、手を抜いて雑な演奏に甘んじるなんてバカみたい」


▶▶▶次回 『C.005 伝わらない不満』

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